6月28日(土)
当日の行程:(車) → 【石清水八幡宮】 → 【淀城跡】 → 【與杼神社】 → 【天王山】…(宝積寺)…(自玉手祭来酒解神社)…(大山崎町歴史資料館) → 【勝竜寺城公園】 → 【長岡天満宮】 → 【光明寺】 → 【大原野神社】 → 【勝持寺】 → 【願徳寺】 → 【善峯寺】 → 【長岡宮跡】 → 【桜井駅跡(楠木正成伝説地)】
天王山に登る。
標高は約270メートル。
蛇に遭遇するんじゃないかと不安を抱きつつ、登山口へ。
天王山の登り口の石標
山崎宗鑑冷泉庵跡
JR山崎駅の東側の踏切を渡ると、天王山の登り口だ。
登り口には石標が立ち、その前には、山崎宗鑑冷泉庵跡の石碑がある。
山崎宗鑑が連歌の会を開いたり俳句の指導をしていた「冷泉庵」は、このあたりにあったようだ。
石碑には、「うつききてねぶとに鳴や郭公(ほととぎす)」とある。
登りはじめから、坂道は急な勾配。
道路は舗装されていて、住宅が建ち並んでいる。
坂道を登り始めてほどなく、右手に宝積寺がみえる。
724年、聖武天皇の勅命を受け、行基が開いたお寺だといわれる。
聖武天皇が夢枕に現れた竜神から授かった「打出」と「小槌」を奉納するために建立されたと伝わっている。
のちに、大黒天神が祀られ、聖武天皇の「打出」と「小槌」の話に大黒天の「打出の小槌」の神話が加わり、「宝寺」とも呼ばれるようになる。
仁王門
門の両側に祀られている金剛力士像は、重要文化財。
待宵の鐘 一夜之塔
「待宵の鐘」という風雅な名は、待宵小侍従の次の歌に因んでいるという。
「待つ宵にふけゆく鐘の声きけばあかぬわかれのとりはものかは」
「一夜之塔」と呼ばれるこの三重塔は、山崎合戦で明智光秀に勝利した秀吉が、その勝利を記念して一夜で建立したのだといわれる。
殉国十七士墓の碑 秀吉之出世石
境内には、殉国十七士墓の碑が建っている。
十七烈士の墓は、天王山の山中にある。
本堂の脇には、秀吉が腰を掛けたと伝わる「秀吉之出世石」がある。
本堂
本堂では、本尊・十一面観世音菩薩(重要文化財)を祀る。
宝積寺の御朱印
宝積寺の裏手から、天王山頂上へ道が続いている。
天王山の道
登りはじめの舗装された道路はおしまい。
ここから山頂までは、写真のような道が続く。
舗装道路よりも歩き易いかもしれない。
勾配も、あまりきつくはない。
けれど、山崎合戦当時は、こんなに道が整備されていなかっただろうから、武装して進軍していくのは大変だったろうなあ。
青木葉谷広場
山頂へ向かう途中、ちょうど、疲れてきたなと思ったところで青木葉谷広場があった。
水を飲んで休憩。
奥のほうに見える板には、山崎合戦について書かれている。
堺屋太一氏の作、岩井弘氏の画で、「秀吉の道」という題がついている。
「秀吉の道」は、山頂までにいくつか設置されていて、足を休め、学びながら山を登ることができるようになっている。
これは、青木葉谷広場より更に登ったところにある自玉手祭来酒解神社の鳥居近くにある「秀吉の道」。
自玉手祭来酒解神社の鳥居
道なりに進むと、突然大きな鳥居が目の前に現れる。
自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)、通称・酒解神社(さかとけじんじゃ、さかときじんじゃ)の鳥居だ。
神社の本殿は、この場所からは少し離れている。
山崎合戦之地の碑 旗立松
山崎合戦のとき、天王山へ駆け登った秀吉は、味方の士気を高めるために松の木の上に軍旗を掲げたという。
その松の木は、明治中頃に朽ちてしまったらしい。
現在、植えられている松は、五代目とのこと。
展望台からの風景
自玉手祭来酒解神社の鳥居のそばには、展望台がある。
展望台からは、かつての合戦場が見える。
展望台には、布陣図があったので、目の前の風景にそれを当てはめて楽しむ。
秀吉軍は写真の手前のほうに、明智光秀軍は天王山の向こう側に陣取っていたようだ。
天王山の竹林
鳥居を過ぎると、竹林が目立つ。
このあたりは、筍の産地として有名なのだそうだ。
十七烈士の墓
元治元年(1864)、蛤御門の変で敗れ、天王山にて自刃した水天宮第22代宮司真木和泉守をはじめとする17名の烈士たちのお墓。
自玉手祭来酒解神社の鳥居を進み、二手に分かれた道を左に折れたところにある。
招魂碑を中央に、コの字型に17名のお墓が並ぶ。
毎年10月21日には、墓前祭が行われているという。
三社宮
三社宮は、自玉手祭来酒解神社の摂末社。
向かって右から、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月讀大神(つきよみのおおみかみ)、蛭子神(えびすのかみ)を祀る。
