のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (10)

2017-04-18 | 展覧会

(ナウイズムの瞑想 五次元)

 

中村二柄「東西美術史」から、それを自分の心の問題に引き受けて考えると、思考と感性の統合ということに行き当たる。

そう前回書きました。

 

それに対するコメントもいただきましたので、この思考と感性の統合という考え方について私なりの考えを書いてみたいと思います。

 

ところで、感性とはなんでしょうか。

私はこう考えます。

上の五次元の図で、スケールの軸に沿って連なる世界は、今この瞬間に同時に存在している極大から極小の世界です。

同時に存在しているというのは、たとえば右手と左手のように、この身体の一部として存在して今、せっせとキーボードをたたいています。全体の中の一部分だというとこです。

つまり、このスケールの軸は、全体であり、今この瞬間の私は、その全体の一部だと理解できるわけですね。

 

そうすると、この全体が、宇宙空間の中で生きていることになります。

 

もう一度いいますが、この極小の世界から極大に向かう物資の連鎖は、

一つのいきものなのですね。

感性とは、この一つのいきものの全体から生まれているものなのです。

 

そして思考は、

上の図の中央にヒトの場所がありますが分かりますか。

このヒトのスケールから横に時間軸が伸びて、ヒトの時間が生まれ、そのスケールに構築された頭脳が働いて思考が生まれていると考えられるわけですね。

 

つまり思考は、全体の中の一部に流れる時間に左右されているのです。

そして感性は、全体から生まれるものであり、当然いのちの声と言っていいものですね。

 

そう考えますと、

感性が苦しむことは無いのです。

苦悩はどんなものであれ、頭脳がかかわっていると私は思うのです。

 

感性は、生きることを考えている。

正しい命の方向を美しいと感じ、おのれのいる場所と理解している。

 

だから苦悩が生まれたら、感性に聴けばいいのです。

それが瞑想という一つの形だと思うのです。

 

瞑想して全体に入っていけば、おのずと、苦悩している思考の姿が見えてきます。

思考のどこが行き詰って苦悩を生みだしているのかが見えてくる。

 

それが感性と思考の、正しい統合として表れる。

つまり、思考が正しく生まれるように、感性の声をきくと言えばいいでしょうか。

 

常に全体を意識する。

それはスケール軸を瞑想してつかめます。

 

苦悩が生まれたら、瞑想して感性の声をきく

するとつまずいている思考の姿が見えてくる。

つまずいた思考から、感性が喜ぶ思考を見出したら、それは愛だというのも、

あながち間違いではないと思います。

そんなイメージを持てば、

思考と感性の統合ということが理解しやすいかもしれません。

 

ナウイズムというのは、

この全体を意識し、そこから自分を考えるということでもあるのです。

 

 

 

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
雑談に来ました (むっちゃん)
2017-04-18 10:07:46
どーも、マスター。
雑談に来ました☺。

感性は全体、いのちの声、であるのですね。
修行が足りませんね、混同してしまいますね。

しっかし、思うんですけど。
私、なんで死にたくないのでしょうか?

いやまあ、死にたい死にたいと思い詰めてるよりよっぽど良いような気はしますし、それ故困ることも特にないですが。

我ながら不思議だなぁ、と。
ぐじゅぐじゅ悩むのには人後におちないヘンな自信、ありますケド、『死にたい』系の悩み、持った経験はほとんど無いですね。
生きていたいから私は悩む。ぐるぐる🌀と(笑)。

考えようによったらとっても健全、感性の化身、だったりして。わはは(^o^)。
返信する
わはは(^o^) (のしてんてん)
2017-04-19 09:20:31
いう言葉ないよむっちゃん。

感性の化身
お見事です。


返信する
わはは! 2 (むっちゃん)
2017-04-19 11:01:55
どーも、マスター。
感性の化身・むっちゃんであります(爆笑)。
ホントに感性の化身だったら、ぐじゅぐじゅ悩まねーっちゅうの(笑)。

しかし、改めて思いましてねえ。
フツー、こういう鬱陶しい人間は、『死にたい』と思い詰めるのがパターン?でしょうに、ナンデ私はチガウのでしょうか?と。
『死にたい』と本気で思ったら、私は多分、即、死ぬでしょう。
悩む暇すらなく。
あー、だから『死にたい』と思い詰めないのか。
今生きてるってことは、『死にたい』と本気で思わなかったってコトでしょうし。

生きてるうちに解決出来ない悩みは、死んだって解決出来ない、と、子供の頃からバクゼンと思っていましたね〰そう言えば。
理屈っぽいガキだぜ。

それこそ前世で、悩んだ果てに自殺を図って後悔した……とか?

