堀井憲一郎氏の新著です。
感想をブログに書こうか少し迷いましたが、正直な感想を。
私にとっては読まなくていい本でした。
でも、それは読んだからわかったことで、堀井氏ファンの私は読まないわけにはいかないのですが。
3部からなり、
「第1部 本質論」は落語の本質について語られており、
私が思っていること、感じていることと重なる部分は嬉しくもありましたが、
新たなる発見は大いに納得できるものの、
知らなくてよかったと感じることや知らない方がよかったと感じられることでした。
(あくまでも私にとっては。)
私は落語の本質はどうでもいいということがわかりました。
「第2部 技術論」は、
堀井氏自身が途中で
「若い噺家に向かって語っている」ため、「一般読者に聞いてもらっても、あまりしかたがない。」「第3部に飛んでいただいてもかまわない。」
と書いているように、
落語をただ聴く人にとって有益な情報はありませんでした。
ただ、下手ば落語の例として、「幼稚園の先生による楽しい紙芝居」という言葉があり、
保育士をしているもので、今日職場で絵本を読みきかせる時、つい、堀井氏のアドバイスに従って、登場人物を声で演じ分けないで読んでみました。
「幼稚園の先生による楽しい紙芝居」調の方が園児にはわかりやすいのかもと思ったのですが、全く問題なかったです。
「第3部 観客論」も、
私が思っていること、感じていることと重なる部分が多く、嬉しくもありましたが、
第2部が落語をする者(しようとする者)への語りだとしたら、
第3部は落語を評論する者(しようとする者)への語りのように感じました。
こんなブログを日々綴りながら、
私は「落語を評論しない」ことを強く心に刻んでいます。
落語初心者である私には評論する力がないということもありますが、
落語を評論することに興味を持つと
落語を聴く楽しみが損なわれるような気がするからです。
これからも、
ただ落語を聴く人、
という姿勢で綴っていきたいと思います。
私が堀井氏の文章を好きなのは、
楽しいくだらなさに満ちていて、どうでもいいことのようで実は知りたいことを伝えてくれるからのような気がします。
この本は、楽しいくだらなさが無くて、どうでもいい知りたくないことを伝えてくれました。
それでも、今週も週刊文春を買います。
感想をブログに書こうか少し迷いましたが、正直な感想を。
私にとっては読まなくていい本でした。
でも、それは読んだからわかったことで、堀井氏ファンの私は読まないわけにはいかないのですが。
3部からなり、
「第1部 本質論」は落語の本質について語られており、
私が思っていること、感じていることと重なる部分は嬉しくもありましたが、
新たなる発見は大いに納得できるものの、
知らなくてよかったと感じることや知らない方がよかったと感じられることでした。
(あくまでも私にとっては。)
私は落語の本質はどうでもいいということがわかりました。
「第2部 技術論」は、
堀井氏自身が途中で
「若い噺家に向かって語っている」ため、「一般読者に聞いてもらっても、あまりしかたがない。」「第3部に飛んでいただいてもかまわない。」
と書いているように、
落語をただ聴く人にとって有益な情報はありませんでした。
ただ、下手ば落語の例として、「幼稚園の先生による楽しい紙芝居」という言葉があり、
保育士をしているもので、今日職場で絵本を読みきかせる時、つい、堀井氏のアドバイスに従って、登場人物を声で演じ分けないで読んでみました。
「幼稚園の先生による楽しい紙芝居」調の方が園児にはわかりやすいのかもと思ったのですが、全く問題なかったです。
「第3部 観客論」も、
私が思っていること、感じていることと重なる部分が多く、嬉しくもありましたが、
第2部が落語をする者(しようとする者)への語りだとしたら、
第3部は落語を評論する者(しようとする者)への語りのように感じました。
こんなブログを日々綴りながら、
私は「落語を評論しない」ことを強く心に刻んでいます。
落語初心者である私には評論する力がないということもありますが、
落語を評論することに興味を持つと
落語を聴く楽しみが損なわれるような気がするからです。
これからも、
ただ落語を聴く人、
という姿勢で綴っていきたいと思います。
私が堀井氏の文章を好きなのは、
楽しいくだらなさに満ちていて、どうでもいいことのようで実は知りたいことを伝えてくれるからのような気がします。
この本は、楽しいくだらなさが無くて、どうでもいい知りたくないことを伝えてくれました。
それでも、今週も週刊文春を買います。