釜石の日々

岩手県釜石市に移り住んで16年8ヶ月が過ぎ、三陸沿岸部の自然の豊かさに感動する毎日。

宮古

2015-10-30 10:53:59 | 歴史
三陸沿岸域では釜石の北方になる宮古市の歴史に興味を惹かれる。先日、宮古市から盛岡市へ至る国道沿いの紅葉を撮ろうと考えていたが、ふと、この宮古市の歴史的なことに思い至り、創建の古い横山八幡宮へ行くことにした。この八幡宮は白鳳九年、669年の創建と伝えられている。しかし、宮古市の長根I遺跡は市の教育委員会によれば700年代の遺跡とされており、そこからは蝦夷のものである蕨手刀(わらびてとう)が完全な形で発掘されている。この遺跡は市内の中心を西から東へ流れる閉伊川の河口から3Kmほど内陸側の川の北岸の丘陵にある。海も現在より内陸側に入り込んでいて、現在の市街地の一部は海であった。蝦夷の住む集落であった。八幡宮の伝承では寛弘年間と言うから、11世紀初頭に阿波鳴門で突然、鳴動が生じ、憂えた天皇が諸国修験高僧にこれを鎮めるよう布令を出したところ、この八幡宮の神職である禰宜(ねぎ)が阿波鳴門に出向いて、「 山畠に 作りあらしの えのこ草 阿波の鳴門は 誰かいふらむ 」 と言う神歌を詠むと、嵐が治ったことから、天皇よりこの地に「宮古」と言う地名を授かったとされる。また、正治元年、1199年には平泉を脱出した源義経はこの地へ至り、八幡宮に詣で、家臣の鈴木三郎重家は老齢のため、宮守として残ったとされる。和田家文書では荒覇吐王国(あらはばきおうこく)の王都が一時期この宮古に置かれていた可能性がある。当時は閉伊となっていた。それが宮古の由来であるのではないかと思っている。また宮古市の南端に当たる津軽石の地名もやはり、荒覇吐王国の中心地であった津軽の人々が交易を行っていて、一部の人がこの地に定住したのではないだろうか。すぐ近くに見える十二神山も和田家文書に見られている。和銅年間(708~715年)には猿丸太夫がこの地に流され、八幡宮の宮守となったが、「おく山に もみぢふみわけ なく鹿の こゑきく時ぞ 秋はかなしき」の歌を詠み、この歌により罪を許されたと言う。この歌は百人一首にも選ばれている。八幡宮は閉伊川を望む小高い横山の山上にあり、下の鳥居のそばには現在宮古市立第一中学校がある。鳥居手前の手水舎の大石は江戸時代に3年で述べ1万人の人出で、北にある黒森山から運ばれて来たそうだ。階段を上がると社殿が頂上にある。木立の間からは閉伊川の流れが見える。創建の古い割には神木を思わせる巨木が見当たらない。次に曹洞宗の常安寺へ行ってみた。ここは天正8年、1580年に創建されたようだが、慶長16年、1611年の大津波で流され、14年後に現在の地に再建されている。慶長16年12月2日に昼前にM8クラスの慶長三陸地震があり、その4時間後に大津波が押し寄せた。常安寺七世の霊鏡竜湖が当時は舟かあるいは獣道を辿るしか行けなかった浄土ヶ浜を見て、極楽浄土の地と感じ、命名したとされる。黒森山にある黒森神社へも行ってみたが、残念ながら神社のごく近くまで行ってみると狭い道路の工事の最中で先へ進むことが出来なかった。宮古は三陸でも歴史のある街で、遺跡の数も600以上あるようだ。『続日本紀』の「閇村」や『日本後紀』の「弊伊村」、「遠閇伊村」も現在の宮古を指していると思われる。
横山八幡宮鳥居前

