オーソレ、何それ?

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適当に書きつづります。

山口県と首相と関が原

2006-10-01 22:54:52 | 戦国時代
安倍晋三首相は、佐藤栄作さん以来山口県が地元の政治家ですが、歴代の総理大臣中8人が、山口県出身あるいは山口県が選挙区で、県別では最多だそうです。明治維新に貢献したということが最大の理由でしょうが、きっかけはもしかしたら関が原の合戦にあったのではないかと思います。

山口県出身あるいは地元の首相は、初代内閣総理大臣の伊藤博文を筆頭に、山県有朋、寺内正毅、桂太郎、田中義一、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三の8人です。ちなみに戦後の3人は血縁関係にあります。しかし政治家が2世3世と血族に継承されていくと、安倍晋三さんのように生まれも育ちも東京で親から受け継いだ選挙区は山口というように、本人の直接の関係は薄れ、関係が微妙になるのではないかと思います。もちろんこれは選挙民がどの候補を選ぶか、そこの選挙民の自由ではありますが。

そういった話は別にして、とにかく山口県が地元の首相は8人と県別では最多(出生地でいえば東京が最多になるでしょう)です。山口県がかつて長州藩として明治維新を薩摩藩とともにリードし、明治政権樹立後も薩長藩閥を確立させたことが最大の理由だと思います。しかし長州藩を幕末の雄藩として飛躍させたエネルギーは関が原の合戦で不完全燃焼の上、領土を大幅に減らされ徳川幕府に臣従せぜるを得なかった屈辱感ではないかと思います。

関が原の合戦は、徳川家康の上杉景勝攻めのため会津に向かって兵を率いた上方を空けた隙を狙って、石田三成が西軍を召集したことによりますが、このとき「内府(=家康)ちかひ(=違約)の条々」を発して諸国の大名に呼びかけたのは西日本の大大名五大老の一角を担う毛利輝元でした。この段階で毛利は西軍の中心として家康と戦う意志があったのかもしれません。しかしながら毛利家中は一枚岩ではなく、また家康に加担した諸大名の多数派工作が始まります。決定的だったのが、黒田長政が親交のある吉川広家と「戦のときに動かなければ家康は本領安堵を約束する」という密約を結んだことです。この結果関が原の合戦で毛利本隊の鼻先に陣取った吉川軍は動かず本隊を押し留め、毛利は天下分け目の合戦に参加することはありませんでした。

しかし合戦後の処理で黒田長政と吉川広家が結んだ密約は反故にされ、毛利輝元の所領は120万石から周防、長門の2カ国約30万石に大幅に削られ、徳川政権の一大名としての地位に甘んずることになりました。大幅な減封の結果江戸時代当初の長州藩の経営は困難を極めましたが、産業の育成等の努力が実り改易されることなく幕末まで続き、幕末~維新の活躍はご承知の通りです。

真実かどうかは定かではありませんが、長州藩が関が原のエネルギーを明治維新まで溜め込んでいたことを示すエピソードがあります。毎年お正月に家老が毛利家当主に「殿、今年はいかがいたしましょうか?」と問い「今年はまだ早かろう。」と当主が答える儀式があったそうです。これは、関が原の復讐を今年するかどうかの確認というよりは、この恨みを忘れない「リメンバー関が原」という意味合いがあったと思われます。それが200年余りたって本当になったというのが歴史の面白さというべきでしょうか、はたまた恨みの恐ろしさというべきでしょうか。

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