オーソレ、何それ?

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立花宗茂2:浪人から大名への返り咲いた「不屈の勇将」

2005-12-28 00:06:06 | 戦国時代
立花宗茂の続編です。宗茂の波乱の人生はクライマックスを迎えます。

2度の朝鮮出兵は秀吉の死で終わり、こんどは国内が風雲急を告げます。天下の野望をあらわにする家康と石田三成に代表する反家康派が対立、両者は1600年秋、関が原で激突します。この時宗茂は西軍に属しました。徳川家康とも良好な関係でしたが、秀吉への恩義から西軍へ参陣したと言われています。宗茂は京極高次の近江大津城攻めに参加していたため、関が原の決戦に参加することはできませんでした。宗茂は大阪城に戻ると総大将の毛利輝元に徹底抗戦を主張しましたが、その主張は退けられ、宗茂は空しく領国の柳川へ帰国しました。

領国に帰ると東軍方の諸将が柳川城目指して攻めてきました。しかし宗茂と仲のよかった加藤清正は城を遠巻きにするだけで、むしろ家康との和睦の仲介を行いました。ただし鍋島直茂は北から攻め込んできたためこれを迎え撃ち、多数の死傷者を出しながら鍋島軍の進撃を食い止めました。島津義弘は自分も西軍の将として攻め込まれる身でありながら、宗茂を助けるため柳川へ援軍を送ったそうです。その後加藤清正のとりなしで宗茂は降伏、開城し家康に帰順します。しかしながら家康は宗茂を改易処分としました。家康は宗茂に対して決して悪い感情は持っていなかったようですが、やはり西軍として実際に行動を起こした宗茂に対してお構いなしというわけにはいかなかったようです。

宗茂は一転浪人となりましたが、宗茂の家臣たちは仲のよかった加藤清正、黒田長政、細川忠興らが召抱えたため、生活を成り立つことができました。宗茂自身は上方で復帰を目指し浪人生活を送りましたが、加藤清正らの援助もあって日々の暮らしには苦労はなかったそうです。

そして世は徳川の時代となり、家康の息子秀忠が二代将軍の座につくと、宗茂は秀忠の拝謁を許され(きっかけは宗茂の家臣がチンピラにからまれるという事件が起きたことだそうです)陸奥棚倉に一万石を与えられました。元の所領の十分の一以下ですが大名に復帰しました。秀忠は宗茂を助言役として重用するようになり、大坂夏の陣では秀忠の目付け役として、事実上秀忠の軍師としての役割を果たしました。秀忠は関が原の合戦の際、真田昌幸の上田城攻めにてこずったため、関が原の合戦に間に合わず面目を失った苦い経験がありました。自らに的確な助言を与え、戦場での苦手意識を払拭させてくれる宗茂は得がたい存在であり、秀忠の絶大なる信頼を勝ち取ることができました。

豊臣家滅亡後、宗茂は秀忠の軍事顧問としての役目は終わりましたが、今度は政治上の相談を受けるようになったということです。やがて元の所領だった柳川藩の田中氏は無嗣子のため改易処分となったため、秀忠はその代わりに宗茂を柳川藩主に任命し、ついに旧領を取り戻すことができました。二代将軍秀忠は外様、譜代を問わず過酷な改易、取り潰しを行った人物ですが、この秀忠に絶大な信頼を勝ち取ることができた宗茂はやはりただ者ではないと思います。

秀忠の没後三代将軍家光の世になっても宗茂の地位は変わりありませんでした。宗茂は藤堂高虎と並び外様大名としては異例の存在でした。その後勃発した島原の乱では原城攻略に貢献しましたが、このとき宗茂は71才、これが久しぶりかつ最後の戦場でした。その後も家光は宗茂を76才で没するまで相談相手として離さなかったそうです。

このように会う人会う人皆ほれ込んで、頼りにされたり、助けられたりしながら波乱に満ちてはいましたが76才の生涯を送った立花宗茂という人は本当にすごい人物だと思います。

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8 コメント

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あけましておめでとうございます (o_sole_mio)
2006-01-04 15:37:13
littlebluebellさん、2006年最初(日本時間)のコメントありがとうございます。



「friendly bacteria」という表現があるのですか。人間の体には多数の「friendly bacteria」が棲んでいて人間を助けてくれているのだと思います。



例えば人間の皮膚には「表皮ブドウ球菌」や「ミクロコッカス」などの菌が棲んでいて菌叢(フローラ)というものを形成しているそうです。これらの菌は病原性はなく、逆に病原菌の侵入を阻止してくれているそうです。ちなみに同じブドウ球菌でも「黄色ブドウ球菌」は病原菌ですが、「表皮ブドウ球菌」は人間と共生している「friendly bacteria」なのだと思います。



本年もよろしくお願いいたします。
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Unknown (littlebluebelll)
2006-01-01 03:20:08
こんばんは。

まだイギリスは年明けしてませんが、気分はお正月です(笑)明けましておめでとうございます!



