三陸沿岸域では釜石の北方になる宮古市の歴史に興味を惹かれる。先日、宮古市から盛岡市へ至る国道沿いの紅葉を撮ろうと考えていたが、ふと、この宮古市の歴史的なことに思い至り、創建の古い横山八幡宮へ行くことにした。この八幡宮は白鳳九年、669年の創建と伝えられている。しかし、宮古市の長根I遺跡は市の教育委員会によれば700年代の遺跡とされており、そこからは蝦夷のものである蕨手刀(わらびてとう)が完全な形で発掘されている。この遺跡は市内の中心を西から東へ流れる閉伊川の河口から3Kmほど内陸側の川の北岸の丘陵にある。海も現在より内陸側に入り込んでいて、現在の市街地の一部は海であった。蝦夷の住む集落であった。八幡宮の伝承では寛弘年間と言うから、11世紀初頭に阿波鳴門で突然、鳴動が生じ、憂えた天皇が諸国修験高僧にこれを鎮めるよう布令を出したところ、この八幡宮の神職である禰宜(ねぎ)が阿波鳴門に出向いて、「 山畠に 作りあらしの えのこ草 阿波の鳴門は 誰かいふらむ 」 と言う神歌を詠むと、嵐が治ったことから、天皇よりこの地に「宮古」と言う地名を授かったとされる。また、正治元年、1199年には平泉を脱出した源義経はこの地へ至り、八幡宮に詣で、家臣の鈴木三郎重家は老齢のため、宮守として残ったとされる。和田家文書では荒覇吐王国(あらはばきおうこく)の王都が一時期この宮古に置かれていた可能性がある。当時は閉伊となっていた。それが宮古の由来であるのではないかと思っている。また宮古市の南端に当たる津軽石の地名もやはり、荒覇吐王国の中心地であった津軽の人々が交易を行っていて、一部の人がこの地に定住したのではないだろうか。すぐ近くに見える十二神山も和田家文書に見られている。和銅年間(708~715年)には猿丸太夫がこの地に流され、八幡宮の宮守となったが、「おく山に もみぢふみわけ なく鹿の こゑきく時ぞ 秋はかなしき」の歌を詠み、この歌により罪を許されたと言う。この歌は百人一首にも選ばれている。八幡宮は閉伊川を望む小高い横山の山上にあり、下の鳥居のそばには現在宮古市立第一中学校がある。鳥居手前の手水舎の大石は江戸時代に3年で述べ1万人の人出で、北にある黒森山から運ばれて来たそうだ。階段を上がると社殿が頂上にある。木立の間からは閉伊川の流れが見える。創建の古い割には神木を思わせる巨木が見当たらない。次に曹洞宗の常安寺へ行ってみた。ここは天正8年、1580年に創建されたようだが、慶長16年、1611年の大津波で流され、14年後に現在の地に再建されている。慶長16年12月2日に昼前にM8クラスの慶長三陸地震があり、その4時間後に大津波が押し寄せた。常安寺七世の霊鏡竜湖が当時は舟かあるいは獣道を辿るしか行けなかった浄土ヶ浜を見て、極楽浄土の地と感じ、命名したとされる。黒森山にある黒森神社へも行ってみたが、残念ながら神社のごく近くまで行ってみると狭い道路の工事の最中で先へ進むことが出来なかった。宮古は三陸でも歴史のある街で、遺跡の数も600以上あるようだ。『続日本紀』の「閇村」や『日本後紀』の「弊伊村」、「遠閇伊村」も現在の宮古を指していると思われる。
横山八幡宮鳥居前
手水舎
本殿への階段
本殿
木立の間から閉伊川の流れが見下ろせる
常安寺本殿