虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

日本の古代史と神々(その13)

2008-01-18 16:05:47 | 宗教
今日は。時々もちらつきますが、陽(ひ)の有難さが感じられます。

日本の古代史に興味を抱いている人は多いようで、ホームページも沢山あります。力作も多々あって、読むのに1日で終わらないというものも多いですね。

これまで長々とこのシリーズを書いてきましたが、縄文時代に蛇信仰があったのは明らかな事実だろうと思います。
何故、蛇信仰なのか? 残念ながら、明快な回答に到っていませんし、納得できる考えにも出会っていません。
大体、現代人が考える答えは、ご利益にいたるようですが、本当にそうだったのでしょうか?
例えば、蛇は主に水の神様ですが、そのご利益と害は想像可能です。水が無ければ全ての動植物は生きていけませんからね。水は生命の源と理解すればいいだけです。その害も、河川の氾濫から大津波、暴風雨、雨乞いにみられる少雨など等。
ですが、縄文人が<霊的>なものを感じ取っていただろうことも、もう一方の事実だと思います。死者の埋葬方法や再生を願う土偶などから伺えます。

死者を祭ることが怨霊と結びつく発想は、かなり遅く、国家がまがりなりに形成された後のことだろうと推察しています。
但し、その根底に縄文いらいの<神の祟り>という発想がベースにあっただろうことは否定できません。

元々、神は恩恵を与えるとともに、祟る=人間に罰を与える存在として捉えられていたはずです。蛇神=水神の発想がそのことの本質をあらわしています。
神の恩恵を祝う=祭り、神の祟りを鎮める=祈りの両面が縄文の神に対する行為としてあったのだろうと思います。
それが水神=蛇神に仮託されたのでしょう。

日本における神社の古式から想定すると、本当の神は<漠然とした捉えがたい何ものか>であったのでしょう。
そのことは、依代(よりしろ)として山、岩、木などを神聖視する礼拝形態から明らかです。やがて、それは動物=日本では蛇(化身)として表現され、巫女(依代)へと変化していくのだろうと思います。
巫女は人に<言葉=言霊>として表現してくれますから、蛇よりまだ分かりやすいわけです。
縄文時代にニセ・シャーマンは、男でも女で殺された可能性があります。そうのように解釈される人骨が出土するからです。
シャーマンも命がけですねw。

卑弥呼(巫女)を立てることによって国内が治まった理由は、縄文時代からそのような土台がこの日本の存在したからなのであって、中国からの移入によるものでないことが、これで理解できるでしょう。

さて、ここからが問題です。
記紀の神話によると、古事記では<天御中主尊・高皇産霊尊・神皇産霊尊>、日本書紀では<国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊>の三柱が現われることになっています。
何故か「3」という形に拘(こだわ)っています。

記紀に、ベースとなる原資料があったのは確かです。
その<原資料>は、多分、聖徳太子と蘇我馬子が記録した(させた)ものだろうと思われます。
日本書紀・推古天皇の項に、次のような記述がみられます。

『この年、皇太子と馬子大臣が相議って、天皇記および国記、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記を記録した。』

皇太子は聖徳太子、馬子は蘇我馬子です。

これらの記録文書は、結局、大化の改新の折、蘇我蝦夷らによって焼かれるのですが、一部、国記などは焼却をまぬがれたとされています。(皇極天皇の項)


大化から天武天皇までせいぜい30~40年くらいしか経っていませんから、当然、聖徳太子が造らせた国記は残っていたでしょう。
古事記を編纂するにあたって、古史古伝を読み憶えた稗田阿礼は多分、焼却された部分である臣・連以下の古史古伝を記憶(記録)したのでしょう。

整理すると、こういうことです。
     
            国記(聖徳太子編)
天皇記(古事記)← <基礎資料>  →日本書紀
            稗田阿礼の記録

図式が書けないので、少々不満ですが、上のような関係で記紀は編纂されたと予想されます。特に、日本書紀編纂には百済・新羅からの渡来者が関わっているといわれていますので、日本の歴史には疎(うと)いとみてよいでしょう。
そうすると、編纂方針は何らかの指針が必要となります。
多分、聖徳太子が編纂した国記に、その指針をみいだしたと考えるのは、自然だと思います。既にあるのですから。

さて、聖徳太子(存在しないとも言われています)が、ある一定の編纂方針を決めていたと仮定しましょう。―それ以外にありえないのですがw。
特に、神代(上)はパターンが決まっています。
3とか7とかいうパターンで記述されています。
これがどういう意味かは、ここでは書きません。

聖徳太子は仏教徒だという話は、眉つばです。記録としては確かに書いてありますが。

聖徳太子を語るときにポイントになるのは、秦河勝(はたのかわかつ)であることが様々な本やHPでも指摘されています。

ところで、この秦一族とは、どんな一族なのでしょう?

