昔の望遠鏡で見ています

昔の望遠鏡による天体観望と、その鏡景写真についてご紹介します

星見に行って会った人

2022-12-08 | 日記
 この秋、山岳道路の駐車場で、1人の人に出会った。もちろん夜のことなので、星を見に来た人である。この人は、私が着いた時には既に到着していて、駐車場の対角線の向こう端で、小さな赤色の照明をつけて何やら作業しているところだった。普通だったら怪しくて近づけないだろうが、同業者の感というやつだろうか、星を見に来た人だと思って声を掛けてみた。すると予想どおり、天体写真を撮影に来ているとのことだった。まだ撮影前だったので、使っている機材を教えてもらうと、C社の20cmシュミカセをSW社の赤道儀に載せて使っているとのことだった。望遠鏡は、最新の補正レンズ付と従来タイプの2本所有していることや、赤道儀を新調したのだが重たくて限界だ、という事なども話してくれた。私はもっぱらの眼視派で、かつてシュミカセ鏡筒を持っていたこともあり、最新の同型機の見え方を聞いてみた。鏡筒を照らしながら説明をしてくれたのだが、間の悪いことに、ちょうど補正板が曇り始めているではないか。急いでヒーターの準備をすることになったので、早々に話を切り上げることにした。それでも最後に、いつも来ているのかと尋ねてみると、何と首都圏から遅い夏休みを使って来ていて、この場所は初めてということだった。また、もっぱら一人で活動しているとも話していた。

 秋とはいえ、夜は一桁の温度まで冷える時期であったし、場所も下手をすると、雄大を通り越して自然の脅威のようなものを感じさせる所である。そこに貴重な休みを使って、一人で来るというのは、何故なのであろう。もちろん、星が好きなのであろうが、それだけではないような気がする。

 哲学者ハイデッガーは、避けることのできない自分自身の死というものに、正面から向き合うことによって、心の奥底からの良心の呼声に気付くようになり、最終的に自分らしい生き方が出来るようになると説いたという。これを、哲学用語で先駆的決意性と言うらしい。知らんけど。

 自分自身も含め、先の事を考えてみる。我々はこの社会において、交換可能な歯車の一つとして扱われているにもかかわらず、それを直視せず日々の生活に流されているが、星を見ることによって、「自分らしい生き方とは何なのだ。今のままで良いのか。」という心の声を感じることができるのではないだろうか。それ故、本来のあるべき自分を取り戻そうと、星を見る行為を大切にしているのだと思う。