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「文革の女帝」江青が夫・毛沢東を支えた賢妻に!再評価のきっかけか?―中国
モバイル版URL : http://rchina.jp/article/35426.html
2009年9月15日、中国の建国60周年記念ドラマ「解放」で、文化大革命を首謀した「四人組」の1人である江青が肯定的に描かれていることで様々な憶測を呼んでいる。香港紙・明報が伝えた。
江青(こうせい/ジャン・チン)は毛沢東の4番目の夫人で、文化大革命では「四人組」の1人として権勢をふるった悪名高き女性。毛の死後に逮捕され、最後は獄中で自殺を遂げた。ところが、ドラマに出てくる江青は46年に勃発した国共内戦で、共産党の本拠地である延安が占拠された際も最後の最後まで撤退しなかった夫の傍を片時も離れなかった賢妻として登場。北京で開かれた「四人組裁判」のシーンでは、「あの時代、毛主席の傍に最後までついていた女性は私だけだった」とまで語らせている。
実は10年前の建国50周年記念ドラマでも、毛沢東暗殺未遂事件を起こし「反革命集団」と呼ばれてきた林彪が、やはりイメージを刷新させるように描かれ、世間を驚かせた。林彪はいまだ完全な名誉回復は遂げていないものの、その後、「反革命集団」扱いはされなくなった。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=13444
“反革命”林彪の生誕100年行事、当局が禁止命令―中国
モバイル版URL : http://rchina.jp/article/13444.html
2007年12月5日、『美国之音』(VOA)によれば、彼の親類や関係者により、12月5日に林彪(リン・ビャオ)の生誕100年を記念する行事が計画されていたが、武漢公安当局から突然禁止命令が出たそうだ。
中国十大元帥の一人である林彪は、文革中に毛沢東から“後継者”として指名され、一時は実権を掌握した人物。1971年9月、中国政府は「林彪が妻と息子を連れソ連に逃亡を図ったが、飛行機はモンゴル温都爾汗に墜落、乗客乗員は全員死亡」と発表した。中国共産党は彼に対する評価を“裏切り者、内通者、売国奴、野心家、策略家”などと改め、林彪の片腕であった参謀総長の黄永勝(ホアン・ヨンション)ら部下4名は16~18年の懲役刑に。
その林彪の親類や林彪が指揮した第4野戦軍のかつての部下らが、12月5日に湖北省黄崗で林彪の生誕100年を記念する行事として銅像除幕式を計画。林彪が生前親しくしていた人物や関係者が出席する予定だったが、武漢公安当局から突然禁止命令が出た。
『美国之音』中国語部の記者が武漢公安当局にインタビューしたところ、ある幹部は「何も知らない」と答えているそうだ。ある情報では、これは中国政府上層部の決定とも見られているという。林彪の部下だった黄永勝の子息は「当局の行動も理解できなくはないが、これは合法的な集まり」と述べ、遺憾の意を表した。(翻訳・編集/岡田)
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=30161
「主席、愛しています」=文化大革命の女帝が残した最後の言葉―中国
モバイル版URL : http://rchina.jp/article/30161.html
2009年4月3日、環球時報は毛沢東の四人目の妻にして文化大革命の主導した「四人組」の一人、江青(ジャン・チン)の最後に関する記事を掲載した。
1976年、毛沢東の死と同年に江青は逮捕された。1980年から裁判が始まり、1981年に死刑判決(執行猶予2年)を受けている。1983年、刑は無期懲役に変更され、長い囚人生活が始まった。
当初は刑務所に収監されていた江青だったが、1984年に健康問題を理由に監獄外に住み、治療を受けることが許された。1989年に再び刑務所に戻ったが、今度は喉頭ガンが見つかった。医者は手術するよう勧めたが、江青は拒否した。療養のため再び監獄外での生活が許可されたが、江青はかつて暮らした中南海の毛沢東故居か、文革時期に過ごした釣魚台ホテルでの暮らしを求めた。その要求を拒絶した担当者に自殺すると脅しをかけたと伝えられている。結局、江青は北京市朝陽区酒仙橋の近くに住まいを移すこととなった。
先のエピソードからも知れるように、江青は毛沢東にその死後も深い愛を持っていたようだ。死の直前までも「毛沢東選集」を読んだり、毛沢東の詩を暗唱していた。1991年5月14日、江青は首をつって自殺した。その前日には次のような言葉を書き残している。「主席、愛しています。あなたの学生と戦士が会いに行きます。江青。」(翻訳・編集/KT)
2009-04-04 21:25:19 配信