手水舎

本殿への階段

本殿

木立の間から閉伊川の流れが見下ろせる

常安寺本殿

急に下がった気温

2015-10-25 19:17:27 | 科学
10月も終わりに近づくと次第に秋も深まり、紅葉が少しづつ平地でも進んで来る。昨日は遠野の市街地から早池峰山に向かった方向にある重湍渓(ちょうたんけい)へ行ってみた。途中の山間の道にも紅葉が見られ、それを楽しみながら、ゆっくりと車を走らせた。のどかな小さな集落に出たところで、道が分かれ、少し狭くなった渓流沿いの道に入る。どこかの施設の車が2台来ていた。一部にもう紅く染まる木もあるが、全体にはややまだ早い感じがした。山間を流れる渓流のためすでに光は射し込んでおらず、鮮やかさは今一つだ。もう一度来てみることにして帰路に着いた。今日、もう一度行ってみようとしたが、西の空には雲が一面を覆い、天気予報で遠野を調べると、日中は曇天となっている。遠野は諦め、先日行った大船渡の大窪渓流へ行こうと車を走らせた。しかし、こちらも雲が流れ始め、風も強く、気温も昨日より低くなっていて、寒い。結局、今日は諦めて引き返した。日中は12度が最高で、風もあって寒い。家の中もストーブ入れておかないとじっとしていると寒い。パソコンの調子も悪いので、この機会にと思って、分解してみることにした。ここと思われる部品を少しいじって、立ち上げてみると、何とか立ち上がってくれた。いつまで持続するか分からないが、立ち上がっているうちにと思い、ブログを書くことにした。今日、明日は気温が低いようなので、紅葉は一段と進むかも知れない。
重湍渓







早池峰山が見えた

放射線被曝

2015-10-23 19:16:12 | 科学
昨日、共同通信は、「原発作業員のがん死亡リスク増加 低線量被ばくでも」と題する記事を出した。欧米の原子力施設で働く30万人以上を対象に疫学調査した国際チームが、世界の5大医学雑誌の一つである英国医学誌「British Medical Journal」に調査結果を発表した。英国、米国、フランスの原発などで1944~2005年の間に1年以上働いた約30万8300人のうち、白血病以外の癌で死亡した1万9064人について分析し、被曝がなくても癌で死亡する可能性を1とした場合、1mSvの被曝ごとに1万分の5程度死亡リスクが上昇すると推計され、上昇率は高線量のデータと同程度だったという。1万9064人のうちでは、209人が被曝により増えた癌死と推定されるとした。この調査結果はこれまでの低線量被曝でも発癌リスクを高めると言う研究内容を改めて疫学的に再確認している。すでに2005年6月30日に、やはり共同通信が、米国科学アカデミーのBiological Effects of Ionizing Radiation-VII(電離放射線の生物学的影響に関する第7報告)で「被ばくには、これ以下なら安全」と言える量はないと指摘たことを伝えている。一般人の年間被曝線量を1mSv以下と定めている国際放射線防護委員会(ICRP)ですら、低線量被曝には閾値(閾値)がないとしている。つまりはこれ以下なら安全と言う値がない。今年の2月にはスイスのベルン大学の研究者がスイスの子供達が環境放射線から受ける発癌リスクについての研究結果を発表している。地球上では宇宙線や大地放射線と言う自然放射線を必ず受ける。スイスではこうした環境放射線の平均値は毎時約0.1μSvと言うごく低い量だ。しかし、アルプスのような高地に住む子供たちは毎時0.25μSv以下といった低線量であっても線量の増加と小児癌のリスクは正比例し、「低線量の環境放射線は、すべての小児癌、中でも白血病と脳腫瘍にかかるリスクを高める可能性がある」としている。昨年5月16日には理論物理学の山田耕筰京都大学名誉教授らは「福島事故による放射能放出量はチェルノブイリの2倍以上」と題する論文を発表している。2013年に当時気象庁気象研究所におられた青山道夫氏らの発表した論文「Fukushima Accident ― Radioactivity Impact on the Environment 」や米国カリフォルニア州政府資源局沿岸委員会の福島事故による放出量に関する報告書の問題点を指摘した上で、大気中への放出、汚染水中への漏出、海水への直接の流出の総量を計算して、チェルノブイリ事故と比較されている。「そ の結果、福島事故は、政府・マスコミの事故直後からの評価のようにチェルノ ブイリ事故の「約 1 割」「10 分の 1 程度」「1 桁小さい」ものでは決してなく、 チェルノブイリ事故に関する国連科学委員会を含む主要機関のどの推計と比較 してもチェルノブイリ事故を上回り、2 倍超から 20 数倍の規模であることが明 らかになった。」としている。また、「福島県における子どもの甲状腺ガンのアウトブレイクの立ち上がりがチェルノブイリに比べて非常に速いが、このことはチェル ノブイリ事故と比べた福島事故による放射性物質の放出量の大きさと関連している可能性がある。」とも指摘している。
優しい香りを漂わせていた金木犀

