大倉草紙

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【東京・西多摩郡】 奥多摩むかしみち ②

2009年11月10日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
11月7日(土)
奥多摩むかしみち 


美しい惣岳渓谷を過ぎて……


(12:41)縁結びの地蔵尊
「恋しい人と結ばれたい…いとしい方と添いとげたい…いつの世でもおなじです。
人に知られずにこっそりと二股大根を供えて一心に祈れば『縁結成就』といわれています。
   奥多摩町教育委員会」(案内板より)


(12:47)馬の水のみ場
「ここで馬を休ませ、かいばを与えました。馬方衆は『たてば』と呼称されている茶店で一服休憩ということになりました。
茶店はゴーロ・清水・大島屋の三軒があって駄菓子・うどん・まんじゅう・タバコ等が商われ、一杯酒もありました。
   奥多摩町教育委員会」(案内板より)


(12:49)牛頭(ごず)観音様
「明治三十年・小河内探勝記・露木敬身(漢学者)によれば『…牛馬の背荷を輸出しての帰途に遇う三十余頭…岩壁に付して…通過を避く…婦女の牛を使役…多し…』とあるごとく馬よりは少数であったが牛も使役されていました。牛頭観音様の造立は珍しい。牛馬の息災を祈りました。
   奥多摩町教育委員会」(案内板より)


(12:51)むし歯地蔵尊
「その昔、村の人々は歯が痛くなってもどうすることもできませんでした。
煎った大豆をお地蔵さまに供えて、ひたすら一心に祈るのでした。すると奇態に痛みが治まった、といわれています。(民間信仰のひとつ)
   奥多摩町教育委員会」(案内板より)


(12:52)川合玉堂の歌碑
「山の上の はなれ小むらの 名を聞かむ
 やがてわが世を ここにへぬべく」

「この歌は川合玉堂先生が二十九才の時に、小河内方面に写生にこられたおりにこの地で詠まれたものです。
 『人里離れた山の上で息をひそめるように生活しているあの集落は、何と言うところだろう。私もいつか、きっと、あのような場所で余生を送りたいものだ。』
この歌は先生が奥多摩に住まわれるようになった原点であると云われております。
 玉堂先生は昭和十九年に奥多摩町白丸に戦時疎開され、その後青梅市御岳に移りましたが、この歌のとおり生涯奥多摩を離れることなく、昭和三十二年八十四才で他界するまで身近な山村と素朴な村人の暮しを描き続けました。」(案内板より)

西久保見晴らし広場で遅めの昼食。


昼食後は、中山集落方面へ。
「今日はいつもに比べて楽だねー」と話しながら歩いていたが、ここにきて急な山道が続く。
けれど、少し汗をかくくらいのほうが気持ちがいい。
落葉を踏みしめる感触も心地よい。


(13:41)浅間(せんげん)神社


(14:00)青目立不動堂


青目不動尊
「その昔、修験法印の奥平家で一堂に不動明王・薬師如来・弘法大師の尊像を祀り、悪魔退散・衆生斉苦を祈願し村の人々を守護して日々の暮らし光明を与えていました。
その霊験の灼(あらた)かさは近郷の人々からも信仰されています。
   奥多摩町教育委員会」(案内板より)


青目立不動堂は、「青目不動尊休憩所展望台」になっている。
ここからは、小河内ダムが一望できる。


(14:13)水根観音


(14:27)
水根沢遊歩道を通って奥多摩湖へ。


振り返ると、いい景色。


(14:40)奥多摩湖




湖畔には、『湖底の故郷』の碑が建っている。
ダムの建設工事で、この辺りに建っていた570戸が湖底に没んだそうだ。


碑の裏面には、歌が刻まれている。
 「夕陽は赤し 身は悲し
   涙は熱く 頬濡らす
  さらば湖底の わが村よ
   幼き夢の 揺籃よ
       島田 磐也」


徳富蘇峰の詩碑
 「登々、水源を極め
  谷を隔て、幾村々
  崖けわしく、泉筧を鳴らし
  嶽高く、雲軒に入る」

帰りは、奥多摩湖バス停から奥多摩駅までバスで。
奥多摩は初めてだったが、東京都は思えない豊かな自然を満喫でき、大満足。
また来よう。


当日の歩数:24,775歩

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