「文革の女帝」江青が夫・毛沢東を支えた賢妻に!再評価のきっかけか?―中国
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2009年9月15日、中国の建国60周年記念ドラマ「解放」で、文化大革命を首謀した「四人組」の1人である江青が肯定的に描かれていることで様々な憶測を呼んでいる。香港紙・明報が伝えた。
江青(こうせい/ジャン・チン)は毛沢東の4番目の夫人で、文化大革命では「四人組」の1人として権勢をふるった悪名高き女性。毛の死後に逮捕され、最後は獄中で自殺を遂げた。ところが、ドラマに出てくる江青は46年に勃発した国共内戦で、共産党の本拠地である延安が占拠された際も最後の最後まで撤退しなかった夫の傍を片時も離れなかった賢妻として登場。北京で開かれた「四人組裁判」のシーンでは、「あの時代、毛主席の傍に最後までついていた女性は私だけだった」とまで語らせている。
実は10年前の建国50周年記念ドラマでも、毛沢東暗殺未遂事件を起こし「反革命集団」と呼ばれてきた林彪が、やはりイメージを刷新させるように描かれ、世間を驚かせた。林彪はいまだ完全な名誉回復は遂げていないものの、その後、「反革命集団」扱いはされなくなった。
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“反革命”林彪の生誕100年行事、当局が禁止命令―中国
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2007年12月5日、『美国之音』(VOA)によれば、彼の親類や関係者により、12月5日に林彪(リン・ビャオ)の生誕100年を記念する行事が計画されていたが、武漢公安当局から突然禁止命令が出たそうだ。
中国十大元帥の一人である林彪は、文革中に毛沢東から“後継者”として指名され、一時は実権を掌握した人物。1971年9月、中国政府は「林彪が妻と息子を連れソ連に逃亡を図ったが、飛行機はモンゴル温都爾汗に墜落、乗客乗員は全員死亡」と発表した。中国共産党は彼に対する評価を“裏切り者、内通者、売国奴、野心家、策略家”などと改め、林彪の片腕であった参謀総長の黄永勝(ホアン・ヨンション)ら部下4名は16~18年の懲役刑に。
その林彪の親類や林彪が指揮した第4野戦軍のかつての部下らが、12月5日に湖北省黄崗で林彪の生誕100年を記念する行事として銅像除幕式を計画。林彪が生前親しくしていた人物や関係者が出席する予定だったが、武漢公安当局から突然禁止命令が出た。
『美国之音』中国語部の記者が武漢公安当局にインタビューしたところ、ある幹部は「何も知らない」と答えているそうだ。ある情報では、これは中国政府上層部の決定とも見られているという。林彪の部下だった黄永勝の子息は「当局の行動も理解できなくはないが、これは合法的な集まり」と述べ、遺憾の意を表した。(翻訳・編集/岡田)
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「主席、愛しています」=文化大革命の女帝が残した最後の言葉―中国
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2009年4月3日、環球時報は毛沢東の四人目の妻にして文化大革命の主導した「四人組」の一人、江青(ジャン・チン)の最後に関する記事を掲載した。
1976年、毛沢東の死と同年に江青は逮捕された。1980年から裁判が始まり、1981年に死刑判決(執行猶予2年)を受けている。1983年、刑は無期懲役に変更され、長い囚人生活が始まった。
当初は刑務所に収監されていた江青だったが、1984年に健康問題を理由に監獄外に住み、治療を受けることが許された。1989年に再び刑務所に戻ったが、今度は喉頭ガンが見つかった。医者は手術するよう勧めたが、江青は拒否した。療養のため再び監獄外での生活が許可されたが、江青はかつて暮らした中南海の毛沢東故居か、文革時期に過ごした釣魚台ホテルでの暮らしを求めた。その要求を拒絶した担当者に自殺すると脅しをかけたと伝えられている。結局、江青は北京市朝陽区酒仙橋の近くに住まいを移すこととなった。
先のエピソードからも知れるように、江青は毛沢東にその死後も深い愛を持っていたようだ。死の直前までも「毛沢東選集」を読んだり、毛沢東の詩を暗唱していた。1991年5月14日、江青は首をつって自殺した。その前日には次のような言葉を書き残している。「主席、愛しています。あなたの学生と戦士が会いに行きます。江青。」(翻訳・編集/KT)
2009-04-04 21:25:19 配信
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