オーソレ、何それ?

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戦国時代の弓矢:特性を生かして時代を生き残る

2005-05-10 00:05:31 | 戦国時代
戦国時代の弓矢の使い手が少ないことの理由として、この時代に鉄砲が台頭し弓矢の地位が低下したことを紹介したが、ベタ藤原さんより「戦国時代の軍忠状を元にして出した負傷率で言えば、弓矢によるものがダントツで、 長篠の合戦に於いても弓矢によって負傷したモノが多かった」旨コメントを頂いたので、戦国時代の弓矢についてもう少し調べて見た。

鈴木眞哉氏の「謎解き日本合戦史」によると南北朝時代の軍忠状では負傷理由の86.4%が弓矢によるものであるのに対し、応仁の乱~島原の乱の期間のトータルでは鉄砲による負傷は全体の2割弱だが、鉄砲伝来以降に限定すると約4割となる。このことは鉄砲伝来以前の戦闘においては弓矢が圧倒的な主役であったが、戦国時代では鉄砲の普及とともに戦闘の主役の座につき弓矢は次第の主役の座を鉄砲に譲り渡したことを意味する。

鉄砲の普及で弓矢の全軍に占める割合は低下したが、それでも幕末まで弓兵が無くなることはなかった。鉄砲の登場で旧式化したように見える弓矢だが、いくつかの点で鉄砲より優れたところがある。まず、生産コストが安い、矢の再利用が可能である、装填に時間のかかる鉄砲の穴埋めとしての遠射兵器としての価値がある等いろいろあるがその中でも一番大きな利点は弓矢が曲射兵器、つまり上を越せば楯や塀越しに敵陣に射ち込むことが可能なのである。

鉄砲伝来後の戦国時代の合戦は最初に鉄砲の撃ち合いから始まる。この時、鉄砲足軽達を敵弾から守るため前方に盾が設置されているのだが、その盾は直射兵器である鉄砲に対応するためのものであるため頭上を越えて降ってくる矢を防ぐことができないのだ。

以上の利点により弓矢は全軍における装備率は低下したが無くなることはなかったのである。大坂夏の陣での伊達政宗の軍勢は鉄砲の占める比率が高く6割以上が鉄砲だったが、弓矢も2%ほどはいたという。これは極端な例であるが、一般的な1500-2000石の武家の装備は鉄砲2:弓1:槍1と弓は鉄砲の半分の比率だったと言われている。

一方で弓矢は戦国時代の主要な合戦では脇役に甘んじたため、英雄・豪傑と共に華やかな活躍をすることはほとんどなかった。しかし他の兵器を補完する能力があったため生き残る事ができ、流鏑馬のような武芸、弓道のような武道として今でもその姿を偲ぶことができるのである。

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5 コメント

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Unknown (U-1)
2005-05-16 22:21:27
こんばんは。

弓矢は初速がおそく、飛んでくるところがある程度見えますので、弾道予測が可能だったのでしょう。

弓の英雄が出ないのは、戦いの規模が大きくなった事にも、関係していると思います。



歴史物に、数値や資料が入ると,読んでいて信頼感を感じます。



また、竹槍や弓矢で戦いの演習をせずにすむように祈りましょう。
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数値による表現 (o_sole_mio)
2005-05-16 23:45:09
U-1さん、どうもです。



今回は結構数値で表現されていますね。引用した「謎解き日本合戦史」が数値で示してことが多いからですが、この数値は著者の鈴木眞哉さんの調査した範囲だと思いますので100%真実ではないとは思います。



こういった解析の入った記事につきましては出来る限り(文献探し等苦痛にならない範囲で)具体的な数値と根拠となるような資料を示して行きたいと思います。
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はじめまして (吉野健志)
2005-07-18 22:28:27
はじめまして、広島の吉野と申します。

戦国時代の弓矢ということですが、やはり、おっしゃるとおり鉄砲に押されてくると思います。ただ、名手となると結構います。軍記物などを読むとかなりの数出てきます。戦国時代には個々の武将よりも戦国大名が主役になりますから、英雄・豪傑というかたちで武将が表れにくいのも原因ではないでしょうか。歴史に詳しい人でも信長の部将といえば有名どころが何人か挙がるでしょうが、毛利氏の部将で何人の名前が言えるでしょうか。

そうそう、鉄砲といえば雑兵というイメージがありますが、毛利氏では永禄年間くらいまで鉄砲放しの侍がいて、合戦で遊撃手のような活躍をしていました。ただ、鉄砲はやはり集団戦のほうが効果がありますから、中間衆による鉄砲隊に収斂されていったようですが。。
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コメントありがとうございます (o_sole_mio)
2005-07-18 23:23:16
吉野さん、コメントありがとうございました。



戦国時代の合戦は兵器の近代化や戦法の組織化などによって、総大将や軍師の采配によりスポットが当たっただけで、軍記を丁寧に読み進んでいくと個々の合戦では弓矢の名手の名前が挙がるということですね。



ただ、前田慶次郎など槍の名手については何人かはたやすく上げることができるのですが、弓矢だとそうはいかないのが不思議に思っていた次第です。



鉄砲といえば、戦場での働きとは異なりますが、備中では遠藤兄弟が三村家親を鉄砲で狙撃し暗殺し、その功績によって遠藤兄弟は備前の宇喜多に召抱えられてます。



今後ともよろしくお願い致します。
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戦闘法の変化も関係すると思います (吉野健志)
2005-07-19 01:14:43
弓の名手も毛利家中だけで3人くらいは思い浮かぶのですが、そうですね、やはり槍のほうが武士を象徴するものになっていきますよね。



近藤好和さんの研究によれば、中世後期になると中世前期に主流だった弓射騎兵が姿を消して打物騎兵が主流になるとされます。

弓射騎兵も馬を下りて弓を射る下馬射になりますから、自然と武将の持ち物の主流は槍などの打物になるんでしょうね。
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