オーソレ、何それ?

私、o_sole_mioが好きな歴史、旬の話題、
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適当に書きつづります。

戦国の「課長・島耕作」:家康を上司と仰いだ男

2005-01-07 00:31:02 | 戦国時代
藤堂高虎は、豊臣家の恩顧を受けながら秀吉の死後ひたすら家康に付き従う「ゴマすり大名」として評判が余り芳しくない。しかし私は藤堂高虎を「中間管理職の鏡」、「戦国きっての合理主義者」として評価している。彼は確かに世渡り上手であるが、前の主君に大きく義理を欠いたことはない。目上の人に対して上手く立ち回れるし人使いも上手い。また新しい技術や考え方を取り入れることも抜かりない。信長、秀吉、家康とは違った意味で自分にはとうていまねできない「凄い」人物だと思う。

藤堂高虎は近江の人で、最初は浅井長政に仕える。姉川の合戦で浅井家が滅んだ後、主君を転々と替え豊臣秀吉の弟秀長の家臣となる。高虎は秀長の下で三木城攻略、賤ヶ岳の合戦などで戦功を上げる。秀吉の天下取りの陰には秀長の戦功があったが、秀長の戦功の陰には高虎の活躍があったと言われている。1591年、秀吉の天下取りを見届けると秀吉のよき補佐役であった秀長がこの世を去ると、高虎は秀長の養子秀保に仕える。しかし秀保もほどなくして亡くなり、またしても主を失った高虎は仏門に入る。しかし秀吉に再び召しだされ伊予宇和島7万石の大名となる。

1598年に秀吉が亡くなり、またしても主を失った高虎は新たな主君を見つける。それが徳川家康である。高虎は家康に忠誠を誓い、関が原の合戦では東軍として活躍しただけでなく、西軍からの寝返り工作を画策したとも言われている。その功績もあり高虎は、伊予今治22万石、伊勢津24万石と累進を重ね、大阪の陣の功績により32万石に加増される。関が原から大阪の陣にかけての活躍によって家康の絶大な信頼を得、もし天下に大事ある時は、藤堂を一番手とする、とまで言わしめた。これは外様大名としては破格の待遇である。このサクセスストーリーが高虎を「戦国の課長島耕作」と私が呼んでいる所以である。

また、高虎は築城の名手であり、自らの居城として宇和島城、大洲城、今治城、津城、伊賀上野城などを築城しただけでなく、豊臣家、徳川家の居城の築城を普請奉行として手がけたと言われている。また築城だけでなく城下町の町割りなどにも長けていたと言われている。

このような高虎なので逸話も多い。私が気に入っている逸話を2つ紹介すると

(1)家臣の中に博打と女郎通いで家財を失った者がいた。博打で家財を失ったものは減棒の上引き続き召抱えたが、女郎に溺れたものは放逐した。高虎曰く「女郎通いは欲に溺れた結果であり、家臣としては役に立たないだろう、博打は人に負けたくないという負けん気の結果かも知れずまだ見所があるため引き続き召抱えた。」
(2)関が原合戦の後、西軍大将の三成が捕らえられ城門の前に晒されていた。東軍の各将は三成をみると揶揄したり罵声を浴びせたりしていたが、高虎は丁重な態度で関が原の合戦の際に自分の軍勢に対峙した三成に自軍について至らない点がないか教えを乞うた。高虎の態度に三成も居ずまいを正し鉄砲隊の指揮官の待遇を良くしてはどうかと助言した。

この逸話から言えることは高虎は合理主義者であり、家臣の扱いにも合理的な基準(ばくち打ちだって欲望に負けたかもしれないが、明確な基準を設け家臣をフェアに扱ったことが重要なのである)を決めそれに基づいて処分を決定したり、自らの軍勢を最も客観的に見た敵将三成に対し囚われの身であるにも関わらず辞を低くして教えを乞い、貴重な情報を入手したということである。