不謹慎でしょうかねえ、こんなこと考えるの。
前世が有るとか無いとか以前に。
でも……この健全さ?は何なんだ、と、改めて思っちゃいましたので。
感性の化身、とでも思わにゃ己れの自明過ぎる『生きたい』パワーが理解できーん、なんてね🎵
返信する
なんというか (のしてんてん)
2017-04-20 13:52:06
(フツー、こういう鬱陶しい人間は、『死にたい』と思い詰めるのがパターン)???

どうして一般的にそう言えるのか、私には分かりませんね。

ホントかどうか、再考してみてください。きっとどこかで飛躍があるように思うのですが、如何でしょう。

そもそも
万人が、感性の化身なんですから。
返信する
わはは 3 (むっちゃん)
2017-04-20 14:59:35
すみません、論理の飛躍もそうですけど、やっぱり不謹慎ですよね➰。

最近はともかく、若い頃はそっち系の悩みの相談を受けると、複数『死にたい』という感じになり……(深刻な人はひとりふたりながら)なんで皆さん、死にたくなるのか、死にたくならない私がどっかおかしいのか、と(笑)。

多分……言葉に対する思い入れ、みたいなのがチガウのでしょうね。

私は『死にたい』と言う場合、文字通り『死にたい』んですが、大抵は死にたいくらい『辛い』ということが言いたい、と。
いやまあ、一般的に言うな、ですが。
私の周りにいた人は、どうやらそのようです。

その辺の認識の差で、ダンナとケンカになってモヤモヤしたことも(笑)。
彼は言葉に対する思い入れが浅い、と言いますか、すぐに『一生のお願い』とか『これで死んでもエエ』みたいなこと口走りますけど、そんな風に言ったこと、ソッコー忘れます、実にナチュラルに悪気なく(爆笑)。

私は軽々しく『一生のお願い』とか『これで死んでもエエ』とか、まず言いません。だから、そこまで言うなら……と、真剣にホンキに受け取りました、今まで。

ホンキにする方が馬鹿なんでしょうが、言ってる瞬間は、彼はホンキです。
浮気とか、そういう深刻な話じゃあナイですから、まあ罪もないんですけどネー😅
ホンキに取って何度も忘れられ、彼の誠意をうっすらながら疑いたくなりましたっけ?
怒ってもしょうがないか、と思うようになりましたけど。

気持ちは言葉で表現するしかないのに、言葉は上滑りしていく。

時々むなしくなって……自分のやってる『表現媒体』そのものがむなしくなる。

私の春の疲れの、一原因……のようです。

だけど死にたくはないですね。わはは❗
返信する
言葉 (のしてんてん)
2017-04-21 20:50:36
言葉と本気は隔たっていて自然ですよね。

言葉と本気が重なっている人は逆に怖い。

車のハンドルなんかでも、わざと遊びをつくっていて、安全に運転できるようにしていると聞きますが、

要は遊びが必要なんです。

上滑りしている部分を遊ぶのが文学者の本分だと私などは思いますが、どんなものなのでしょうね。

死にたいと発せられた言葉に重きをおいても大して面白い文学は生まれませんが、それを発した心を合理的に推し量ると、物語はそこから無限に広がる気がします^ね^。

基本、人はみな自分と同じという思想が必要なんだと思いますよ。
返信する
すみません、浮上してきました (むっちゃん)
2017-04-21 21:39:54
色々鬱陶しいコメント、失礼しました🙇

それこそハイティーンやローティーンの少女なら、『死にたい』気分だったかもしれないですね〰、笑うしかないや。わはは。

ヒトは同じだけど、違う。
どう違うのかをじーっと見つめる、見つめるのをやめないのが愛、かなぁ~、などと思い、生きてきました。

うーん、気恥ずかしい台詞ですが、言いましょう(笑)。

違いがイヤではないのです。
ただ……伝わらナイ感じは、疲れます。

気持ちに遊び…余裕がないと、表現にも余裕が無くなるのでしょうね。
作品も書けない感じ、してましてね。

余裕、遊び、気分転換。

ようやく、利いてきたのでしょうか?

色々と温かいお言葉、ありがとうございます。
返信する
ツタワラナイ (のしてんてん)
2017-04-21 23:28:43
伝わらないというのも、これが自然です。

すべて伝わったら、これも恐ろしいことになります。

人間社会は、ツタワラナイから愛があるのですね。

伝えるのではなく表現する。それが作家のすべて。伝えるのは教師に任せましょう。

表現が、思ったような効果が出なかったら、これは作家の責任です。

表現が悪いのですから、工夫するしかないのです。悩むより工夫。99の工夫がだめなら100番目の工夫を考える。

これが作家の心意気。

ブルーな四月を吹っ飛ばしましょう。
返信する

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