若生のり子=誰でもポエットでアーティスト

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感覚次第で、何でもアート
日日を豊かに遊び心

小沢昭一と門付芸人を迎えて

2009-03-04 | Weblog
わたくしの関係している現代史研究会の公演があります。
ぜひご参加ください。詳細は以下の通りです。
受付にいます。良かったらお声を掛けてください。

の文化・伝統芸能の夕べ
   門付芸、舞の宇宙―祝福と予祝

~小沢昭一と門付芸人を迎えて~ <コーディネーター川元祥一>

阿波木偶「箱廻し」 吉野川の上流を毎年門付けする若き女性現役

(NHK・新聞などが何回も取り上げている芸)

小沢昭一(俳優)と川元祥一(作家)が語る門付芸・祝福芸の今と問題、そして再生

一部 阿波徳島から「箱廻し」がやってくる

「えべっさん」「大黒さん」「三番叟まわし」など 

二部  小沢昭一的世界とわたしたちの課題

   生活の場の息吹、文化・芸能を考える思考像
日時 三月六日(金) 午後四時半(開場)一部~(休憩)二部~八時半終

場所 明治大学駿河台・リバテータワー/一階・リバティホール(定員500人)

参加費 千円

主催 アソシエ21 <日本社会文化研究会>

現代史研究会、ちきゅう座

*当日の入場予約はいたしておりません。

先着順で、満員になり次第、入場を打ち切らせていただきます。

連絡先:アソシエ21 03-5282-2221 ちきゅう座 03-3814-3861
     御茶の水書房 03-5684-0751


「アソシエ21ニューズレター」09/2月号 原稿

文化の直耕、その思考像

  ―小沢昭一的世界と私の課題

                   川元祥一

「直耕」は安藤昌益の概念だ。そこには小宇宙があって現代は多少修正して先を見たいと思うが、その中で大地や田・海・山を対象に働き耕す「直耕」「直耕者」が第一義とし、文字だけの世界で「不耕貪食」なのを二義とする発想が非常に大切と思っている。
 少ない紙数でこのように言うと物質優先のイメージがあって抽象概念、文化を軽視する印象があるかも知れない。そこで一言付け足すと、それらは原初的に直耕・直耕者から始まった。そのように言ってよいだろう。
 ここでいう直耕者の概念・文化を仮に大衆文化と呼んでおく。大衆文化でない文化があるかどうか論じなくてはならないが、それは別の機会とし、小沢が昭一が見つめる「小沢昭一的世界」が度々大衆文化と言われること、直耕から生まれた文化もまた、この国の現実ではそうした範疇に置かれる傾向が強いからだ。
大江健三郎が指摘する精神の二極分解が典型だ。あるいは国を背景にした「支配的文化」「権威的文化」と大衆文化が乖離している現象も度々だ。私はこの乖離をボトムアップすべきと考える。具体的例として挙げると、和人社会で最も底辺に置かれていたといえる「文化」から全体を見直すべきと考える(「文化」は拙書『和人文化論』参照)。
 小沢昭一的世界は実に幅広い。文化人類学からストリップ、祝福芸・門付芸から大道芸、寄席の世界、バナナの叩売りなどなど。これらすべてが安藤昌益の直耕に繋がると言いたいのではない。しかしそこに、田や海の生命力と、そこから食糧を生産する作業を<神>とする「田遊」「春田打」「エビス」などの儀礼を入れると、かなりの部分関連が生まれる。これらは祝福芸、門付芸にも繋がる。こうした関連があるし、それらを抽象化し原型を残しながらアレンジする試みが先の乖離をボトムアップすると確信する。
ただ、本稿で「文化の直耕」という言葉を使ったのは、昌益が言う直耕の基盤、大地・田・海・山になぞらえて、現代の私たちの社会や生活にある大衆文化を文化の基盤とし、そこから何かを創造・生産する作業を仮定している。小沢昭一的世界はそうした仮定にふさわしい。

☆歌を忘れたカナリア
沖縄出身の友人は機会があるとすぐ踊った。三線も弾いた。芸達者と私たちは言った。が、いま考えるとそれが普通の沖縄人だ。芸達者と言って笑っていた私たちは何もしなかった。その後何度も類似の経験をし、話も聞いた。自分がだんだんおかしな人間に思えた。やがてそれが和人のいやらしい性癖なのに気づいた。
親しい大学教員が国際的会議に出席した。夜のレセプションで他の国の教員は自分の国の歌や踊を演じ人を楽しませた。日本の教員は皆ニヤニヤしていた。歌の一つくらいと思うが、歌えるものがない。本紙の読者も少なからず経験があるのではなかろうか。pcウエブでは「歌を忘れたカナリア」という動揺について「自分の居場所を見つけることができれば再び美しい声で歌い出す」とする。ここでいう自分の居場所は、物理的場でなく文化的差異なのは言わずもがな…。
日本人、いや和人はなぜこんな人間になってしまったのだろうか。江戸時代は結構踊り歌った。小沢昭一的世界にある文化はほとんど江戸時代からだ。「ええじゃないか」が典型だ。近代になってそれらが無くなった。そこに危機感をもって小沢昭一が取材した。
明治時代に多くの祝福芸、門付芸が禁止された。反面、神道を歌うことで許可された。「ええじゃないか」など大衆が気軽に踊った手踊、また多くの「田遊」も禁止された。横浜の田遊は「外国人にみっともない」という理由だ(『鶴見の田祭』)。博多ドンタクは本来「松囃」だった。オランダ語のドンタク(祭日)と改名しヨーロッパ風にすることで再興した。各地のドンタクも同じだ。 
こうした近代史で私たちは歌と踊を忘れたのではないか。欧米模倣の中で、大衆文化を低く見る傾向がうまれたのではないか。