三社宮の前の道を左に行くと厳島社、右に行くと本殿。
自玉手祭来酒解神社の本殿
自玉手祭来酒解神社は、奈良時代の創建されたという。
大山祇神(おおやまづみのかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。
お賽銭箱に今年の厄年表が貼られていることから、定期的に人の手が入っているようだが、普段は無人。
無人にしても、もう少し何とかならないものか。
荒れた感じがする。
宮主社
宮主社は、自玉手祭来酒解神社の摂末社。
足名椎命(あしなづちのみこと)、手名椎命(てなづちのみこと)を祀っている。
あの、ヤマタノオロチを退治した神話に登場する夫婦神である。
神輿庫(重要文化財)
神輿庫は、鎌倉時代中期の建立。
板倉形式で建てられた、非常に珍しい建造物なのだそうだ。
一般によく見られる校倉形式は、断面が三角形になっている板を用いるのに対し、この板倉形式は、厚板(この神輿庫では14cm)を積み重ねて建てているのだという。
神社を過ぎると、まもなく山頂。
天王山山頂 標高270.4メートル
いつもは、人物を入れての記念写真を撮ることは稀だが、きょうは、夫も私も、山頂を示すこの杭の脇に立って、互いに写真を撮りあった。
山頂では、お弁当を広げる人々の姿もあった。
山の上からの眺望を期待していたが、木が生い茂っていて、まったくといってよいほど視界が開けていない。
天王山城井戸跡
天正10年(1582)、6月2日の山崎合戦のあと、秀吉は、天王山の山頂に城を築く。
これは、そのときに掘った井戸の跡。
天王山を下り、大山崎町歴史資料館へ。
大山崎町歴史資料館は、阪急・大山崎駅の近くにある。
JR山崎駅から歩いても10分かからない場所なので、山崎駅近くのコインパーキングに車を停めたまま、歩いて向かう。
大山崎町歴史資料館
大山崎町歴史資料館は、大山崎ふるさとセンターの2階にある。
古代、中世、山崎合戦、利休・待庵、近世の5つのゾーンに分けて、大山崎町の歴史が紹介されている。
小さなスペースではあるが、パネルやビデオが効果的に用いられていて、分かりやすく、おもしろい。
訪れたときは、すいていたということもあってか、ガイドの方が説明して下さった。
ご親切はありがたいのだが、展示物に十分な解説が付されているし、自分のペースで展示物を見たかったので、戸惑ってしまった。
当日の行程:(車) → 【石清水八幡宮】 → 【淀城跡】 → 【與杼神社】 → 【天王山】…(宝積寺)…(自玉手祭来酒解神社)…(大山崎町歴史資料館) → 【勝竜寺城公園】 → 【長岡天満宮】 → 【光明寺】 → 【大原野神社】 → 【勝持寺】 → 【願徳寺】 → 【善峯寺】 → 【長岡宮跡】 → 【桜井駅跡(楠木正成伝説地)】
天王山に登る。
標高は約270メートル。
蛇に遭遇するんじゃないかと不安を抱きつつ、登山口へ。
天王山の登り口の石標
山崎宗鑑冷泉庵跡
JR山崎駅の東側の踏切を渡ると、天王山の登り口だ。
登り口には石標が立ち、その前には、山崎宗鑑冷泉庵跡の石碑がある。
山崎宗鑑が連歌の会を開いたり俳句の指導をしていた「冷泉庵」は、このあたりにあったようだ。
石碑には、「うつききてねぶとに鳴や郭公(ほととぎす)」とある。
登りはじめから、坂道は急な勾配。
道路は舗装されていて、住宅が建ち並んでいる。
坂道を登り始めてほどなく、右手に宝積寺がみえる。
724年、聖武天皇の勅命を受け、行基が開いたお寺だといわれる。
聖武天皇が夢枕に現れた竜神から授かった「打出」と「小槌」を奉納するために建立されたと伝わっている。
のちに、大黒天神が祀られ、聖武天皇の「打出」と「小槌」の話に大黒天の「打出の小槌」の神話が加わり、「宝寺」とも呼ばれるようになる。
仁王門
門の両側に祀られている金剛力士像は、重要文化財。
待宵の鐘 一夜之塔
「待宵の鐘」という風雅な名は、待宵小侍従の次の歌に因んでいるという。
「待つ宵にふけゆく鐘の声きけばあかぬわかれのとりはものかは」
「一夜之塔」と呼ばれるこの三重塔は、山崎合戦で明智光秀に勝利した秀吉が、その勝利を記念して一夜で建立したのだといわれる。
殉国十七士墓の碑 秀吉之出世石
境内には、殉国十七士墓の碑が建っている。
十七烈士の墓は、天王山の山中にある。
本堂の脇には、秀吉が腰を掛けたと伝わる「秀吉之出世石」がある。
本堂
本堂では、本尊・十一面観世音菩薩(重要文化財)を祀る。
宝積寺の御朱印
宝積寺の裏手から、天王山頂上へ道が続いている。
天王山の道
登りはじめの舗装された道路はおしまい。
ここから山頂までは、写真のような道が続く。
舗装道路よりも歩き易いかもしれない。
勾配も、あまりきつくはない。
