コロナ禍の か は 禍なのか 下なのか・・?
8月4日 いとこの父上の訃報。
いつもあれこれ世話を焼いてくれる叔母のご主人、同じ学年のいとこも居るし、
本来なら葬儀に参列したい気もヤマヤマ。
では あるが 居住地のコロナ陽性率や移動のための交通機関を考えると
迂闊に動けない。
さすがに高齢者まみれの中に 危険地帯から未知の生物兵器(?)を
自覚は無いとは言え、持ち込む可能性を100%否定出来ない状況では、、、
お互い ちょっとモンヤリするのも なんだかなーー。。。
もしかしたら 正味の身内は 危険地帯からでも行ってるかもしれないけど
立場的にそこまで・・・となるので今回は遠慮。
お花と電報の手配だけして、遠い空の下から 冥福を祈る。
従姉妹に励ましの連絡したい気もするが タイミングをつかめず そのまま。
近年 患いで入院していると 仄聞していたけれど。
いろいろお世話になりました。安らかにお眠りください・・・・
とか、言いながら 不祝儀を理由に会社はお休みした。何となく。
前代未聞とかなり前からTVで騒がしかったGW。
さぁ、ゴロゴロ週間始まりました!と思った昼下がり。
けいはしの叔父さんが亡くなりました。詳細はまた連絡します。
え?っと?
最近 ご無沙汰だが近しい所に住む叔父。
はて?義叔母は何年か前に心臓を悪くした様な話は耳にしたが
叔父の話は聞いてない。
・・・
斎場に入った所で親しい叔母に会う。通夜から泊りで居たらしい。
義叔母はやはり体調に不安を抱えているため夜は一旦、家に帰ったとのこと。
エラい急やけど患ってたっけ?
ちゃうちゃう、全然!!
その日、早朝から友人らとウッキウキ♪♪ルンルンルン♪♪で ゴルフに出かけ
一日楽しんだ帰宅後、頭が痛い、救急車呼んで。と自ら訴え
病院に運ばれた頃にはイビキをかく状態。
数十年前に一度梗塞から回復した経験がある叔父は
あまり良く無い状況の自覚が有ったのかもしれない。
午後9時に病院に入り 数時間後には虹の橋を渡った。
生前 ゴルフ場で最期を迎えられたら最高だ!と言っていたほど
ゴルフ好きだった叔父は
真新しいゴルフウェアに身を包みゴルフ帽を被って横たわる。
パターやグリーン、ピンフラッグまで設えたゴルフコースを象った祭壇は
何やらカジュアルな印象。
溢れんばかりの花で包まれた棺の中 祖父や父にそっくりになっている顔は
微かに笑っているようだ。
虹の橋の向こうで 大好きなゴルフを思う存分 楽しんでいるやろな。
いやいやいや、文句たれの叔父のこと、
祖父やその他の親族と揉めまくっている方に 3000ルピア!
起業したり手放したり、海外に赴いたり地図に残る仕事をしたり、
紆余曲折の生涯、最期のホールインワン。お疲れ様。
ちなみに その日のスコアは良く無かったそうな。
父のこと
父、永眠の知らせを受けたのは 2015年10月14日の朝。
父は仕事中の頸椎損傷による 後天性の障がい者だった。
(障がい者と言う呼び方はあまり好きではないが)
当初 医師の診断では 3ヶ月を覚悟してください、元に戻ることはありません。
とのコトで 急ぎ帰省した時には 意識もなく
身体中に管が差し込まれて 絵の様だったコトを覚えている。
程なく 意識が回復したが 状況が飲み込めていないのと
気道確保の管が喉あるため 喋る事が出来ないゆえ意思の疎通がままならない。
無声音で口を動かすが イラチな母は 管を抜けと言ってると解釈、
これは医療で必要なものだから我慢して!等と応えている。
イヤイヤ、
どー見てもそんなコト、言ってないし。。。
同じく里帰りしている九州の叔母に「ありゃぁ、いかんで。ひらがな表とか
ないかな?」と相談すると カレンダーの裏に 50音を書いてくれた。
書く発想は無かったので おぉ!!と思ったわ〜。
早速それを病院に持参、指でなぞりながら 父の言わんとするコトを解明。
初日のソレは紙がヘロヘロするので 寝た状態の相手には見にくい事から
白いボール紙の箱の裏に改良。←買う発想は無いのな。
あれから 数十年。
思い出そうとしても忘れられない 様々な悲喜交々、紆余曲折。