コメントについて、私も過剰に反応し過ぎるのはかえって体にストレスが溜まるのではないかな?と日頃思っていました。それに便乗して悪徳商法も出てきてしまいますし。。



「適度な病原菌との接触により体が免疫反応を覚えていくというのが私の持論です。」

これは私も賛成なのです。



ちょっと話違うかもしれませんが、英語では摂取したほうがいい細菌(バクテリア)の事を「Friendly bacteria」と表現しています!ヨーグルト会社の戦略で使われたのが始まりか分かりませんが、細菌を食べるという悪いイメージを無くす事も出来たし、解り易いとみんな使ってます(笑)そして私もこの英語好きになりました!



徳川家康が自分で薬を調合する事、初耳でした!古いヨーロッパでもハーブを使用し病気を治すという事は盛んに行われていたようです。日本でも薬草として使える草があるので、そんなのを使っていたのでしょうね!



今年もまた宜しくお願い致します。

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まさくにさん (o_sole_mio)
2005-12-30 23:52:08
コメントありがとうございます。



私もこの立花宗茂の人となりを詳しくしったのはつい最近です。領国が十万石そこそこで、中央から離れた九州で活躍した武将なので、知名度は低いのですが、すごい人だと思います。



こういった人の存在を知ることが歴史の醍醐味だと思っています。



また来年もよろしくお願いいたします。
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littlebluebellさん (o_sole_mio)
2005-12-30 23:47:27
こちらこそコメントを楽しみに拝見しております。



様々な化学物質の暴露、過剰な栄養、過剰なストレスなど現代社会でも健康を損なう要因が数多くあります。個人的には抗菌グッズなどの過剰な対応は却ってマイナスだと思います。適度な病原菌との接触により体が免疫反応を覚えていくというのが私の持論です。



そういえば、徳川家康は自ら薬を調合するなど相当の「健康オタク」だったそうです。



また来年もよろしくお願いいたします。

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初めて知りました (まさくに)
2005-12-30 08:11:13
このような武将が存在したことを始めて知りました。戦国時代は人物に惚れることも多かったのですね。長命ということもそうですが、複数の将軍に軍事顧問として仕えるのも珍しいのかもしれませんね。



お疲れさまでした。
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Unknown (littlebluebell)
2005-12-30 04:51:32
いえいえ、こちらこそいつもお世話になっております!ありがとうございます。



93歳は長寿ですね!戦がなければ殆どの武将も長寿だったのかもしれませんよね。日ごろから武芸などで体を鍛え、シンプルな食事でも十分に栄養を取れてたという事ですよね~。確かに健康でありたいと思いますが。。現代は健康食と歌うのは良い事だと思うのですが、健康!健康!とヒステリーになり過ぎではないかな??と思ってしまいます(泣)それだけ現代の食事がダメ?という事なのでしょうかね。。?
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長寿の戦国武将 (o_sole_mio)
2005-12-28 21:18:12
早速のコメントありがとうございます。



当時の平均寿命は40~50才だったようですが、私の手元の資料では真田信之の93歳を筆頭に70年以上生きた戦国武将も結構います。家康も75歳まで生きていますね。この二人に代表されるように政治的な手腕に優れていた武将は比較的長生きだったようです。



また武芸などで体を鍛えたり、当時は粗食で逆に健康食だったかもしれません。
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Unknown (littlebluebell)
2005-12-28 08:55:29
こんにちは。

続き読まさせて頂きました!驚いたのは立花宗茂76才、その当時には珍しく長寿ではないでしょうか!??

長寿と比例するのか、立花宗茂自体が人を大事にする人だったという証拠でもありますよね?お金や物ではなくて人格で、人はこの人なら自分の命が危なくても捨てられる!その様に人から思われるほどの人物であったのですよね。戦国時代の人間模様は奥が深いです。浪人から大名までへと行くにはどうやっても難しいでしょう。。。農民から大名になった豊臣秀吉が有名ですよね?

立花宗茂、まさに真の武人(殺すばかりではなく、人を引き付ける)なのですね。
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