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覚書2016.4.29―芸術から

2016年04月29日 | 覚書

 覚書2016.4.29―芸術から


 大きな時間の流れの中、芸術というものが、その始まりの太古からその本質をくり返しながら姿形を変えて複雑になって、現在の迷路のような芸術の姿があると見なして考えてみる。


 現在では芸術は、美術、音楽、舞踊、演劇、映画、文学など各分野に分かれ、さらにそれぞれの中でも、例えば文学の中に大別して詩と小説があり、その中でもさらに詩には短歌・俳句・自由詩などがあるというように、限りなく細分化の道を歩いてきている。(これは芸術以外の全ての分野にも当てはまる)したがって、わたしたちは深く関心を持っていない分野に関しては、入りこんで簡単に論評してみるというわけにはいかない。


 したがって、現在の芸術の渦中から見渡せば、世界はそれぞれに専門化された近寄りがたい迷路のような構築物に見える。しかし、始まりの芸術は、太古の壁画や太古から受け継がれたような音楽・舞踊などを見たりすると、おそらく各分野に分かれることなく融合的であったはずである。


 それに、人類の生み出し積み重ね来た本流の底流に流れているのは、割とシンプルな欲求や願望として取り出すことができそうに思う。それが時代時代によって神話に向かい神を呼び寄せたりする意識や世界に対する祈りや信や願望など様々に姿形を変えてきていたとしてもである。


 その底流に流れる、芸術の起源の太古から現在まで通して言える芸術の本質は、この短い生涯という時間としても限られた世界で、個や他人との関係的な世界でよりよく生きようという意志の表現だと思う。現在の言葉で言えば、それは少し概念的すぎるけど自由(美)と言えるかもしれない。このように、わたしたちは芸術なら芸術の本質としてはだれでも取り上げ、論じることができると思われる。


 現在は芸術でも迷路の果てまで来ているように見えるけれど、人間は大きな歴史の段階で考えれば、ある方向に突き進んでは内省し、また包括的に本質を捉え返すというようなことをくり返してきているのかもしれない。そうして、現在はその捉え返しの時期に当たっているように見える。このことは、芸術に限らず政治や経済でもそうであり、あらゆる分野について言えることだと思う。


 ところで、芸術に関して補足すれば、芸術の表現でこれでもかというほど登場人物の悪(業)が描かれるということがある。先に述べた「自由(美)」ということには当てはまらないように見えるが、作品の表現がその深みにおいて志向するのは、意識的あるいは無意識的な自由への欲求と見なせるだろう。つまり、人間の負性を徹底的に追究する過程には自由への欲求が潜在していると見なせるように思う。


 また、太古から現在の方へ、生活意識として個の意識が先鋭化してきている(一方に、公が大事という復古イデオロギーも存在するが、わかりやすく言えば、それは自分中心ということ)のと呼応するように、芸術は個の意識が中心を占めるように変貌してきた。芸術表現は現在では個の内面世界に終始するようになって、そこでの解放感の獲得ということが大きな動機に見える。しかし、作者たちもまたわたしたちが生きるこの社会と無縁であるわけではない。社会の方に引き寄せてみれば、芸術表現の作者たちは、生き呼吸するこの社会をその秩序意識のようなものとして感受し、意識的あるいは無意識的にそれらへの親和や異和を作品中に散りばめているはずである。おそらくは生き難さの孤独な表現を通して、ひそかな結合手をわたしたち読者(観客)の方に伸ばしていると言えるかもしれない。

  (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)


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