のしてんてんハッピーアート

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五次元という考え方について(認識論9)

2023-05-28 | 5次元宇宙に生きる(心)

腰痛のへっぴり腰で五次元龍壁画最後の一点を描き入れた 2023/5/21

(S30号×9枚×3組:全2.7m×8.1m)の内、3組目の組作品制作風景

当、連載記事の進行に合わせて

五次元龍壁画の完成を見たのは

自分だけの嬉しい記念写真です

 

ところで

前回記事に登場したTさんですが、

お名前作品公開OKという連絡をいただきましたので、

あらためて紹介させていただきます。

谷口勇さんの作品を紹介したくて、お願いしたものです。

谷口勇展(2016年の個展)

谷口さんの個展を紹介した過去記事(↑)から見ていただいたらわかるのですが、

自分=身体と空体を結びつける気の流れ

 

2016年谷口勇展より、作品3態

 

私が提案した自分を表す袋は谷口さんの絵そのものですし、

右側の人体はまさに身体と空体の融合した姿だと言えなくもないでしょう。

「私」とは身体と空体の切り離せない存在として理解できると言うこと、

そして何より、空の中に膨らんだ一つの袋のように閉じた空間を持っているのが「私」です。

閉じた空間とは、他人と交わらない個性を持っていて、孤独の根源でもあります。それゆえに苦しむことにもなるのです。

しかし救いは、閉じた空間は不完全で、風船の口のように外の空間に向かって開いているということの発見です。

外に向かって開いている口に向かって、作品を描き続けることが作家のプライドでもあるのです。

私の身体と空体のイメージ図は谷口さんの作品からというのがよくわかると思います。

五次元(新たな認識能力について)

第九章 模索する五次元認識の世界

 

(認識主体)

認識主体とは、自分のことである。

自分とは何かと、深い追及をするまでもない、理屈抜きに感じ、納得できる存在。

それが自分である。

「私」というとき感じる自分の領域

言葉にすると難しい言い回しになるのだが、

この私こそが認識主体なのである。

この当たり前のことをわざわ理屈をつけて言いまわすのは、

当たり前と思っていた自分が、

実はそうではないと知ったからなのである。

当たり前の自分を包み込んでいる空があるのは自明のことだが、その空こそが新たに注目すべき自分だという気づきがあって

それを表現するために、認識主体という言葉は役に立つのだ。

すなわち自分という認識主体は

身体から空体に移動することが出来るのである。

つまり

身体を認識主体にして世界を見る方法と、空体を認識主体として自分を思い描く二つの見方があるということなのである。

もちろんこの概念は新しいゆえに、どう付き合っていけばいいのか前例を見ることが出来ない。

それを習得するためには、己を見て自分の体験を積み上げていくしかないのである。

 

空体に入る。つまり認識主体を空体に移す入り口は呼吸にあるということはすでに前回記事で触れた。

私達は、呼吸の意味を逆転させて自分を意識するだけで空体を体感することが出来たのである。

 

(苦は避けることが出来るが、痛みは避けられない)

しかし今回、私はもう一つ別のアプローチを体験したのである。

それは痛みなのだ。

何故タイミングよくこういうことが起こるのか不思議なのだが、

五月に入る直前だった。重いものを持ち上げて棚に乗せようとした瞬間、

私の胴から腰回りの筋肉が音を立てて破断した。

ふくらはぎの破断を経験しているので、瞬間、それが胴体で起こったと分かった。

この発端から五月一杯、私は痛みのために自分の身を斜に支えられない生活を余儀なくされた。

まず芋虫のように身をよじり、這いずり回って痛みのない部分を探り当て、ようやく立ち上がる。

やがて痛みのない部分が探せなくなり、立ち上がるためには、どうしても痛みを潜り抜けなければならなくなった。

さらに痛みが終日体を支配するようになった時

私は空体どころではなかった。

どんなに空体を主体にして考えようとも、意思に関係なく痛みと共に意識は身体に引き戻されるのである。

 

