上の写真ですが、さて何のことか分かります^か^
台所の洗い場の一風景なのですが、昨日のことです。
話しは飛んで、ドライアイス。
冷凍食品を買ったら、袋に入れてくれますね。あれ、持ち帰ったらみなさんどうしてます?
私はどうしても、そのまま捨てるのがもったいなくて、つい遊んでしまいます。
と言ってもやるのはいつも、水の中に入れて、煙を発生させて . . . 本文を読む
ナウイズム2人展オープンまで、もあと2週間あまりとなりました。今回は、気軽に買っていただけるよう、小品(名刺~はがき大の)作品を制作中です。
間﨑氏とのナウイズム競演、そろそろ具体的な形が見えてきました。
ところで、
とてもうれしいお便りをいただきました。「東西美術史」に関する記事の件です。
& . . . 本文を読む
(ナウイズムの瞑想 五次元)
中村二柄「東西美術史」から、それを自分の心の問題に引き受けて考えると、思考と感性の統合ということに行き当たる。
そう前回書きました。
それに対するコメントもいただきましたので、この思考と感性の統合という考え方について私なりの考えを書いてみたいと思います。
ところで、感性とはなんでしょうか。
私はこう考えます。
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2017年4月15日の虹
二柄論をやっとの思いで書きあげて、ふと窓を見ると、外はいつの間にか春雨。
気分転換にベランダに出てびっくりしました。目の前に見事な虹がかかっているではありませんか。
ものごとはつい自分の都合の良いように解釈しがちですが、私としては、論理的にようやく東西の統合に折り合いをつけたその刹那の出来事ですので、それはまさに架け橋のように見えました。
よく見ると二重橋。
二 . . . 本文を読む
森田子龍 「道」
制約や拘束のない自由はない。それを避け、そこから逃げ出すのではなく、その矛盾対立の中で苦しみぬく。その極限において内からはじけ、底が抜けて、内と外とを分けていた枠組みが抜け落ちる。内もなく外もなく、内外一つになる(森田)
中村二柄監修「現代の書芸術ー墨象の世界」より
私の絵は、墨象とは対称的な作風を持つ。いわゆる西洋絵画に端を発しています。
森田子龍と同じタイトル「 . . . 本文を読む
「東西美術史」では、東洋絵画と西洋絵画の決定的な違いがその主体にあるといいます。
東洋の、無としての主体に対して、西洋の主体は自我を越えない。
そしてその違いは、画風の上に端的に現れてくるわけですね。
無を主体とする東洋の水墨画では、描かないで描く(余白)の絵画がありますが、
長谷川等伯 松林図屏風
西洋では、自我が1か . . . 本文を読む
修羅場(2017年1月27日)の記事に書いた作品です
この時私は制作の半ばで、作品の構想が完全に崩れ去り、心が闇の中に投げ込まれたような経験をしました。感性が計画した目標を、その感性が自己否定したのです。どこに行ったらいいのか分からない闇の中の混乱でした。その時私の感性はNO!を叫び続ける、まさに修羅場だったのです。
「根源現成と五次元」
この . . . 本文を読む
これは2000年、二柄先生に紹介していただいた、京都のギャラリーでの個展のDMですが、そこに賛辞を寄せていただいたものです。
もちろん、根源現成とまではいきませんが、その方向に向かっていることを認めていただいた内容で喜んだことを覚えています。
ところが今、先生の「東西美術史」を読みながら、私にはその溝を越えられないのではないかという疑問が沸き起こってきたので . . . 本文を読む
本日(4月11日AM5:30頃)煙の団子出現
皆様、覚えておられるでしょうか。先月30日付けの記事です。
煙突の煙の不思議を描いたこれ ↓
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何気なく見ている煙突の煙 (2017年3月30日木曜)
散歩道に見 . . . 本文を読む
のしてんてん 心の風景 2016年
この絵は東洋的と言えるのだろうか?あるいは西洋的なのだろうか?
西洋と東洋の絵画の違いは、絵を描く者(主体)の精神的基盤にある。
前者は自我の枠の中で絵を描くのに対して、後者は 自我を越えて宇宙と一体になった無自我が主体となって創作する。
これが前回までの話しでした。
今回は、二柄先生を、東洋絵画をして . . . 本文を読む