あの「3ヶ月」は 良くある医師の方便発言。
意識がある分 置かれた状況と折り合いを付ける事が
なかなか難しかっただろうと思いを馳せる。
性格もアレだし・・・な・・・
兄は 臨終間際まで意識があった事に 感謝していた。
それまで父が行っていた 様々な田舎暮らしのイベントや慣習、
そのほとんどを いきなり任された戸惑いや不安の中、
細々とした仕来りや付き合いを気兼ね無く聞く事が出来る相手がいるのは
心強かったようだ。
10月9日の昼、急に意識を失い救急搬送された、
血液検査の結果、あまり長く無いかもしれない。
帰れるなら帰って来たら?と兄から連絡を受けた。
以前 京都の叔父が入院した際、お見舞いをたった一日、ずらした事で
生前会えなかったことが今でも心残り、後悔していることもあり
11日に帰省、搬送先の病院へ直行。
意外にも意識は はっきりしていて、「何事か?」と問う始末。
「いやぁ、用事あったから、ついでついで。
死んでたらあかんしぃって思って」と濁す。
まぁ、うっすら気付いてたかもね。
脳天気な甥っ子が彼女と来て、あれやこれや喋って帰った後
兄が合流。何で病院に居るのか訊いている。
兄は昨日も病室に来て、会話もしたが
父は意識が混濁していたのか
救急搬送の後、まる一日分の記憶が無いらしい。
翌日見舞いに行った帰り際、「東京オリンピックも決まったし、TV見ないと、ね?」と
告げると「もぉ、いいわ」と言う。
「また、来るね。」と言うと僅かに笑った。
2日後の早朝、訃報。
最期に顔を見て会話出来た事は良かった。
兄と姐に感謝。
半分以上消しゴムの里にいるボンバーマザーに、
父を支えてくださった多方面の方々に、
心からありがとう。お世話になりました。
長い長い間、意識がある分、不自由な身体で もどかしさや悔しさは
如何ばかりだったろうと想像するが それはいつも想像の域を出ない。
亡くなった時、私の人生の丁度半生分を 障がい者として過ごした父。
本当に、本当に お疲れ様。
開放されて 飛び跳ねているだろう。。。か?
↑イヤイヤ… 問題山積の 消しゴムボンバーマザーが 心配で
まだまだ安心できないか??
かなり前の話なんだけど やっと自分の中で昇華できつつあって…
自身、かなりのお父さん子だったので頭で理解出来ていたものの感情が着いて来なかった様だ。
赤、白、みどりのクリスマスカラーが
通りにあふれだした 12月…
祖母が 天寿を全うした。
先月 一時帰宅をした時には食欲もあったし、
まだ大丈夫かなと思えたが
今月に入ってからは 食欲も無く
呼吸も浅くなって来ていたらしい。
朝に 心の準備をしておく様にと
連絡があって数時間後の訃報。
子、孫、ひ孫に看取られながらの
静かな静かな旅立ちだったとの事。
厳しく温かく、時に お茶目な
ふところの深い人。
元々はお喋りだったが
病気してからの ここ数年は
モノを言うのが 億劫だったのか
言葉は無かった。
もっと 話を聞いていたら良かったなぁ
モノ言わぬ瞳の底に
何を抱いていたのか…
一抹の後悔…
祭壇の前で 一番に思い浮かぶ言葉は
ありがとう。
立派でも良い孫でも無くてごめんね。
また、、、ね。。
ジットリ汗ばむ…
根性ナシの私は とりあえず、ブログ夏休みでした。(^_^;)
久しぶりに 毛穴から吹き出す汗を観察してました。(←汚)
この週明けに 注意報を伴う雨が降ったお蔭で
朝晩は 涼しくなりました。。。。と言っても昼間は30度超えですが・・
何だか 訃報が多くて
どこか無常感に とらわれていた様な今年の前半。
残り4ヵ月しかないけど(夏休み長すぎ??)
明るいニュースを見つけて行こう・・・・
久しぶり過ぎて 文が グダグダやな・・・・
知人のブログを開いた2月のとき。
"Oさんの訃報"の一文。
記事を読むと どうも 知人の環境に似ている。
それどころか そのもの。
いやいや、元気な 賀状を頂いたし、、、
そんなはずは無いよね?と心の中では否定をしながら
十年ばかり前に 大きな病気を患った事を思い出す。
その後 たしか、大丈夫って聞いたし…
まさかね?
