問題の所在のためのメモ
―動的な渦中としての現在から
落合陽一『日本再興戦略』、古市憲寿「ニッポン全史」第1、2、3回(註.1)、佐藤航陽『お金2.0―新しい経済ルールと生き方』など、三十代くらいの若い世代の文章や本を最近読んでいて思ったことがある。現在がすでに新たな自然感覚や自然認識の水準に突入した世界にあるということを背景として、その現在の尖端に浸かっているという感触から落合陽一や佐藤航陽の言葉は出てきている。つまり、同時代に生きるわたしたちが割と無意識的に日々生活している世界を、それぞれの言葉の中身の正否は別にして、その世界の渦流の尖端を自覚的に歩こう、あるいは疾走しようとしているように見える。中でも、佐藤航陽は、時代状況や時代の推移に関する感度の良い見識を持っていて、彼の別の本も読んでみようという気持を起こさせるものを持っている。
わたしは、『子どもでもわかる世界論のための素描』の「8.層成す世界 3 (覚書)」で、人間の「自然認識」を0次元から4次元の層に分けて粗描的に考察したことがある。( https://blog.goo.ne.jp/okdream01/e/8e824f8ad7441ceb304a18757771de76 ) また、わたしは、柳田国男が「火の昔」でたどって見せたような、火から電灯へなどの変貌や時代の推移の仕方というものにも、特別の関心を持ってきた。
ところで、このようなわたしたちの自然認識の水準などをはじめて問題にしたのは、わたしの知る限りマルクスに学んだ若き吉本隆明である。わたしは、二十代の頃、当時はその言葉の意味するものがよくわからなかったが、以下の言葉に出会い、印象深い言葉として覚えている。時々その言葉を思い起こすことがあった。
しかし、わたしのかんがえでは、人間の自然にたいする関係が、すべて人間と人間化された自然(加工された自然)となるところでは、マルクスの<自然>哲学は改訂を必要としている。つまり、農村が完全に絶滅したところでは。
現在の情況から、どのような理想型もかんがえることができないとしても、人間の自然との関係が、加工された自然との関係として完全にあらわれるやいなや、人間の意識内容のなかで、自然的な意識(外界の意識)は、自己増殖とその自己増殖の内部での自然意識と幻想的な自然意識との分離と対象化の相互関係にはいる。このことは、社会内部では、自然と人間の関係が、あたかも自然的加工と自然的加工の幻想との関係のようにあらわれる。だが、わたしはここでは遠くまでゆくまい。
(「カール・マルクス」P190-P191、『吉本隆明全著作集12』勁草書房 1969年10月)
これは、1966年頃、今から50年位前に当時の状況を基に書かれた文章である。ここに描写されたような未知の世界にわたしたちはすでに浸かっている。そのように変貌した社会を敏感に感じているのは、言葉で言えば言葉の若い芽の部分であり、世代として言えば、若者たちだろうと思われる。
若い世代の文章や本を最近読んでいて思ったことの問題の所在を少しでも明らかにするために、以下メモとしていくつか取り出してみる。その問題の所在というのを、ひと言で言い換えてみれば、同時代の現在の渦中に誰もが日々生きているわけだが、世代的なまとまりの一般性として抽出すると、同じ現在を呼吸し享受しているにもかかわらず、〈現在〉というもののイメージについて世代間でずれや違いがあるように見える。それらのずれや違いの中からどうしたら全体的な〈現在〉のイメージが得られるかというモチーフということになる。
1.〈現在〉とはなにか。
わたしたちは、個として見ればひとりひとり絶えざる〈現在〉を生きている。この現在は瞬間的な時間である。しかし、その現在も生きられる、あるいは消費されることによって遠離り過去となっていく。こうした生命活動の機構をわたしたちは日々生きている。
ここで像として取り出してみたい〈現在〉は、そうした生命活動の瞬間的な機構としてではなく、また、近代以降を現代と呼ぶほどの長い時間でもなく、10年前後の社会も意識も大きな変動を被らないような時間の幅を具体性としては想定している。
2.〈現在〉を微分してみる
同じ現在といっても、人それぞれ違う。その違いを超えてある程度の共通性として、現在に生きる人々全体とか、あるいはその中に世代的なまとまりとかとして抽出できそうに見える。
〈現在〉というものにわたしたちが視線を向ければ、そこにはあるひとつの普遍性として内蔵されたものがあり、それを大きく分けて比喩的に言えば新しい芽の部分と古い胴体の部分とがあり、層をなすように分布している。そこからいろんな具体性を介して普遍性としてのある構造が外に現れ出てくる。そして、その現在に生きる人々すべてをその普遍性が貫き、影響下に置こうとするとしても、その現在に生きる人々は固有の生い立ちを持っており、現在を呼吸し感受し考え行動する形は、一般的に同一ではない。一般に、世代的に見ると、若い世代が現在の新しい層、すなわち先端的な部分の感性を象徴し、老年世代は現在の引きずっている古い層、すなわち消えかかっていく古い部分を象徴している。
3.〈現在〉から抽出する
まず、わたしたちが、いま・ここに生きて在る〈現在〉を対象として、ひとつの抽象性として、抽出し取り出してみようとする場合、わたしたちは外にある対象を対象として捉えるというようにはいかない。たとえそのように見えても、わたしたちは〈現在〉の渦中にありながら〈現在〉を対象としようとしているのである。物理学ではこうしたことから来る問題として不確定性原理というのがある。そのようなわたしたちの視線と〈現在〉との関係の構造は、一般にもよくあり得るもので、変えようがないものだ。そこで注意事項を挙げるなら、わたしたちは〈現在〉を不随意運動のように無意識的に生きている面も大きいから、できるだけ内省的に、特に自分の属する小社会以外にも想像力を働かせながら、しかも過去や過去からの流れをできるだけ参照しながら、〈現在〉を対象とすべきだと思われる。付け加えれば、わたしたちの現在は、このようなことや内からの視線と外からの視線の関わり合いの問題などを意識したり考慮したりせざるを得ない段階に至っているということである。わたしたちが、対象を捉えたり了解したりする場合の一般性としての注意すべきことである。
4.〈現在〉の渦中のふるまい
2.でも一度触れたが、ある共通性として抽出されうる同じ現在に生きている人々といっても、その内側ではまた世代的な共通性としていくつかの形で抽出できるように見える。個の固有の生い立ちからくる微細な違いは捨象したとして、一般的にいえば、青少年が〈現在〉の尖端に近く、壮年期・中年期は現在の産業的生活の中心近くに位置し、老年が〈現在〉の出自である過去の方により近く位置している。
おそらく〈現在〉におけるこういう世代的な意識の分布状況があるから、ある新しい事態が社会に登場したときの初期段階には必ずと言っていいほど現れる人々の感受や意識の反応の型、すなわち、親和・中性・反発というものが現象してくるのだろう。柳田国男の時代のラジオの登場の時もそうだったし、現在の電子辞書やケイタイの登場の時もそうだったろう。しかし、〈現在〉は、時代は、そうした状況の渦の中、動きを止めることはない。人々をしてそれらを自然なものとして慣れさせていく。こうして、時代は推移してきたし、これからも推移していくだろう。
(註.1)
「ニッポン全史」 古市憲寿
第1回 「家族」と「男女」の日本史 (『波』2018年12月号、新潮社)
第2回 未来の歴史 (『波』2019年1月号)
第3回 戦争と平和の歴史 (『波』2019年2月号)
※ わたしが偶々とっている新潮社のPR雑誌「波」に連載され始めたもの。