大倉草紙

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【奈良】 山の辺の道①

2009年06月08日 21時00分00秒 | 旅 - 奈良県
6月6日(土)
当日の行程:(JR・天理駅…自転車) → 【石上神社】 → 【内山永久寺跡】 → 【夜都伎神社】 → 【竹之内環濠集落】 → 【萱生環濠集落】 → 【西山塚古墳】 → 【手白香皇女衾田稜(西殿塚古墳)】 → 【灯籠山古墳】 → 【大和神社御旅所】 → 【柿本人麻呂歌碑】 → 【長岳寺】 → 【長岳寺五智堂】【黒塚古墳】 → 【櫛山古墳】 → 【崇神天皇稜】 → 【景行天皇稜】 → 【垂仁天皇纒向珠城宮跡】 → 【景行天皇纒向日代宮跡】 → 【相撲神社】 → 【大兵主神社】 → 【桧原神社】 → 【箸墓古墳(孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲姫命大市墓)】 → 【大神神社】 → 【狭井神社】【玄賓庵】 → 【平等寺】 → 【崇神天皇磯城端籬宮跡】 → 【金屋の石仏】 → 【海柘榴市観音】 → 【仏教伝来之地碑】 → 【欽明天皇磯城嶋金刺宮跡(推定地)】 
日本最古の道といわれる「山の辺の道」を自転車で走ってみた。
天理駅を出発して桜井駅までの約17キロ。
道を戻ったり、道から外れて古墳に寄ったりしたので、実際には17キロ以上を走っている。
自転車とはいえ、上り坂や石段になっている場所も多く、結構くたびれた。
大神神社の近くの案内板によれば、天理駅から桜井駅までの距離と徒歩での所要時間は次の通りである。

【天理駅】…2.0㎞(30分)…【石上神宮】…0.8㎞(15分)…【内山永久寺跡】…1.7㎞(30分)…【夜都伎神社】…0.6㎞(10分)…【竹之内環濠集落】…1.0㎞(15分)…【萱生環濠集落】…0.5㎞(10分)…【衾田稜】…1.0㎞(20分)…【長岳寺】…0.9㎞(10分)…【崇神天皇稜】…1.0㎞(15分)…【景行天皇稜】…2.5㎞(45分)…【桧原神社】…0.3㎞(5分)…【玄賓庵】…1.0㎞(15分)…【狭井神社】…0.2㎞(3分)…【大神神社】…0.3㎞(5分)…【平等寺】…0.3㎞(5分)…【金屋の石仏】…0.5㎞(10分)…【海柘榴市】…0.2㎞(5分)…【仏教伝来の地】…1.7㎞(30分)…【桜井駅】


【石上神宮】

石上神宮は、日本最古の神社のひとつ。
物部氏の総氏神。
七支刀(ななつさやのたち・国宝)、足利尊氏が奉納したと伝えられる色々威腹巻(いろいろおどしはらまき・重要文化財)、勾玉・管玉・環頭大刀柄頭(重要文化財)等の宝物がある。


柿本人麻呂の歌碑
「をとめらが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひきわれは(万葉集巻四より)」


楼門(重要文化財)


拝殿(国宝)


摂社出雲建雄神社拝殿(国宝)


石上神宮の御朱印


【内山永久寺跡】

芭蕉の句碑
「うち山やとざましらずの花ざかり 宗房
 この句は、松尾芭蕉(一六四四‐一六九四)が江戸へ下る以前、まだ出生地の伊賀上野に住んで、『宗房』と号していた頃の作品である。いつの頃にこの地を訪れて作られたか、それは明らかではないが、寛文十年(一六七〇)六月頃刊行の『大和順礼』(岡村正辰編)に収められているところから、この年以前、すなわち二十三、四歳の頃までに詠んだものであろう。
[句意]今、内山永久寺に参詣してみると、見事なまでに満開の桜でうめつくされている。
土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもないのである。」(案内板より)


永久寺跡の池
永久年間に建てられたから「永久寺」というようだ。
廃仏毀釈で廃寺となり、永久ではなくなってしまったが。
「永久年間(1113‐7)に建立された寺で鳥羽天皇の授戒の師であった亮恵上人の開基と伝えられています。本尊は阿弥陀如来で石上神宮の神宮寺として盛時には大伽藍を誇っていたと伝えられています。その後寺勢がおとろえ、明治の廃仏毀釈で廃寺となって、いまではわずかに池を残すだけで歴史のきびしい流れを感じさせられます。」(案内板より)


後醍醐天皇萱ノ御所跡の碑


【夜都伎神社(やとぎじんじゃ)】

「天理市乙木町の北方集落からやや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し俗に春日神社といい、春日の四神を祀る。
乙木には、もと夜都伎神社と春日神社との二社があったが夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換して、春日神社一社にし社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。当社は昔から奈良春日神社に縁故深く、明治維新までは当社から蓮の御供えと称する神選を献供し春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。
現在の本殿は明治39年(1906年)改築したもので、春日造檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色7種の華麗な同形の四社殿が未神の琴平神社と並列して美観を呈する。拝殿は藁葺で、この地方では珍しい神社建築である。鳥居は嘉永元年(1848)4月奈良の春日若宮から下げられたものという。」(案内板より)