けれど、山崎合戦当時は、こんなに道が整備されていなかっただろうから、武装して進軍していくのは大変だったろうなあ。
青木葉谷広場
山頂へ向かう途中、ちょうど、疲れてきたなと思ったところで青木葉谷広場があった。
水を飲んで休憩。
奥のほうに見える板には、山崎合戦について書かれている。
堺屋太一氏の作、岩井弘氏の画で、「秀吉の道」という題がついている。
「秀吉の道」は、山頂までにいくつか設置されていて、足を休め、学びながら山を登ることができるようになっている。
これは、青木葉谷広場より更に登ったところにある自玉手祭来酒解神社の鳥居近くにある「秀吉の道」。
自玉手祭来酒解神社の鳥居
道なりに進むと、突然大きな鳥居が目の前に現れる。
自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)、通称・酒解神社(さかとけじんじゃ、さかときじんじゃ)の鳥居だ。
神社の本殿は、この場所からは少し離れている。
山崎合戦之地の碑 旗立松
山崎合戦のとき、天王山へ駆け登った秀吉は、味方の士気を高めるために松の木の上に軍旗を掲げたという。
その松の木は、明治中頃に朽ちてしまったらしい。
現在、植えられている松は、五代目とのこと。
展望台からの風景
自玉手祭来酒解神社の鳥居のそばには、展望台がある。
展望台からは、かつての合戦場が見える。
展望台には、布陣図があったので、目の前の風景にそれを当てはめて楽しむ。
秀吉軍は写真の手前のほうに、明智光秀軍は天王山の向こう側に陣取っていたようだ。
天王山の竹林
鳥居を過ぎると、竹林が目立つ。
このあたりは、筍の産地として有名なのだそうだ。
十七烈士の墓
元治元年(1864)、蛤御門の変で敗れ、天王山にて自刃した水天宮第22代宮司真木和泉守をはじめとする17名の烈士たちのお墓。
自玉手祭来酒解神社の鳥居を進み、二手に分かれた道を左に折れたところにある。
招魂碑を中央に、コの字型に17名のお墓が並ぶ。
毎年10月21日には、墓前祭が行われているという。
三社宮
三社宮は、自玉手祭来酒解神社の摂末社。
向かって右から、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月讀大神(つきよみのおおみかみ)、蛭子神(えびすのかみ)を祀る。
三社宮の前の道を左に行くと厳島社、右に行くと本殿。
自玉手祭来酒解神社の本殿
自玉手祭来酒解神社は、奈良時代の創建されたという。
大山祇神(おおやまづみのかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る。
お賽銭箱に今年の厄年表が貼られていることから、定期的に人の手が入っているようだが、普段は無人。
無人にしても、もう少し何とかならないものか。
荒れた感じがする。
宮主社
宮主社は、自玉手祭来酒解神社の摂末社。
足名椎命(あしなづちのみこと)、手名椎命(てなづちのみこと)を祀っている。
あの、ヤマタノオロチを退治した神話に登場する夫婦神である。
神輿庫(重要文化財)
神輿庫は、鎌倉時代中期の建立。
板倉形式で建てられた、非常に珍しい建造物なのだそうだ。
一般によく見られる校倉形式は、断面が三角形になっている板を用いるのに対し、この板倉形式は、厚板(この神輿庫では14cm)を積み重ねて建てているのだという。
神社を過ぎると、まもなく山頂。
天王山山頂 標高270.4メートル
いつもは、人物を入れての記念写真を撮ることは稀だが、きょうは、夫も私も、山頂を示すこの杭の脇に立って、互いに写真を撮りあった。
山頂では、お弁当を広げる人々の姿もあった。
山の上からの眺望を期待していたが、木が生い茂っていて、まったくといってよいほど視界が開けていない。
天王山城井戸跡
天正10年(1582)、6月2日の山崎合戦のあと、秀吉は、天王山の山頂に城を築く。
これは、そのときに掘った井戸の跡。
天王山を下り、大山崎町歴史資料館へ。
大山崎町歴史資料館は、阪急・大山崎駅の近くにある。
JR山崎駅から歩いても10分かからない場所なので、山崎駅近くのコインパーキングに車を停めたまま、歩いて向かう。
大山崎町歴史資料館
大山崎町歴史資料館は、大山崎ふるさとセンターの2階にある。
古代、中世、山崎合戦、利休・待庵、近世の5つのゾーンに分けて、大山崎町の歴史が紹介されている。
小さなスペースではあるが、パネルやビデオが効果的に用いられていて、分かりやすく、おもしろい。
訪れたときは、すいていたということもあってか、ガイドの方が説明して下さった。
ご親切はありがたいのだが、展示物に十分な解説が付されているし、自分のペースで展示物を見たかったので、戸惑ってしまった。