父、永眠の知らせを受けたのは 2015年10月14日の朝。
父は仕事中の頸椎損傷による 後天性の障がい者だった。
(障がい者と言う呼び方はあまり好きではないが)
当初 医師の診断では 3ヶ月を覚悟してください、元に戻ることはありません。
とのコトで 急ぎ帰省した時には 意識もなく
身体中に管が差し込まれて 絵の様だったコトを覚えている。
程なく 意識が回復したが 状況が飲み込めていないのと
気道確保の管が喉あるため 喋る事が出来ないゆえ意思の疎通がままならない。
無声音で口を動かすが イラチな母は 管を抜けと言ってると解釈、
これは医療で必要なものだから我慢して!等と応えている。
イヤイヤ、
どー見てもそんなコト、言ってないし。。。
同じく里帰りしている九州の叔母に「ありゃぁ、いかんで。ひらがな表とか
ないかな?」と相談すると カレンダーの裏に 50音を書いてくれた。
書く発想は無かったので おぉ!!と思ったわ〜。
早速それを病院に持参、指でなぞりながら 父の言わんとするコトを解明。
初日のソレは紙がヘロヘロするので 寝た状態の相手には見にくい事から
白いボール紙の箱の裏に改良。←買う発想は無いのな。
あれから 数十年。
思い出そうとしても忘れられない 様々な悲喜交々、紆余曲折。
あの「3ヶ月」は 良くある医師の方便発言。
意識がある分 置かれた状況と折り合いを付ける事が
なかなか難しかっただろうと思いを馳せる。
性格もアレだし・・・な・・・
兄は 臨終間際まで意識があった事に 感謝していた。
それまで父が行っていた 様々な田舎暮らしのイベントや慣習、
そのほとんどを いきなり任された戸惑いや不安の中、
細々とした仕来りや付き合いを気兼ね無く聞く事が出来る相手がいるのは
心強かったようだ。
10月9日の昼、急に意識を失い救急搬送された、
血液検査の結果、あまり長く無いかもしれない。
帰れるなら帰って来たら?と兄から連絡を受けた。
以前 京都の叔父が入院した際、お見舞いをたった一日、ずらした事で
生前会えなかったことが今でも心残り、後悔していることもあり
11日に帰省、搬送先の病院へ直行。
意外にも意識は はっきりしていて、「何事か?」と問う始末。
「いやぁ、用事あったから、ついでついで。
死んでたらあかんしぃって思って」と濁す。
まぁ、うっすら気付いてたかもね。
脳天気な甥っ子が彼女と来て、あれやこれや喋って帰った後
兄が合流。何で病院に居るのか訊いている。
兄は昨日も病室に来て、会話もしたが
父は意識が混濁していたのか
救急搬送の後、まる一日分の記憶が無いらしい。
翌日見舞いに行った帰り際、「東京オリンピックも決まったし、TV見ないと、ね?」と
告げると「もぉ、いいわ」と言う。
「また、来るね。」と言うと僅かに笑った。
2日後の早朝、訃報。
最期に顔を見て会話出来た事は良かった。
兄と姐に感謝。
半分以上消しゴムの里にいるボンバーマザーに、
父を支えてくださった多方面の方々に、
心からありがとう。お世話になりました。
長い長い間、意識がある分、不自由な身体で もどかしさや悔しさは
如何ばかりだったろうと想像するが それはいつも想像の域を出ない。
亡くなった時、私の人生の丁度半生分を 障がい者として過ごした父。
本当に、本当に お疲れ様。
開放されて 飛び跳ねているだろう。。。か?
↑イヤイヤ… 問題山積の 消しゴムボンバーマザーが 心配で
まだまだ安心できないか??
かなり前の話なんだけど やっと自分の中で昇華できつつあって…
自身、かなりのお父さん子だったので頭で理解出来ていたものの感情が着いて来なかった様だ。