植生とともに分布したサル

2015-10-22 19:15:21 | 自然
日本列島では2万年前の最後の寒冷期を境に徐々に気温が上昇し、縄文前期の7000年前には平均気温が9度上昇し、現在よりも2度たかった。こうした気温の変化が列島の植生にも変化を及ぼし、紅葉の中心となる落葉広葉樹も南から北上し、東北まで分布するようになった。こうした気温と植生の変化は動物たちにも変化をもたらした。日本にはニホンザルがいる。元々サルは熱帯の動物で人間と同じくアフリカに起源を持つと言われる。2500万年前に人間とサルが分岐した。サルも人間同様に出アフリカを人間より早く果たしている。500万年前にユーラシア大陸へ進出し、300万年から200万年前には東南アジアへやって来ている。東南アジアの熱帯や亜熱帯に分布していたサルが北に位置する温帯である日本へは50万年前くらいにやって来たと考えられている。日本へやって来たサルはその後孤立して進化した。今では青森県の下北半島のサルが世界の北限のサルになった。縄文時代の貝塚からは、北海道を除いて全国でサルの骨が出土しており、青森県弘前市内の縄文後期の十面沢とつらざわ)遺跡からはサルの土偶も出土している。縄文時代は落葉広葉樹の分布とサルの分布が重なっている。京都大学霊長類研究所の川本芳准教授によると、現在の日本列島でのサルの分布は遺伝子的に大別して東日本タイプと西日本タイプに分かれ、境は兵庫県と岡山県あたりになると言う。東日本では東京の奥多摩とか埼玉の秩父、山梨県の盆地の北東部くらいから新潟に抜ける辺りになぜか、東日本タイプとは異なる集団がいるが、他は遺伝子的にはわずかな変化があるだけで、西日本では地域により遺伝子的には東日本より違いが大きいと言う。このことは西日本のサルの方が古く、東日本のサルは比較的新しく広範に分布して行ったと考えられるのだと言う。50万年前に大陸の南から日本列島にやって来たサルはおそらく朝鮮半島経由で日本に入り、長く列島の西日本域に棲んでいていて、2万年前から徐々に温暖になるとともにサルの餌となる木の実を生ずる落葉広葉樹の北上に合わせて東日本へ分布して行ったのだろう。現在の東北6県ではほぼ遺伝子的に類似のサルが奥羽山系中心に分布しているが、北上山系である五葉山のサルだけは遺伝子的に奥羽山系とは異なり、孤立していると言う。釜石へやって来た頃は仙人峠にサルがいると言われたが、近年ではずっと市街地に近いところでもサルが出没しており、我が家の町内でも民家の畑がサルの被害を受けている。おそらく五葉山の系列のサルが仙人峠へも北上し、数を増やして、海岸に近い東へも移動して来てるのだろう。何故この五葉山系のサルが遺伝子的に孤立しているのかははっきりは分からないが、温暖になった時期に同じ系列のサルが一度は東北まで広く北上して来て、その後の寒冷で一旦南下したしたが、その時、何らかの理由で五葉山系のサルだけが残り、さらにその後の温暖化で、南に下がっていたサルが再び奥羽山系に沿って北上して来たため、それらと五葉山系のサルに遺伝子的な差が生まれたのではないかと言う。
八幡神社付近で見かけた山茶花(さざんか)