半信半疑で 携帯を鳴らすが コールが響くだけ。
共通の知人のオオ氏に告げて連絡を入れてもらうが返事は
同じ。
たまたま妹さんも知っているので連絡をするが
挨拶をしてからの最初の一言が出せない。
「え~っと・・・勘違いやったらごめんやけど…、、」
「うん、なに?なに?」
「人違いやったら ほんまに許してね。
もしかして あのぉ… 亡くなりはったん?」
「うん、そう。今日、式も終わってん。
本人の希望で身内だけで。知らせてないねん。」
言葉に詰まりながら状況を訊くと
身体は かなりしんどかった様だが
元気で仕事もしていた。
本人も知っていたので
「好きな仕事に戻れたし、子供も内定が決まったし、
幸せだったよ。」と言ってたって。
サナトリウムに入ってからは
あっと言う間だったとのこと。
もちろん、心残りはあるだろうけど…
それでも 幸せの言葉に安らぐ。
妹さんが 明るい人なので 悔やみを言いながら
ついつい 笑いもでてしまった。
語尾を流すような引っ張るような独特な話口調。
いつも 前を向いて歩いていた。
明るく元気な肝っ玉マザーだった おおさん。
あれから一ヶ月、何かの拍子に思い出して
あ、…と思ってしまう。
あなたが思う以上に元気を貰ってました。
もう会えないのが未だに信じられない。。。
ありがとう。
ブログで知るってのも不思議な縁。
ブログ主は 尊敬する酔龍さん。
おおさんと酔龍さんが知人だと知らなかった。
多分 おおさんも私と酔龍さんが知人とは知らなかったと思う。
酔龍さんもコメントして初めて 私とおおさんが友人と知った。
少し前のコトなのと重い話なので記事にするべきか迷っていた。
その後 オオ氏に連絡して、「死なんとってな」と言うと
「120歳まで生きるから安心して」と返された。
それは心強いわぁ。
東日本大震災
2011.03.11
ちょっとイスに腰を下ろした直後、
めまい?貧血?疲れ?
それが 揺れているコトに気付くのに少し時間が掛かった。
「これ、揺れてる」そう解った後でも
また揺れ出す。
長い。
長い横揺れ。
TVには東北の震度が映し出される。
関西の震度は出ない。
津波情報に注意…。いつものテロップが流れる。
そのまま、すぐに日常は戻ってくるはずだった。
家路に向かう駅で 何気に受け取った号外には
ウソのような光景が記されていた。
時間が進むにつれて 様々な情報が映像と共に
もたらされる。
画面を通して見る映像は 映画のワンシーンの様で
何故だかフィクションのように思えた。
関東方面に暮らす知人、友人は大丈夫なのか?
携帯も電話も繋がらず、メールも送信できない状態が続く。
直後に焦ってもダメなコトは経験済なのに…
本当に必要な人たちが 使える様にと思いなおし
ちょっと時を置いてメールだけ送信する。
数時間~数日経って 知人達から大丈夫の返信。
幸いなコトに身近な知人は誰も大事に至らなかった。
それは 本当に僅かな幸運でしかなく
大切な人や物、思い出を失った方々の気持ち思うと
やりきれなくなる。
何故?どうして?
何処にも吐けない怒りにも似た感情が出て当たり前なのに
ニュースで見る被災された方々は気丈に振舞って
お互いを思いやる気持ちに溢れた言葉しか出ない。
そして いつ終わるともしれない原発の不安。
果敢に作業を続ける現場の方々。
ソーテーガイの言葉でまとめられる曖昧な情報。
私に何が出来るのか 被害が大きすぎて解らない。
何を言っても上滑りな気がするけれど
それでもやっぱり
一日も早い復興と
被災された方々、
現場で作業を続けている人々の
心身の健康を祈らずにはいられない。
祈るコト、気にかけるコト、そして日常を坦々と送るコト
今 出来ることは それくらい。
ヒステリックな援助やボランティアは 却って邪魔になる気がする。
本当に必要な時に必要なことをすれば良いと考えるのは冷たい…かな?
当時住んでいたのは 築○十年の馬蹄形のビル。
1階、2階には店舗や会社、3、4階は住居の構成の4階の端っこの部屋。
早朝、激しい音と揺れを、寝起きの薄っすらとした意識の中で感じ
あぁ、地震だなぁ。タンスがコケたら死ぬかもなぁ。と呑気に考えていた。
一足早く目覚めた相方は布団を被って私の上に被さって守って居たと供述しているが
記憶にはないので割愛。(^_^;)
いつもなら まだまだ寝ている時間。
揺れでタンスの上の プラケースが落下したのを機にしぶしぶ起きた。
玄関の下駄箱が倒れていた。
マルが その上にちょこんと乗ってこちらを見上げていた。
動物の勘みたいなもんはないのか?
他は 車付きの家具類の位置が迫り出している程度で
食器にいたるまで被害は無かった。
馬蹄形というか、円形というか、この形の建物って強いのかしら?
