何で貨物列車というのか知ってるかい?若い船員さんはニコニコと話しかけてきた。その船員さんの笑顔と素敵な制服が気に入って僕たちはすぐに話を聞く気になっていた。引き揚げ船のLSTの甲板の上はあくまで穏やかで船はひたすら日本に向けて走り続ける夕闇迫る一時の事であった。たったマッチ箱くらいの小さな箱の爆弾で広島が長崎が全滅したという話は大人たちから聞いていた。でもそれがどんな事なのかを、深刻に思いにいたる年齢ではなかった。それとはうらはらに、子供心にもやたら開放感に似た気分を味わっていた。夕暮れがせまり叔母が船底に下りてくるようにと迎えに来た。終戦間際になってはなればなれになった母と長兄に替わって母の妹である叔母が残った私と兄、妹を連れて日本に引き揚げようとしているのだ。叔母は十九の年を迎えた日にわけのわからぬ大病に冒された。父と母は子供たちを留守番において早速病院にかけつけた。夜になってやっと連絡がありもう医者は見離して枕も外して只寝かせてあるだけだという。どうせ医者が見離したのなら自分たちが思うように看病しようお前たちはしっかり留守番するのだぞという事だった。一月の満州は只寒い。父は帰ってきて分厚い家庭医学書をかかえて病院に行った父は医学書の一部にあった只冷やす事というのを見つけとにかく冷やし続けた。すると夜明けごろになって叔母の顔にすうと血の気がさし医者を呼びやがて叔母は滝のような小水をして我に返ったそうだ。
そんなことがあった叔母は何としてもこのドサクサの中を子供3人を無事に日本につれて帰らなければという一念だけだったと聞いた。引き揚げ船は無事に佐世保の港に入った。今まで見慣れた風景とは違い山が迫り箱庭のような印象だった。とにかく叔母のお陰で私達兄弟3人は無事に内地にたどりついた。そして生まれ故郷の鶴岡に帰り着き先に引き揚げていた母と長兄に会うことが出来た。
父は終戦間際に召集されそして敗戦外モンゴルに連れて行かれたとゆうことであったが、幸い終戦の年に無事帰ってきた。
あの引き揚げ船LSTの甲板で聞いた若い船員さんの話は今思っても恐ろしく単純な話なのだが、今も時々思い出すのだ。
真冬のシベリアの畑でえさをついばんでいたかもめはその寒さに畑に足が凍り付いて動けなくなった。それを見た農夫がかわいそうに思い一羽づつ丁寧に氷からはがし列車に積んだのだという。シベリア鉄道に載った貨車はひたすら南に向かって走り出した。やがてかもめは飛ぶことが出来るようになった。かもめは渡り鳥になって日本にも飛んできたのだという船員さんの話は終わった。かもめをいっぱい積んだ列車、カモツ列車というのだと船員さんは得意そうだった。
そんなことがあった叔母は何としてもこのドサクサの中を子供3人を無事に日本につれて帰らなければという一念だけだったと聞いた。引き揚げ船は無事に佐世保の港に入った。今まで見慣れた風景とは違い山が迫り箱庭のような印象だった。とにかく叔母のお陰で私達兄弟3人は無事に内地にたどりついた。そして生まれ故郷の鶴岡に帰り着き先に引き揚げていた母と長兄に会うことが出来た。
父は終戦間際に召集されそして敗戦外モンゴルに連れて行かれたとゆうことであったが、幸い終戦の年に無事帰ってきた。
あの引き揚げ船LSTの甲板で聞いた若い船員さんの話は今思っても恐ろしく単純な話なのだが、今も時々思い出すのだ。
真冬のシベリアの畑でえさをついばんでいたかもめはその寒さに畑に足が凍り付いて動けなくなった。それを見た農夫がかわいそうに思い一羽づつ丁寧に氷からはがし列車に積んだのだという。シベリア鉄道に載った貨車はひたすら南に向かって走り出した。やがてかもめは飛ぶことが出来るようになった。かもめは渡り鳥になって日本にも飛んできたのだという船員さんの話は終わった。かもめをいっぱい積んだ列車、カモツ列車というのだと船員さんは得意そうだった。