大窪山の紅葉

2015-10-21 19:17:21 | 自然
先日の日曜は紅葉を見る人で仙人峠は一杯だったようだ。行かれた職員からの話ではやはり赤が少なく、黄色がほとんどだと言う。釜石へ来てから何度か行ったが、やはり同じ印象だった。仙人峠に比べて昨年初めて行った大船渡市の北端になる大窪山の方がはるかに赤が多く、それだけ見応えがある。昨年は少し遅く行ったので、今年は少し早めに行ってみた。大船渡市の吉浜から、吉浜川沿いに登って行く。狭い道だが、舗装はしている。よく晴れてもいて、とても気持ちがいい。昨年も見たあたりに行ってみるとやはり少し早い感じだ。しかし、すでに綺麗に紅葉している木もあり、林の中をゆっくり歩きながら、紅葉を楽しんだ。仙人峠は遠くからしか眺められないが、大窪山は紅葉のそばで楽しむことが出来る。「熊に注意」の標識があるが、周囲には牧場があるためか、安心して楽しめる。大窪渓谷の流れの音も聞こえて来て、とても和まされる。ゆっくり山道を進んで、昨年引き返した地点を越して、さらに道なりに進んだ。少し下ったところに遊歩道もある。初めての夏虫山の展望台へ向かう。吉浜湾と越喜来湾がともに見渡せる。大窪山や五葉山も遠くに見えた。帰りはそのままの道を下って、越喜来へ出て、釜石へ引き返した。
大窪山

紅葉した木を見つけた

見事な紅葉

林の中をゆっくり楽しみながら歩くことが出来る

自然の織り成す色に驚かされる

紅葉には光が大切だ

遊歩道近くからの越喜来湾の眺め

夏虫山の展望台から 右に越喜来湾が、左に吉浜湾が見える

後期旧石器時代から縄文時代の植生と暮らし

2015-10-20 19:18:23 | 歴史
日本の旧石器時代は日本列島に人類がやって来た時に始まり、青森県の大平山元I遺跡で1万6500年前の土器が発掘され、その年代までとされる。この土器が使われて以降が縄文時代となる。では果たして日本列島へはいつ最初に人類がやって来たのか、それは現在も分かっていない。しかし、日本列島最古の遺跡は出雲市の砂原遺跡で13万年前とされ、釜石の隣の遠野の金取遺跡からも8~9万年前の石器が発見されている。後期旧石器時代は3万5000年前から縄文時代の始まる1万6500年前までとされ、その後期旧石器時代は最終氷期にあたり、2万5000年前には日本列島は海面が現在よりも140mも下がっており、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡などは陸橋となっていて、大陸とつながり、日本海は湖のようになっていた。2万年前にはさらに気温が下がり、対馬海峡と津軽海峡には氷の橋が、間宮海峡、宗谷海峡はやはり陸橋を形成していた。日本列島には43万年前にやってきたナウマンゾウなどの中国北部の動物群やそれ以前からいた動物たちが生息し、北海道にはマンモスもいた。長野県の野尻湖では4万8000年~3万3000年前のナウマンゾウやヤベオオツノシカなどの化石や動物を解体したとみられる骨器や石器が発掘されている。広範囲に移動を繰り返す草食性の大型の哺乳動物を追ってこの頃の旧石器人も定住することなく、移動しながらキャンプ生活をしていた。こうしたキャンプの跡が国内で数千箇所も見つかっている。2万年前の日本列島は現在よりも7度も低く、ちょうどシベリアのような気候であった。山脈には氷河があり、対馬海流が流れないため、日本海側は乾燥し、太平洋側は親潮と黒潮が流れ、日本列島は草原と亜寒帯樹林や東日本には針葉樹林が広がっていた。北海道は永久凍土やツンドラが見られ、落葉広葉樹林帯は西日本に見られた。草原が広がっていたため草食性の大型動物には最適な環境であった。この時代は東北よりも西日本で綺麗な紅葉が見られていたのだ。しかし、2万年前以後、気温が徐々に上昇して行く。しかし、1万年前に一時的に短期間に寒冷期と温暖期が急激に入れ替わり、大型動物たちが絶滅して行く。縄文時代の7000年前には気温上昇がピークとなり、現在よりも2度高く、海面は100m以上上昇し、現在よりも海面が2~3m高くなった。いわゆる縄文海進である。以降はまた現在より1.5度低い2500年前くらいまで徐々に気温は下がっていく。温暖化が進んで行くと、暖かい対馬海流が日本海へ流れ込み、北海道を除いて、落葉広葉樹林が北上する。またその落葉広葉樹林を追うように、沖縄や九州南部に見られていた広葉常緑樹も南から北上して行く。1万年前くらいから半定住が見られるようになり、9000年前頃より定住生活が出現している。この定住生活の見られる9000年前には落葉広葉樹が北海道南部から南の日本列島全土に広がった。縄文人たちは狩猟と植物採取、漁労と言うとても豊かな幸に恵まれることになる。春は若草や木の芽、ウサギやトド、アザラシ、アサリ、ハマグリ、シジミ、カツオなどを採り、夏にはマグロとハマグリ、秋にはブドウ、ドングリ、クリ、シイ、サケ、マスを、冬にはイノシシやシカ、クジラを獲っていたようだ。しかし、地域によって食べられるものは違っていたようでだ。石狩低地以東の北海道はエゾマツやトドマツといった針葉樹が広がり、トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣を捕獲していた。その他の北海道や東北北部ではミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキのような落葉樹が育ち、それらの木の実や海獣だけでなく、カモシカやイノシシも捕獲していた。東北南部はシカ、イノシシ、木の実、カツオ、マグロ、サメ、イルカや魚介類ととても豊かな食生活に恵まれていた。関東では広葉常緑樹の木の実やシカとイノシシ、ハマグリ、アサリ、スズキやクロダイなどを獲ている。日本列島の貝塚の6割がこの地域から見出されている。北陸では雪が多く、そのため家屋は大型であった。トチノキ、ナラのような落葉樹の木の実、シカ、イノシシ、ツキノワグマなどが獲られている。東海・甲信では落葉広葉樹で木の実の他にヤマイモやユリネも見られ、シカとイノシシも獲られていた。加賀・能登・越前・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後などは落葉広葉樹に常緑広葉樹であるシイ、カシなどの木の実もあり、シカとイノシシ、魚介類が加わっている。豊前・豊後を除く九州はシカとイノシシの狩猟が見られ、植生は常緑広葉樹が広がっていた。そして漁労が中心であったようだが、南九州を中心に縄文早期末の7300年前には鬼界カルデラの破局噴火があり、九州の広範な地域が壊滅している。
石蕗(つわぶき)