痛みとは身体の危険信号であるから、それは当然のことなのだが、

痛みの前では空体は何の役にも立たないのかと、自棄的に考えてしまうこともあった。

空体が救いとなるのは苦悩だけであって、空体が痛みを消すことはないのである。

これは真実であると認めざるを得ないのだと思ったのだ。

 

(痛みを受け入れる)

痛みをなくすることはできないと観念したとき

ふと見えてきたものがあった。

それは痛みに附随している思いに気付いたのである。

実はそれまで痛みのことを、

私を暗い気持ちにさせ、先行きを不安にさせ、自由に動けないでいる根源こそ、この痛みだと思いこんでいたのだ。

しかし痛みは避けられない

ならば、その避けられない痛みを受け入れたらどうだろう。

そう、痛みを受け入れたら!

暗い気持ちとか先々の不安や、自由に動けないという思いは、実は苦痛ではなく苦悩に過ぎないのである。

 

そう気付いたとき、

空体が再び私の主体に帰ってきたのである。

空体に身を置くと、純粋な痛みだけが存在していた。

それで暗くなることも、出来ないことを嘆くこともない

出来ないことはできない。それは自然で苦になることもない

否、出来ないことなどないのである。屁理屈と言われるかも

しれないが、「出来ないこと」が出来ているのである

今あること、それが空体のすべてであって

それこそが喜びなのである

 

そう思うと、

皿洗いしかできない自分を嘆いていたのが

皿洗いが俄然楽しく充実感で満たされることに気付いた。

そう思いいたると、なんということはない

すべての一秒一秒が、差別なく貴重で充実感を得る可能性がそこにあるのである。

 

すると痛みが急に客観的に眺められるようになったのである。

大げさに言えば、これで死ぬならそれもいいだろうという思いで、

死んだとて私はただ空体に留まるだろうという安心感が

空体から発せられるのである。

 

(身体と空体は一つの命)

私のこの体験は怪我の功名だった。

身体と空体は一つの命であり、裏表というより、互いに生かしあう存在であって

切り離すことのできない大きな命なのだ。

痛みがそれを教えてくれたのである。

 

死というイメージは

ただ小さな身体の上に起こる見た目であって

素粒子の組み合わせが変わるだけのことなのである。

無老死亦無老死尽

(老い死ぬことはなく亦、老い死ぬことが無いということが尽きることもない)

般若心経の一節である。

 

身体と空体が一つの命なら、

今ある私の身体の組み合わせが変わっても

スケールの世界では決して身体はなくならないのである。

素粒子の作る身体から解放された空間は、地球を包む空間に帰り

その空間に浮かんでいる太陽系や銀河が作る巨大な身体を動かす空となる。

この壮大なイメージが五次元、スケールの概念による宇宙観であり自我像なのである。

どんな小さなスケールでも、どんなに大きなスケールでも、その中にある人は、それが自分の大きさと認識する

何ら変わらない日常がそのスケールの中で永遠に進行していくのである。認識論ゆえの世界観と言えるかもしれないだろう。

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次回予告

(最終章 認識論の意味)

認識論というと、非日常的なことを考える、役に立ちそうもない遊びのようなものと受け止める人もいるかもしれません。

別に知らなくてもどうってことない問題で、

実際自分の考えることを根掘り葉掘り考えること自体不健全ではないのかと考える人は

決して少なくはないと思います。

 

私自身、その思いに対して反意をもっているわけでもありません。

それは正当で健全な思考だと思うのです。

 

しかしそれでも私達の認識は

考えてみる価値があるのです。

その根拠を次回に見ていきますが

最も大きな理由がこれです。

 

つまり人間の認識は、生まれてこの方

不完全であり

一方的であり

部分的であり

安心のために思い込む

正解のない正解を望み続けるものだからです。

 

次回、

認識がすべてである人間を

俯瞰してみます。

 

 

 


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