拝殿
案内板にも書いてあったが、藁葺の屋根とは珍しい。


本殿


【竹之内環濠集落】

現在も残っている濠の一部
「奈良盆地には、集落の周囲に濠をめぐらしたものが非常に多い。大和は、室町時代になると戦国期の動乱による影響を強く受け、自衛手段として防御する方法から、集落の周囲に濠を区画していたものと思われる。そうした環濠も現在では、戦乱の防御から灌漑用に転用されたものが姿を留めている。
 天理市では、竹之内町のほかに備前町、南六条町、庵治町の溝幡で環濠の痕跡をよく留めている。一般的に環濠集落は低地部で発達した集落の形態であるが竹之内町のように標高百メートルの山麓に立地するものは、県下でも数少ない。現在、竹之内町では、集落の入り口付近まで残っていた環濠が埋め戻され公園になっており、集落の西側で南北に区画する濠の一部が今でも残っている。  天理市教育委員会」(案内板より)


【萱生環濠集落】



【西山塚古墳】

「この古墳は主軸を南北に置き後円部を南に向けた前方後円墳である。墳丘の規模は全長百十四米後円部直径約六十五米、同高さ十米、前方部幅約六十五米、高さ約七米である。前方部二段、後円部三段に築造され、周囲には幅約二十米の馬蹄形の周濠が、巡る。
 埋葬主体は発掘調査がされていないため明らかにしがたいが、開墾の際に石棺が確認されていて家形石棺などが使用されていると思われる。
 本墳の特徴は大和古墳群では珍しく後円部を南に向けていることが注意される。また古墳が傾斜地に築造されているため、周濠が四つの池に別れて作られているようである。
 古墳の築造年代は、採集されている埴輪の特徴から六世紀前半ごろと推定され大和古墳群では唯一の古墳時代後期の大形前方後円墳である。  天理市教育委員会」


【手白香皇女衾田稜(西殿塚古墳)】


全長230メートルの前方後円墳。
3世紀前半に築造されたと推定されている。
埴輪の起源となる特殊器台型土器や特殊円筒型埴輪などが出土したそうだ。


【灯籠山古墳】

墓地の中に案内板が見えたので、近寄ってみた。
全長110メートルの前方後円墳で、前方部は念仏寺の墓地として利用されているのだという。
こんなことってあるの!?
写真は墓地になっている前方部から撮ったもの。
墓地の向こうに丘のような後円部が認められる。


【大和神社御旅所】
「大和(おおやまと)神社御旅所の由来
中山大塚古墳(百三十メートル)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫命の塚約二千年前煌々と輝き現れる神々は大歳大神(五穀豊穣) 主神日本大国魂大神(大地主大神) 須治比賣大神(天照大神) 大和神社の春の大祭 橘花神幸のちゃんちゃん祭りに天皇(亦は特使)が参列 千四百年前に始まる その以前橘花祭りは 今から約二千年前始まるとある 
橘渡御は はじめ大和神社の瑞籬 水砂道(みささぎの道=日本最古の道)から笠縫を通り 中山邑 岸田邑を経て市場の休み所御神輿石 長岡岬大市坐 皇女渟名城入姫神社 御祓い休憩 柳本新地の手前左に曲がり中山都・古道 斎主御前の住い道を通り 長山日暮上道より 御旅所 霊薬井戸で清める 石段を登り 赤鳥居こぐり 清霊舞を執り行う」(案内板より)


御旅所坐神社


歯定(はじょう)神社


【柿本人麻呂歌碑】

「衾道を引手の山に妹を置きて山路をゆけば生けりともなし」 
「引き手の山」と呼ばれる「竜王山」に妻を葬ってきたばかりの柿本人麻呂が詠んだ歌だという。
山の辺の道には、このほかにも柿本人麻呂をはじめ、多くの歌人の歌碑が建っている。

【長岳寺】

長岳寺は天長元年(824)、弘法大師が大和神社の神宮寺として創建したと伝えられる。


旧地蔵院(重要文化財)
寛永7年(1630)建立。


楼門(重要文化財)
日本最古の鐘楼門。
弘法大師が長岳寺を創建した当時に建てられたものだという。


本堂


本堂の血天井
戦国時代、竜王山に築いた十市氏の山城が松永弾正に攻められた。
長岳寺境内でも戦乱があり、十市方の武将の血の跡がついた縁側の板を天井に張り替えたのだという。
小さめな足跡がはっきりと見える。


大師堂


大石棺佛(鎌倉時代)
古墳の石材が使われているのだそうだ。

 
左:大師像
右:鐘楼


根上りの松(?)
松の木は植えられていなかったし、お寺のリーフレットに載っている境内図の「根上りの松」の文字が二本線で消されているので、もしかしたら、松は枯れてしまったのかも。
お寺で確認してみればよかった。


長岳寺の御朱印


【長岳寺五智堂】

五智堂(重要文化財)は、長岳寺の飛地境内に建っている。
中央に太い心柱があり、その上部四方に四仏の凡字額が掲げられていて、全体で五智如来をあらわしているのだという。
どの方向からも正面に見えることから、「眞面堂」とも呼ばれるそうだ。