オーソレ、何それ?

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薩摩の猛将、関が原の敵中突破

2005-03-09 00:36:48 | 戦国時代
戦国時代コーナーは前回の本多忠勝に続き「強い武将」シリーズです。

島津義弘(1535~1619)は、九州の雄島津氏の中でも勇猛でならした人物である。
義弘は薩摩・大隅の島津貴久の次男であり、当主の父貴久やその後を継いだ兄義久を数多くの戦いの先陣に立つことで支えた。

義久の活躍により島津氏の勢力圏は次第に北へ広がって行き、宿敵である豊後の大友義鎮(宗麟)と日向の耳川で激突し、島津は数で劣るものの精強な島津兵と島津兄弟の一致協力により、大友宗麟を撃破した。そして島津は九州の覇権を握った。

九州統一も時間の問題かと思われたが、大きな敵が立ちはだかった、豊臣秀吉である。秀吉は毛利、四国連合軍で島津を攻めた。島津は前哨戦の豊後の戸次川で豊臣方の長曽我部、淡路、仙石などの四国軍を迎え撃ち、これを撃破することに成功した。しかしその後の合戦では敗戦が続き、ついには秀吉に降伏した。秀吉に降伏することで兄義久は隠居し、義弘はその後を次いで島津の当主となった。

豊臣政権下に組み込まれた義弘は、文禄・慶長の朝鮮出兵に参陣し、数々の戦で敵を撃破し、その名を天下にとどろかせた。特に泗川城の戦いでは、37000人の大軍を7000人の寡兵で打ち破り、敵兵を斬首すること数千に及ぶという華々しい戦果を上げた。そして敵軍からも「鬼石曼子(おにしまんづ)」と恐れられた。

秀吉の死後、重臣伊集院忠真が領国で反乱を起こしこの鎮圧などで家政は疲弊していく、こういった中で迎えたのが関が原の合戦である。義弘は家康から伏見桃山城の守りを依頼されるなど当初東軍に加担するつもりだったが、伏見桃山城の主将鳥居元忠が義弘の入場を許さずやむなく西軍に加わったと言われている。

関が原の合戦当日島津は戦場の中央に陣取っていたが、総大将の石田三成と軍議で意見が合わず、西軍として組織的な戦いには加わらなかった。しかし、島津軍の精強さは知られているため東軍も警戒していた。その後小早川秀秋の寝返りにより西軍は壊走し、勝敗の帰趨は決定した。そして島津はついに動いた。ところが島津は敵に背を向けて敗走することはせず、敢えて敵中突破を選択した。

島津の突進は鬼気迫るものがあり、歴戦の勇将福島正則も手を出すことが出来なかったという。大将である義久を生還させるため、甥の島津豊久と重臣の阿多長寿院盛淳が義弘の身代わりとなって討ち死にした。島津軍の奮戦により、義弘は伊賀を抜け堺までたどり着くことができたが、1500の兵うち生き延びた者はわずかに80であった。

薩摩へ帰国すると義弘は隠居、出家し家督は息子の忠恒が継いだ。そして義久・忠恒らの数年に渡る粘り強い交渉の末その所領が安堵された。西軍でありながら本領が安堵された背景は、朝鮮出兵時と関が原の島津の戦いぶりに、実際に討伐すれば徳川方にも大きな被害が出ると思わせたためであろう。

義弘は晩年を迎えることになるが、さすがの歴戦の勇士義弘も年老い衰えて、食事も思うように取れなくなった。ところが食事のとき、家来が彼の周りに集まってほら貝を吹き、いっせいにときの声をあげると目を見開き食事をとることができたそうだ。そして義弘はついに元和5年(1619)84歳の生涯を終えた。

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2 コメント

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最強武将シリーズ (まさくに)
2005-03-11 00:35:28
島津家は剣術は示現流(?)だったのでしょうか?確かそんなような剣術が九州にあったような…薩摩であったように思うのですが。



九州は何故か剣道が強く(柔道もですが)、イメージとしては、伝統的に武術が強いような感じです。



朝鮮出兵では、以前に書かれていた熊本城築城の加藤清正を思い出します。鉄砲を装備し、戦慣れした戦国武将率いる日本軍は、おそらく鬼のように強かったのでしょうね。明軍も破ってしまいました。
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薩摩示現流 (o_sole_mio)
2005-03-11 23:20:00
まさくにさん、どうもです。



示現流は薩摩の剣術です。藩御留め流で、門弟は全て薩摩藩の上級武士だそうです。何でも一撃必殺の剣だそうですね。



朝鮮出兵で活躍した戦国武将は多いですね。中国地方の武将では、小早川隆景が碧蹄館で明の大軍を破っています。



加藤清正が築城した熊本城は、日本最強の城郭かもしれません。西南戦争で官軍が勝利した要因に一つに官軍が熊本城で持ちこたえたことが挙げられます。築城約二百年後にその優秀さが証明されることもすごいと思います。
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