☆思考像の基盤
敗戦三日目(一九四五・八・十八)内務省から全国の警察署にRAA設立の打電があった。頼まれもしないのに政府が作った進駐軍慰安所だ。『神奈川県警史』が結構詳しい。この本を頼りにその慰安所の女性が、横浜開港期(一八五八)にハリスが上陸兵のために要請し幕府が作った港崎遊郭(開港慰安所)で働いた女性(全てがそうだった)と、その後の遊郭の変遷・人脈が、RAA慰安婦に関連する部分があのをの聞き取りを含めて書いたことがある(『開港慰安婦と被差別』)。
同時に、東京でRAA慰安所がどうだっか調べたが、史料が見つからない。当時東京で行政側の担当(渉外部長)だったのが磯村英一なのを知って彼の『戦後五十年の秘話』を読んだ。彼は「同和対策特別措置法」制定(一九六九)以後同和対策の政府側代表だった。書には米軍のスポーツを含めた「リクエーションセンター」と書いている。慰安所を匂わせているが、横浜との落差があって何かが隠されていると思った。
その実態が小沢昭一の『色の道商売往来』でわかってくる。RAA設立メンバーの一人、当時から社交界で働く人物との対話だ。吉原の貸し座敷組合、遊郭の代表など二十一人が警視庁に呼ばれて要請され、大森や向島・三鷹などの建物を強制接収して設立した。
ここに磯村が書かなかった実態がある。歴史家は裏付け史料を求めるだろうし、そうした分野があってよいと思うが、ここには生きた人間の動きがある。歴史も文化も哲学・思想なども、こうした動きを基盤に発進、前進すると考える。

☆問題と小沢昭一的世界
問題になるとこうした基盤が見分けにくく、困難にもぶつかる。小沢昭一的世界でここに繋がるのは放浪芸として取材した門付芸・祝福芸だ。新年に民家の門口に立って万歳や大黒舞などを演じる。<神観念>があってご祝儀がでた。江戸時代は主にキヨメ役(・身分)が家業とした。(三河万歳は農民)。私はこれを「の伝統芸能」と呼んでいる。
小沢さんは各地の門付芸を取材しながらそこが被差別なのをだいたい聞知っていたと思う。彼はそれを小沢昭一的世界とし、芸として並列的に見た。だが門付の現場で芸を見るのは大変だったようだ。当時わずかに残っていた門付芸であるが一九六〇年代から急速に消えた。そのうえ門付芸人は差別された経験があって芸を隠す傾向がある。『日本の放浪芸』にはそうした現実が反映している。
このような現実はの伝統芸能が一般的に一段と低く見られたり、排除された歴史をも物語っている。本来の意味の芸としてではなく「零落した芸」とか、物を貰うために何かをやる「乞食」「ホイト」と見られた。能を大成して世阿弥親子ですら当時の貴族から「乞食」と呼ばれた。近代になってもその傾向は辞典など多くの場面で残った。(被差別)の中でも当事者が門付芸を「物貰い」と思っている場合がある。だから人に見せないし語らない。
私はのルポをしながらそんな場面に何度も出あった。一方、門付芸は農村などの集落や歌舞伎、能、日本舞踊に多く残っている。しかもその<神観念>は田遊やエビスなど農・山・漁村などの儀礼と同じだ。芸もそこから始まったものが多い。そうしたことから、門付芸を一般的伝統芸能の一環としない限り、その全体像や体系が認識できないし、民衆の生活、昌益が第一義とした直耕の世界から生まれたのを認識できないと思い、門付芸を研究する「伝統芸能研究・千町の会」を結成(一九九五)。小沢さんに相談役になっていただいた。その後各地のに寄って門付芸の意義を話した。佐渡、新潟、徳島、群馬、広島などで再興の動きが盛んだ。
新潟県村上ので江戸時代初期から伝わる大黒舞を取材したのは二十年前。八年前久しぶりに寄ると、踊れる人が減ったと言う。踊れる一人、八十三才になる高橋ユキさんに会い人権集会で演じてもらうのを約束した。ところがその前日になって「踊れない」と言う。「どうして?」と尋ねると「それを踊ったら村に置かないって言われた」と言う。言った人に会いたいが、彼女が窮地に陥ってもいけない。「それならオレがやる」と思わず言った。勿論その日は出来ないが、それから練習をした。四年後新発田市の人権集会で踊ってみた。人に見せられるものではない。が、それがきっかけで村に「越後大黒舞保存会」が出来た。門付芸の見直しも始まった。このようにして被害者意識を克服し、芸能的個性を発揮しながら小沢昭一的世界に立つ事ができたと思う。
次に、これら大衆文化を基盤にして何を考え、何を生産・創造していくか。これが課題だ。直耕を含め、そして異文化交流を含め、ここを外して基盤になるものはないと思う。支配的・権威的文化を克服し、民衆の生活を基盤にした文化の基軸・思考像、いわば「自分の居場所」を発見するのもここからと確信する。

http://members3.jcom.home.ne.jp/kawamoto-y/ より

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