記録によると、仲哀天皇の第8年(書記AD199or200:改定288年)、弓月(ゆづき)の王 功満が公式訪問に来日したとあります。(新撰姓氏録)

日本書紀では、応神天皇の第14年(書記AD283年:改定372年)、弓月の君が百済から来朝し、百二十県の人民を率いてやってきたが、新羅が妨害して日本に移住できないと訴えています。
第16年になって漸く、弓月の民を率いて葛城押襲津彦(かつらぎそつひこ)が帰還します。弓月の民の数は18,670人といわれています。大集団ですね。
何故か、モーゼの出エジプトを思い出させます。

さて、ここまでは日本側の記録でわかるのですが、では、彼らは何処にいた民なのでしょうか?
京都の大酒神社伝承によると、秦始皇帝14世の孫(弓月の君)とされていますが・・・少々怪しいw。

中国の文献(資治通鑑)に弓月のことが記されているらしいのですが、確認できませんでした。(「封印の古代史2<仏教・景教篇>」)

『弓月王は中国の巨丹(新彊・ウイグル自治区のホータン)に生まれ、中国・甘粛省(ガンスー省)、敦煌よりさらにはるか西にある。陽関地方を含めた120県から一族を集めて、AD238年に大挙して日本に移住して来た。この地方に「弓月の君、百二十県の民を率い、大挙して日本に渡来、移住す。」という記録が残されている。120県にちらばっていた2万人を束ねて砂漠を越え、黄河をくだり、半島をへて渡海してきた。2万人とは、大事業である。』(「魔多羅神2」より引用させて頂きました。)

何れにしろ、秦氏は西域から集団で移動してきた渡来人であるようです。これは秦氏が建立した寺や神社などを調べると、その痕跡が伺えます。

秦氏は弥勒菩薩で有名な広隆寺、木島神社ほか宇佐八幡宮、松尾大社、金刀比羅宮、伏見稲荷大社等々と関係がある(建立したor乗っ取ったのだと思うw)とされています。

秦氏の神社とされる木島神社(木島坐天照御魂神社:このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は、推古天皇12年に勧請され、実年代はAD606年と考えられています。
この神社は三柱鳥居と元糺(もとただす)の池、御祭神に天之御中主神(古事記の天御中主尊と同じ)、景教の名残だとされる社伝があるなど、一風変わった神社です。
「この鳥居の中心部に組石の神座があり、宇宙の中心とされ、主祭神の天御中主命の降臨する所である。」という説明と写真をみると、あることに気づくはずです。
無論、宗教に詳しくない人にはわかりませんがw。

<違いなく、古代のユダヤ教です。

私も、ラビ・M・トケイヤー氏の「日本・ユダヤ封印の古代史」を読んだ時は、なるほど程度の印象でした。そういう説もあることは知っていたので、然程、気になる話ではないし、古代に少しは西域の影響もあるのだろうくらいに思ってました。
が、今回、このテーマで考えてみたところ、どうも違いますね。

トケヤー氏はユダヤ教のラビでありながら、根本的なことが分かっていないのか、説明したくないのか?、三柱鳥居と天御中主尊(神)について語っていません!
何故なら、それはカバラにおける<ソロモンのシール>そのものだからです。

△の中に・(目)があるシールのことで、ソロモンのシールといい、アメリカのドル紙幣にも印刷されています。秘密結社の印のように言われますが、元々は違います。カバラからでた印です。
△の頂点がケテル、左角がビナー、右角がチョクマー、中心の・(点)がホアといいます。この<・>が目として象徴されているのですが、創造神をあらわしているのです。

秦氏と景教(通称、ネストリウス派キリスト教:大乗に対する小乗みたいな蔑視語)を結びつけると、何かトンデモ本あるいは説とされるみたいですが、それは間違いでしょう。
むしろ、<トンデモ>と言ってる人が無知なだけです。ほっときましょうw。

これで謎が一つ解けました。秦氏は古代のユダヤ教徒(ユダヤ人とは限りません、念のため)だったのです。

ですから、後から伝わった景教(東方キリスト教)をすんなり受け入れたのでしょう。キリストがユダヤの地から出たということを大喜びで受け入れたことでしょう。

ここで年代の整理をしましょう。

①秦氏の祖先は、概ね3~4世紀には日本にいた。彼らはユダヤ教徒であった。
②景教は431年エフェソスの公会議でローマ側から異端とされ、東方へ急速に布教された。(5世紀~)
③景教が中国へ正式に伝わったのは600年代初頭?。635年、長安に寺院が建てられている。
④木島神社は606年に立てられている。景教が中国と同時頃日本に達した可能性大。
景教徒は布教に異常なほど情熱を傾けたらしいから考えられる。(日本にもいますねw)
⑤ただし、原始キリスト教は1世紀にインド→チベット→中国へ伝わっている(トマスの伝道)。<参考まで>
⑥古事記 712年成立。

こうしてみると、秦氏は景教を即座に受け入れ、自らの信仰に取り入れたといえます。但し、巧妙に、日本風に改変して受け入れたということでしょう。

実は、天御中主尊が祭られている古式神社はほとんどありません。ところが、古事記で最初に現われる神は、この天御中主尊なのです。古事記は天皇の私家本みたいのものです。我が家の歴史なんですねw。その最初の祖先が<天御中主尊>なのに・・・何故、祭られないのか!

日本書紀では、何故、一書として書かれているだけなのか?

謎は謎を呼びますねw
ミステリーですね。(意外とミステリーじゃないと思うけどw)

今回は書きすぎたので、この辺で終わりにしょうと思いますが、おさらい。

木島神社の三角鳥居は、皆が思っているようなものではなく(キリスト教の三位一体説:真ん中に神はいません!、方位説:真ん中に神が降りる意味不明?)、古代ユダヤの密教である。
△は「3」であることに注意!
古事記も日本書紀も3人の神から始まる!(中の点は表示しなくても良い)
これを持ち込んだのは秦氏であり、聖徳太子である。
記紀には、ユダヤ密教が取り込まれている。

ま、大体、こんなところでしょうか。

では、またお会いしましょう