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メモ2019.3.21 ―ゴロウニン『日本俘虜実記』より

2019年03月21日 | メモ

 メモ2019.3.21 ―ゴロウニン『日本俘虜実記』より
 
 


 幕末に国後島で松前藩の役人に捕らえられた、ロシアの軍艦ディアナ号艦長ゴロウニン等数名。いろいろ面白い記述に出会う。
 フロイスの『日本史』もそうだったが、ゴロウニンの『日本俘虜実記』には興味深いものがある。わたしたち日本人という内― ある自然環境や風俗習慣を伴う地域性などの内 ―にいる者にとっては、長らく慣れ(親しんでき)ているからあまりに自然すぎて、気づかないようなことも、生まれ育ったロシアの自然環境や風俗習慣を伴う地域性やヨーロッパの知識や考え方などを吸収してきたゴロウニンの眼には、自然に見えず際立ってくる。ここで、ゴロウニンが見聞きしていることが、当時の日本全土においても普遍的なものだったかもしれないが、そのことだけでは普遍的なものだったと断定はできない。しかし、そういうことがその辺りには存在したということは確かであろう。このことはフロイスの『日本史』に関しても同じである。内にいてはあんまり気づかないようなことを、外からの眼によってわたしたちに気づかせてくれている。
 以下、いくつか興味深い事項を抜き出してみる。
 
 
★日本人の書き言葉について
 
* 日本人は文字を書くのに二種類の書法を使う。一つはシナの書法で、それはあらゆる言葉が個々別々の文字で表される。日本人の話ではこの文字は、およそ千年以前にシナから摂取したものである。したがって物の名称はシナと日本では、発音は全然違っても同じ文字を使って書く。この書法は、程度の高い著述や公文書や、その他一般に上流階級の書簡の中に使われる。も一つの書法は日本のアルファベットによるもので、日本には四十八文字あって、平民はこの文字を使って書く。日本ではどんな身分の低い者でも、この文字を使ってものが書けない者はいない。だから我が水兵四人のうち誰も文字が書ける者がいないと知ると大変に驚いたのであった。
 (『日本俘虜実記 上』P121 ゴロウニン)

 


 
 
★ゴロウニンの記憶のための工夫
 
 この日は二つの事件があって、私にとって忘れられぬ日であった。
 第一は、上記品物が送られて来たのを見て大いに心配したことである。第二は、我が身に大事件が起こってもこれを記録しておく紙もインクもないことから、糸に結び目をこさえて日記代わりにすることを思いついたことである。私は函館到着以来の毎日に一つずつ結び目を付けることにした。そして、我われにとって何か好い出来事のあった日はカフスから抜き取った白い糸を結び目に入れ、悲しいことのあった日は襟巻きから黒い絹糸を抜いて結び目に入れ、嬉しくも悲しくもなくとも特記に値する事件のあった日は軍服の裏地から抜き取った緑色の絹糸を結び入れた。こんな方法で作った結び目をときどきたぐってみて、それぞれが意味する出来事を記憶の中から呼び起こしているうちに、いつどんな事件があったか忘れないようになった。
 (『日本俘虜実記 上』P157)
 
 

 


★間宮林蔵の来訪、通訳の水準
 
 そのころ我われの所へ一人の新顔がやって来た。これは日本の首都から派遣されて来た測量家で、天文学者の間宮林蔵と名のる者であった。
 (『日本俘虜実記 上』P303)
 
 
 この男は我われの眼の前で日本の兵法を自慢し、我われを威嚇した最初の日本人であったことは特記しておかねばならない。しかしその代わり彼は我わればかりでなく、日本人からも嘲笑されていたのである。
 間宮林蔵は太陽の高さを測って、その場所の緯度を知る技術を会得していた。そして太陽と月、または星との距離から、その場所の経度を探知できると聞いて来て、どのようにして知るのか、我われからその方法を習得したがっていた。しかしどんな方法でそれを教えることができるというのか。我われの手許には関係の表もなく、天文暦もなく、その上、仲介する通訳たちときたら、全く簡単な説明にもいたく苦労しなければ通じない程度の、ロシア語の理解力しかないのである。
 こちらが断ると、この日本人は大変不機嫌になって、
「まもなく首都からオランダ語の通訳と日本人の学者が来て、学術関係の若干の事項について説明を求めることになっている。そのときは拒否はできませんぞ。否が応でも聞き出してみせる」
 と威嚇した。
 このニュースはあまり快いものではなかった。それは、日本側が力ずくでもって、我われに日本人を教えさせようと準備を進めていることが分かったからだった。
 (『日本俘虜実記 上』P306-P307)
 
 

 


★津軽藩の番卒の仕事ぶりと音読する読書法
 
 全員が気を揃えて脱走しようというのであれば、この種の計画の実行はさほど困難事ではなかったであろう。津軽藩の番卒は、夜間も眠らずにはいるが、我われを監視しているわけではなく、普通は火鉢の傍に座って、話をしたり煙草をすったりしていた。彼らの仕事といったら、半時間毎に拍子木を打って、中庭を歩いて回り、時を知らせることであった。彼らの上官はいつも格子の傍に座ってはいるが、時たまこちらをのぞいて見るだけで、ほとんどは本を読んでいた。
 
* 日本人は殊の外読書を好む。平の兵卒さえも、見張りのときもほとんど休みなしに本を読んでいる。しかし彼らの読み方はいつも、歌うように声を伸ばして音読し、我が国で葬式のとき、聖書の中の詩編を唱えるのに似ているので、大変に耳障りで不愉快であった。慣れないうちは夜も眠れないことがあった。日本人が好んで読む物は、およそは日本の歴史物か、近隣の諸国との紛争や戦争を扱ったものである。これはみな日本で印刷したものである。日本ではまだ印刷に鉛活字を使うことを知らず、堅い木の板に著作を彫るのである。
 
 我われに付いている直参の番卒の邸内見張りについていうと、彼らは初めのうちこそ厳重に役目を果たしていたが、そのうち夜間は眠っていたり、奥の詰所で本を読んだり、あるいはカルタや将棋を指したりしていた。
 (『日本俘虜実記 下』P16-P17)
 

 


 
★鏡
 
* 日本には硝子の鏡はなく、すべて金属製である。なかには見事に磨き上げられて、我われが普通所持している鏡に近いものもある。
 (『日本俘虜実記 下』P245)


 


★ヨーロッパ人の視線
 
(ゴロウニン等が、2年3ヶ月余りの抑留から解放されてディアナ号に乗って帰還する描写)
小舟の中の日本人たちは、姿が見えている間じゅう我われに礼をし続けていた。
 しかしそのとき吹き出した順風に乗って、艦は速力を速めて岸から遠ざかった。我われがあんなに多くの災厄をなめた陸岸、ヨーロッパ人が野蛮人と呼んでいる平和な住民たちの寛容さをつぶさに経験した陸岸は、遙かな彼方に遠ざかって行った。
 (『日本俘虜実記 下』P246-P247)

 

 


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