また、高虎は日蓮宗であったが、家康の死にあたり家康とあの世で会えるようにと家康と同じ宗派である天台宗に改修している。この辺りは現代の感覚から言えば多少いやらしさは感じられるが、合理主義者である高虎は本気で家康とあの世で会おうなどとは考えていなかったのではないだろうか、徳川家と藤堂家を結ぶ絆を出来るだけ増やし、藤堂家の行く末の安泰を願ってのことだったのではないだろうか。

しかし身近にこのような人物がいてもやはり「いやな奴」なのかもしれないが。

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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
じっくり読ませてもらいました。 (CLUBYY)
2005-01-08 00:56:17
こんばんは。

タイトルの意味が凄く理解できました。

織田信長~徳川家康までの時代は凄く好きなので

藤堂高虎という名前は、知ってました。

以前に太閤記とかで出てきますよね。

最近、武将たちの戦法が営業にも役立たないかと勉強したりしてます。

もちろん課長島耕作も以前によく読んだりしましたです。

ちなみに自分の最近の旬は斉藤道三です。

また、歴史もの教えてください。
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ビジネスと戦国武将 (o_sole_mio)
2005-01-08 01:33:00
CLUBYYさん、こんばんは。



よくビジネス雑誌で戦国武将の生き様が紹介されますが、ビジネスと相通じるものがあるのだと思います。とうことでビジネス雑誌も結構情報源だったりします。



私はナンバー2として活躍した人が割と好きです。代表的なのは小早川隆景と直江兼続ですが、2人ともここで紹介しました。



戦国時代を中心に歴史物ももう少し続けたいと思いますのでこちらこそよろしくお願いします。
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Unknown (まさくに)
2005-01-08 10:31:40
かつての鍛冶鉄砲技術者や築城技術者は、最先端の人たちだったように記憶しています。現代なら、ちょっと前のハイテク・IT技術者のような人々でした。

合理的な実務家でないと、築城のような事業は成功させられなかったのかもしれません。また、人脈として特定の普請部隊を率いていたのかもしれませんね。有力な技術者集団との特別な関係がなければ、普請奉行は務まらなかったのかも(誰だったか忘れましたが、工期の遅れで首をはねられた武将がいたような・・・)。

お城は詳しくないのですが、熊本城が一番好きです。2度見に行きましたが(関西よりずっと東側に住んでいますので凄く遠かった)、感動しました。あの形態と実戦的な機能が合わさって、まさに「機能美」と感じました。あれほどの大きな城を見たことがなかったので(田舎育ちですから!)、正直驚嘆しました。昔の築城技術がハイテク産業であったことが実感できたような気がしました。
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熊本城 (o_sole_mio)
2005-01-08 17:37:06
まさくにさん、コメントありがとうございます。



技術者の話はまさに私が書き足りなかった部分を補足して頂きました。ありがとうございました。



熊本城ですが、私も最近熊本城が日本三名城のひとつに数えられることを知りました。三名城といいましても熊本、姫路、大阪、名古屋の中の三つの組み合わせですが。熊本城はもう一人の築城の名手である加藤清正の傑作です。熊本城が城砦として優れていたことは明治に入って西南戦争のとき、薩摩軍が熊本鎮台のあった熊本城を落とせなかったことでも示されています。
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自分も同感 (CLUBYY)
2005-01-10 14:53:32
こんにちは。

休日いかがおすごしですか?

自分もナンバー2という立場大好きです。

いわゆる参謀。

どの時代もどの会社にも参謀がしっかりしているとビッグになってますよね。

自分も、どちらかといえばそちらを目指しております。
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ナンバー2 (o_sole_mio)
2005-01-10 22:48:28
CLUBYYさん、こんばんは。



今日は長い一日でした(後ほど記事にします)。



ナンバー2といえば参謀や補佐役としてリーダーを支えていく人物ですが、近代では、ホンダの藤沢武夫や中国の周恩来がナンバー2の代表像だと思います。



日露戦争の参謀といえば秋山真之が有名ですが、この時代の最高のナンバー2は、日露戦争海戦時の連合艦隊参謀長の島村速雄だと思います。島村速雄を扱った歴史小説に「海将伝」(中村彰彦著、角川文庫)があります。
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