個人事業主の私・・・ヤリタイダケ仕事が出来ます。・・・
まぁ・・・それだけ受注出来ればですが・・・
そんな私は、仕事に波があります。・・・
引き潮が去った後のような期間もあれば・・・
まるまるひと月休みなし・・・みたいな期間もあります。・・・
いわゆる大手企業の会社員や公務員のような安定したものがありません・・・
なので・・・受注出来れば出来たダケ・・・やらないとプラマイゼロに出来ないのデス!!
ということで・・・今は大波・・・まるまるひと月怒涛の如く仕事をこなしていました。
やっと・・・ひと段落し・・・今日は一日・・・
撮りためた真田丸でも見ながらゴロゴロしていようかナ?・・・
なんて思った日曜日・・・
ふと・・・短い足をピンと伸ばして久しぶりに思い出の地へ行ってみたくなった!
嫁さんもお休みの日曜日・・・
ということで・・・コレも久しぶりに二人っきりのデート・・・
今回は、嫁さんの愛車ランドクルーザープラド150に乗り・・・
ひたすら西へ・・・
マズ・・・最初の目的地・・・長野県上山田にある善光寺大本願別院へお参り・・・
ここは、20年近く前に家族で訪れたことのある思い出の地・・・
地元群馬では見ることのない平らな所に突如、あちこちにポッコリと山があります。
その山にある善光寺からの眺めは最高!
こんな立派な社に・・・参拝客は私ダケ!・・・ん~・・・貸し切り状態・・・
しばし思い出にふけったお話を嫁さんとした後・・・
次なる目的地へ・・・
冬季オリンピック開催都市・・・長野県長野市にある・・・
本当(?)の!!善光寺~!!・・・って・・・到着したときには・・・雪~!!・・・
寒い~~~!!・・・スタッドレス履いてない~~~!!・・・でも凍結してないからいいか~~~!!
ということで善光寺について・・・
善光寺は無宗派の単立寺院で、日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし
江戸時代には「一生に一度は善光寺参り」と言われるほどの由緒正しきお寺なのです。
そんな善光寺は・・・
戦国時代の武将たちと意外な関係が有ったとされています。(スミマセン長文抜粋)
善光寺のご本尊が各地を転々とすることになったきっかけは、信州長野善光寺より程近い「川中島の合戦」が契機となります。
川中島の合戦は、武田信玄と上杉謙信の戦いですが、前後5回、11年間に続いた戦いとも言われます。
この際に、武田信玄は善光寺に戦火が及ぶのを恐れ、善光寺にあったご本尊や仏具をはじめ、
僧侶たちを全て甲斐(甲府)に移転します。このときに、甲斐(甲府)には新たに善光寺が建てられたわけですが、
これを甲斐(甲府)善光寺と言い、現在でも武田信玄が開基となったお寺として有名です。
その後、天正10年(1582)に武田氏は織田信長によって滅ぼされます。その際、織田信長の長男である信忠は、
さっそく善光寺のご本尊を甲斐甲府から本拠地である岐阜へ移しました。これが岐阜善光寺です。
しかし、その年の夏に織田信長は家臣である明智光秀により京都の本能寺で殺されてしまいます。(本能寺の変)そのため、
今度は次男の信雄により善光寺のご本尊を尾張清洲甚目寺(愛知県甚目寺町)に移します。
その翌年、今度は徳川家康により浜松(静岡県)の鴨江寺に移され、やがて甲府に戻されます。
それから15年して、天下を掌握した豊臣秀吉は、慶長元年(1596)の大地震で京都の大仏殿が崩壊してしまったため、
その翌年に善光寺のご本尊を甲府から移し、京都方広寺のご本尊とします。
しかし、このころから豊臣秀吉は病気になってしまい
、それが善光寺如来(ご本尊)のたたりだと噂されるようになりました。
そのため、慶長3年(1598)に、急いで信濃(つまり信州長野のもともとの善光寺)へご本尊を送り返しましたが、
ご本尊が京都へ向け出発した次の日に豊臣秀吉は亡くなりました。
こうして、約40年ぶりに善光寺のご本尊である如来様は信濃(信州長野)の善光寺に戻ったのです。
そんなツワモノどもがユメのあと・・・しばし参拝・・・
参道前にはお店が立ち並ぶ・・・
くるみが売っていた!・・・こんなに入っているのに千円で買える!・・・
そして善光寺巡りのあと・・・次なる目的地・・・信州そば・・・
くるみ味噌の漬け汁そばにしようか?鴨汁そばにしようか?真剣に悩んだ結果・・・
お土産で買った大量のくるみを思い出し・・・鴨汁に決定~!!
さすが本場の信州そば・・・美味しいねぇ・・・なんて嫁さんとしばしお食事・・・
その後、無事帰路に付きました。・・・デカいランドクルーザープラド150系ですが・・・
コレもさすがランドクルーザー・・・長距離走行もしばしヘコタレず・・・燃費も良好でした。
メデタシ メデタシ・・・
そしてもう一つ・・・ほんとうにメデタイ事が!!・・・善光寺巡りの願掛けが叶ったのか?
長男坊の希望就職先より内定通知が届きました!!