ビル全体でもガラス2枚割れた程度の被害しか無かった。
あれだけ揺れたんだからきっとTVのニュースで流れているはずと
TVを点けたが民放では 普通の番組しか無く
NHKだけが社屋の揺れる映像を流した。
情報が無いので近所の友人にTELを入れる。
「こっちは停電してるよ、怪我は無いけど。」との返事。
出勤時間になったので出かけると ダイヤは乱れていたが地下鉄は動いていた。
社員の連絡や出勤で被害がマチマチなことが解っていった。
神戸の被害を知ったのは帰宅してからだった。
神戸在住の友人にTELするとすぐに繋がった。
その時、友人のお母さんが「戦争よりマシ」と仰った。
たくましい。。。
被害状況が克明にTVに映し出されるのと比例して
連絡も取れなくなるくらい回線は混乱した。
マスコミ報道は日毎に加熱して行きヘリコプターの轟音や車両の無謀さが反感を買った。
幸い、私の身近な友人や知人に大きな被災は無かったが
身内や友人を失ったと言う人も。
あれから15年。
5歳だった子供は成人式を迎える歳月が流れた。
あの日生まれた赤ちゃんも 中学卒業だ。
一見、神戸は驚異的な復興を遂げた様に見える。
一方で今でも 被災が原因で亡くなる方も存在する。
もう15年。
まだ15年。
この1ヶ月位後にオウム事件が起こって
あれほど五月蝿かったマスコミは ほとんどそちらの事件報道に変わった。
数年後、引越先で寝室に背の高い家具を置かなかったのは
この経験が尾を引いている気がする。
ん~、この話はオチが無いなぁ。(; ̄^ ̄;)
未だに細部まで鮮明に思い出すコトが出来るのは
トラ年だけに どこかでトラウマか?
ん~、オチがつまらん。(; ̄^ ̄;)
地震直前の深夜、見上げた月がイヤに大きく
ピンクがかっているなぁと思ったことさえ覚えている
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先日ハイチで大地震が起こった。
被害が拡大しない事を祈るばかり。
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1995年1月20日朝刊1面
「被災者になって分かったこと」
あの烈震で神戸市東灘区の家が倒壊し、階下の老いた父親が生き埋めになった。三日目に、やっと自衛隊が遺体を搬出してくれた。だめだという予感はあった。
だが、埋まったままだった二日間の無力感、やりきれなさは例えようがない。 被災者の恐怖や苦痛を、こんな形で体験しようとは、予想もしなかった。
あの未明、ようやく二階の窓から戸外へ出てみて、傾斜した二階の下に階下が、ほぼ押し潰されているのが分かり、恐ろしさでよろめきそうになる。父親が寝ていた。いくら呼んでも返答がない。
怯えた人々の群が、薄明の中に影のように増える。軒並み、かしぎ、潰れている。ガスのにおいがする。
家の裏へ回る。醜悪な崩壊があるだけだ。すき間に向かって叫ぶ。
何を、どうしたらよいのか分からない。電話が身近に無い。だれに救いを求めたらよいのか、途方に暮れる。公的な情報が何もない。
何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ、走っていく。彼の家もぺしゃんこだ。それでも駆けつけてくれる。
裏から、のこぎりとバールを使って、掘り進んでくれる。彼の道具も失われ、限りがある。いつ上から崩れてくるか分からない。父の寝所とおぼしきところまで潜るが、姿がない。何度も呼ぶが返事はなかった。強烈なガスのにおいがした。大工さんでは、これ以上無理だった。
地区の消防分団の十名ほどのグループが救出活動を始めた。瓦礫(がれき)の下から応答のある人々を、次々、救出していた。時間と努力のいる作業である。頼りにしたい。父のことを頼む。だが、反応のある人が優先である。日が暮れる。余震を恐れる人々が、学校の校庭や公園に、毛布をかぶってたむろする。寒くて、食べ物も水も乏しい。廃材でたき火をする。救援物資は、なかなか来ない。 いつまで辛抱すれば、生存の不安は薄らぐのか、情報が欲しい。
翌日が明ける。近所の一家五人の遺体が、分団の人たちによって搬出される。幼い三児に両親は覆いかぶさるようになって発見された。こみ上げてくる。父のことを頼む。検討してくれる。とても分団の手に負えないといわれる。市の消防局か自衛隊に頼んでくれといわれる。われわれは、消防局の命令系統で動いているわけではない、気の毒だけど、という。
東灘消防署にある救助本部へいく。生きている可能性の高い人からやっている、お宅は何時になるか分からない、分かってほしいといわれる。十分理解できる。理解できるが、やりきれない。そんな二日間だった。
これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。“災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜(ふそん)さ、甘さを思い知る。 この街が被害者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う。
(神戸新聞 社説)