ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

タスマニア行:ジャム王の盛衰

2024年09月10日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア3日目


一時はヘンリー・ジョーンズ
帝国と言われるほど隆盛を誇
ったジャム工場の誕生までに
は幾度か変遷がありました。



今も残るハンター通りを代表
するこの建物は、1820年代に
ウィリアム・バンスターが31
番地と33番地に倉庫兼住宅を
建てたことに始まりました。

(※イギリス式は道の両側で奇
数と偶数の住所が分かれるの
で、31と33番地は連番です)


バンスターはアザラシの皮や
塩の仲買人で、シドニーとの
国内交易で財を成し、後に通
りの35番地も購入しました。


31番地は長らくパブとして利
用され、1827年には宿泊施設
にもなり、最初のホバート商
工会議所が入居。1階はマー
チャント(商人)たちの会議に
使われ、地下では船員や港湾
労働者があり金をはたくまで
飲んだくれていたそうです。


バンスター自身は野心家では
なかったらしく「平凡な男」
と自称し、アザラシ漁の衰退
とともに一線を退いたのか


次に登場したのが、ジャム製
造を手掛けるジョージ・ピー
コックでした。彼は1869~
82年にかけ荒廃していた27~
33番地を辛抱強く買い上げて
いきました。その間13年間


ピーコックはイギリス本国で
ビジネスを学び、ホバートで
はジャム王と称されました。
1882年ハンター通り工場始動

(※写真は1885年頃)


また敬虔なクリスチャンで、
会社経営でも宗教を重んじ、
祈祷や説教を行って、従業員
に厳格な禁酒を命じました。


慎重な経営にもかかわらず、
会社は1892年に経営破たん
開業からわずか10年でした。


その救済に乗り出したのが、
ピーコックの息子と2人の従
業員でした。従業員のうちの
1人こそが若き日のヘンリー
・ジョーンズだったのです




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