落葉樹の紅葉

2015-10-19 19:17:51 | 自然
日本列島はその3分の2が森林で覆われている。樹木がよく育ち、森林が発達するのは、年降水量が1000mm以上で、年平均気温が-5度以上の条件の地域で、日本はその条件を満たしているために、森林で覆われている。日本の森林の樹木は気温によって左右されるが、その気温は緯度と標高によって決まって来る。緯度が高くなると、日射が斜めになるため、日射量が少なくなり、気温は下がる。大地は日射により暖められ、その熱が空気を暖める。標高が高くなると空気が次第に薄れていくために、熱を持った空気が少なくなり、気温が下がる。標高が100m高くなるごとに気温は0.6度づつ下がるとされる。標高が2500mを超えると樹木は育たなくなり、高山植物に入れ替わる。日本での樹木の分布は、冬の寒さが厳しい北海道の東北部や、本州の高山地域にはトドマツ、エゾマツ、シラビソなどの針葉樹林が見られる。針葉樹は冬の凍結や乾燥、強い風から身を守るため、小さな針のような葉を付ける。北海道南部の低地から、東北地方、本州中部の高山地域にはブナ、ミズナラなどの広葉落葉樹林が分布する。紅葉落葉樹は春夏秋と、盛んに光合成を行うために大きな葉をつけ、寒さの厳しい冬にはその葉を落とす。関東から四国、九州地方までの冬の寒さが緩やかな地域にはスダジイ、アラカシなどの常緑広葉樹が分布する。雪が積もらない地域なので葉はいつも緑で、冬の乾燥に耐えられるように硬くなっている。九州の南端から沖縄まで、高温で雨の多い地域にはアコウ、ガジュマルなどのやはり常緑広葉樹が分布する。冬の寒さや乾燥がないため、日射を多く受けようとして、高く伸びる。一般に針葉樹は上に伸びることで、日射を多く受けようとし、広葉樹は横に広がることで、多くの日射を受けようとする。針葉樹、広葉樹ともに落葉するものがあるが、針葉樹は日本では唐松ただ1種類だけが落葉する。東北各地で見事な紅葉を見るのはこうした樹木の分布による。葉には緑と黄色の色素が含まれており、落葉樹は秋になり、日射が少なくなって来ると、葉緑体での光合成の効率が悪くなるため、出来るだけ、樹木本体に栄養を集中させるために葉を落とす準備に入る。葉緑体が壊れ、緑の色素がそこから出て、それが光の中の青を吸収し、活性酸素を作り出し、樹木に害を及ぼす。これを防ぐために赤の色素が発生して、青を吸収して、活性酸素の発生を抑える。緑の色素が壊れ始めると、元々あった黄色の色素が目立つようになり、葉は緑から黄色に変わり、さらに赤の色素が発生してくると、オレンジに葉の色が見えるようになり、最後には赤の色素が多くなることで真っ赤な色が見られるようになる。秋は紅葉と共にドングリもよく見られる。日本ではブナやナラのような落葉樹と、カシのような広葉樹に見られ、23種のドングリがあると言われる。しかし、やはりドングリも落葉樹の分布するところに多く、それを餌にするリスもそこには見られることになる。栗も落葉樹でやはり東北の山では胡桃と同じく自生している。東北の紅葉が見事なのはこうした樹木の植生からすれば当然なのかも知れない。
街路樹の紅葉

