オーソレ、何それ?

私、o_sole_mioが好きな歴史、旬の話題、
賞味期限の切れた話題等を
適当に書きつづります。

戦国の賢弟たち(その3)

2006-04-23 00:18:59 | 戦国時代
少し間が空きましたが、戦国シリーズの続編です。

現在のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公(の夫)山内一豊の弟山内康豊もまた、兄をよく補佐した人物と言われています。康豊の功績と特筆されているのが、関ヶ原の合戦の論功行賞で山内一豊が土佐に就封するに当たり、兄に先行して入国し、井伊家の軍勢と共に長宗我部氏の旧家臣の反抗を押さえる一方で土豪や農民達の民心を掴み、その後の領国経営を容易にしたことです。このことで代表されるように康豊は、豊臣政権における豊臣秀長の役割を山内家で果たしたと言えるようです。しかし康豊は秀長にできなかった山内家への未来への貢献を果たします。それは康豊の息子忠義が実子がいなかった兄一豊の養子となり、1605年に一豊が死去すると忠義が一豊の後を継ぎ二代目土佐藩主となりました。しかも忠義が若輩のため康豊は2年間実子忠義の後見人を務めました。多くの大名がこういった状況で、その地位を失ったことを考えると康豊の貢献は非常に大きいと言えます。

九州の雄、島津氏の戦国時代の当主は島津義久ですが、義久には義弘、歳久、家久という3人の弟がいました。勇猛果敢な義弘、知略に並ぶもののない歳久、兵法に長けた家久とそれぞれの個性で兄を支え、四兄弟一致団結して戦いながら大友、竜造寺といった強敵ぞろいの九州の地で版図を拡大し、一時は九州の大半を制するようになりました。しかし、ついに天下統一を目指す豊臣秀吉の勢力が九州にも及ぶようになり、豊臣軍との決戦となります。緒戦となる戸次川の合戦では、指揮官の仙石秀久の不手際もあり島津軍は大勝し、豊臣軍を一度は撃退することに成功しました。しかしながら物量に圧倒的優位な豊臣軍は、秀吉の弟秀長を総大将とする追討軍が到着すると、さしものの島津も豊臣と講和し、秀吉に臣従を誓います。
しかし豊臣との講和が島津四兄弟の禍根となります。まず末弟の家久が急死、豊臣秀長による毒殺との説があります。さらに三男の歳久が朝鮮出兵に従軍しなかったことをきっかけに秀吉の不興を買い、その結果歳久は島津家安泰のため自害しました。

従って関が原から徳川幕府の発足という激動の時期を長兄義久、次男義弘の二人で迎えることになります。さらに関が原の合戦にやむなく西軍として参加した義弘は、乱戦の中、自らの防衛のため東軍に退却戦を挑まざるを得ませんでした。このとき島津軍は義弘の指揮で大きな損失を出したものの、その精強さを天下に見せ付けます。それがその後の義久と徳川家康との戦後処理を巡る駆け引きで有利な状況を引き出し、江戸から遠く離れた薩摩ではありますが、西軍参加武将として唯一本領安堵を勝ち取ります。

その後、本領安堵の後伏見城に上洛した長兄義久は家康に「義弘をはじめとする3人の弟や家臣達が相反することなく一致団結して戦ってくれたので、私が先頭に立ち戦に出たことはなく、ただ鹿児島の城にて留守番をしていただけでした」と語ったと言われています。

最新の画像もっと見る