色付き始めて来た市街地周辺の山

素晴らしい秋晴れの二日間

2015-10-18 19:24:20 | 自然
昨日と今日と二日続けて岩手県の広い範囲で素晴らしい秋晴れとなった。空には雲一つなく、青空が大きく広がった。釜石の近くの岩手県内では遠野の紅葉が最も早いが、それでもまだ平地ではわずかに色付き始めた程度だ。偶然遠野で昨日は素晴らしい紅葉を見かけた。1本の木だけがとても目立っていた。晴れが続くと知って、ネットの大手サイトで紅葉情報を調べると、昨年行った栗駒山はもう終わっていて、猊鼻渓(げいびけい)が見頃となっていた。今朝もとてもよく晴れていたので、猊鼻渓へ行くことにした。釜石自動車道の滝観洞ICで下りて、住田町へ入り、167号線の細い道を走り、340号線へ出て、気仙川沿いを走っていると、川のそばに紅葉が見られた。さらに107号線を走ってから、水沢方面へ行くために397号線へ入るが、ナビはすぐに10号線とある山間の細い道へ誘導した。車一台がようやく走れるような山道だが、しっかり舗装してある。山に上がって行き、熊に注意の標識を目にする。車は全く見かけない。山間の奥にも人家が一軒あったりする。やがて下って、興田川に沿って走っていると、白糸の滝と書かれた滝が見えた。道なりに走って山間を出て、しばらく走ると猊鼻渓に着いたが、そばの駐車場は満車で仕方なく、教えてもらった少し離れた駐車場に止めて、乗船場まで歩く。周囲の山を見るとまだ紅葉が進んでいない。この時点で少し気持ちが萎えたが、ここまで来てしまったので、乗船することにした。船は客が多いためか、満席になるとすぐに漕ぎ出した。船頭さんの洒落た冗談を交えた説明が続く。もうここの景観は100年以上にわたって変わらないと言う。清流にはたくさんの魚が泳ぐのが見える。カルガモたちが船の周囲に群がってくる。乗船客から食べ物をもらうことに慣れているようだ。紅葉の時期には確かに素晴らしいところだろう。どこか北海道の層雲峡の断崖に似た風情もある。毘沙門窟など幾つかの奇岩を見て、最後に終点の大猊鼻岩に着く。上陸して、しばらく見学した後、再び戻りの船に乗り、女船頭さんの見事な「南部牛追い唄」を聴かせてもらった。残念ながら紅葉は見られなかったが、やはり緩やかな渓流をのんびり船に乗ったのはとても気持ちを和ませてくれた。
昨日見た遠野の紅葉

気仙川の紅葉

興田川に注ぐ白糸の滝

猊鼻渓の乗船場

紅葉にはまだ早い

のんびりと船が行き交う

大猊鼻岩

戻りの船で若い女船頭さんの「南部牛追い唄」が響き渡った

富士山噴火への備えは出来ているのだろうか?

2015-10-16 19:16:25 | 自然
最近は夜には10度近くまで下がり、足元のストーブが必要になった。今朝は8度で、最高気温は19度であった。昼は青空が広がり、とても気持ちの良い秋日和だった。午後には雲一つない快晴となり、夕方西の山の稜線付近には暮色が漂い、愛染山のシルエットがくっきりと浮かび、その南の空には三日月が浮かんでいた。日増しに秋が深まって行っている。 火山噴火の原因となるマグマはプレートから生成される。海溝で大陸側のプレートの下に、海洋側のプレートが水分を含んだ状態で沈み込み、沈み込んだプレートから地下の深部で水が放出され、岩石の融点を下げることで、マグマが出来る。地震学の島村英紀武蔵野学院大学特任教授によれば、日本の火山の下にあるマグマは特に粘性が高いため、一旦マグマが噴出すると被害が大きくなると言う。火山の噴火には4種類がある。水蒸気爆発、マグマ水蒸気爆発、マグマ噴火、カルデラ噴火とこの順で噴火の規模が大きくなる。地下で上昇して来たマグマが地下水の近くまで来ると、地下水を高温で温めるため、急激に水蒸気が発生し、水蒸気爆発を起こす。さらにマグマが上昇し、地下水と直接接すると発生した水蒸気とマグマが一緒に噴出して、マグマ水蒸気爆発となる。地下水と接触することなくマグマが上昇すると、マグマには気泡がたくさん含まれているため、減圧された気泡が一気に膨張し、マグマが多量に噴出されてマグマ噴火が起きる。破局噴火と言われるカルデラ噴火は現在の研究者が経験していないだけにメカニズムはよく分かっていない。2014年の御嶽山の噴火や箱根の噴火は水蒸気瀑発で、規模としては最小のものだ。今年5月に80年ぶりに噴火した口永良部島の噴火はマグマ水蒸気爆発で水蒸気爆発より規模は大きくなる。マグマ噴火は桜島や浅間山にこれまでもよく見られて来た。さらに規模は大きい。日本の過去では6000年に一度起きて来たカルデラ噴火は地形を大規模に変えてしまうほどの破局的な噴火だが、縄文時代の九州を壊滅状態に追い込んだ7300年前の鹿児島県の鬼界カルデラ噴火を最後に見られていない。現在の火山学では水蒸気爆発とカルデラ噴火のこの二つが直前でも予知は出来ないと言う。昨年7月、フランスの地球科学研究所(IST)は日本の独立行政法人 防災科学技術研究所(NIED)との合同研究の結果、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震によりもっともダメージを受けたのは東北地方の地殻ではなく、富士山の地下400kmをはじめとする火山帯であると発表した。防災科学技術研究所(NIED)によると、富士山のマグマ溜りに加わった圧力は1.6メガパスカルに達し、過去にはその1/16の力、0.1メガパスカルで火山が噴火したと言う。1707年の富士山の宝永大噴火の際もその49日前に起きた推定M8.6~8.7の宝永地震によりマグマ溜りにかかる圧力が高まったことが引き金となった。この大地震の翌朝にも富士宮を震源とするM7の地震が起きており、先の震災でもやはり4日後に富士山の裾野を震源とするM6.4の静岡県東部地震が同じく起きている。現在、富士山は地下のマグマの圧力が上昇して臨界状態にあり、フランスの地球科学研究所(IST)は「危機的な状況にある」としている。江戸時代には火山灰などの噴出物が10億立方メートル以上に及ぶ巨大噴火が何度も起きているが、1914年の桜島の大噴火を最後に巨大噴火は起きていない。火山学の東京大学地震研究所の中田節也教授は「日本の火山は南九州で活発化しているが、列島全体では静かすぎる。今後は大規模噴火が続く可能性が高い」としている。今の日本列島は危険すぎるとしてマレーシアへ移住した元前橋工科大学濱島良吉教授は「私の研究では、近く富士山の噴火と同時に首都圏直下型の地震が発生します。」と言い、今月6日に地震予測の改訂版を出した琉球大学木村政昭名誉教授もやはり従来通り2019年までに富士山が噴火するとされている。震災後、太平洋プレートの沈み込みはその前よりも3~4倍も加速された。それだけ地下でのマグマの供給も増加してると言うことになる。静穏期が長引けば長引くほど、地下で溜まったエネルギーはより増大する。それだけ一旦噴火が起きれば規模も巨大になる。富士山は過去100年に一度噴火して来た。それがすでに300年経過している。
並木のケヤキの色付き