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のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

神ということ1

2018-01-27 | 5次元宇宙に生きる(神)

神のすべてを見ることも語ることも出来ない

 

 

悪いことをしたら罰があたって地獄に行くよ。天国に行きたかったら、悪いことをしてはいけないよ。人が見ていなくても神様はいつも見ているからね。

 

幼少のころ大人から聞かされた神様との初めての出会いでした。

その神様は今も私の中で生きています。生きているというのはおかしいのですが、その時に与えられた神様のイメージは私の核心のところで今も揺るがないのです。

 

小学生の頃、学校の図書館で洋画の挿絵入りの聖書物語を見つけ、これが神様なのだと思いました。イエスキリストが私の神様のイメージの中に鮮烈に広がっていったのです。神様は人間の罪を背負ってその命をささげてくれる。旧約聖書の物語がまるで黄金のように輝く世界に見えたのです。

 そのうちに地域に意識が向くようになると、村祭りなどを通して、神さまは神社にいることを知りました。お願いする神様。その神さまが、集落の氏神様やつじ辻にいる地蔵様へと広がって行きました。

やがて身近に死を体験します。好きだったおばあちゃんが目を覚まさない。死というものが現実に私の前で悲しみと共に起こりました。母の号泣に恐れを抱きながら私は人の死と悲しみを刻み付けられたのです。

葬儀が終わり、仏壇に手を合わせる母を見ながら、私はなぜイエス様が来ないのか分かりませんでした。神社から神様が来ることもありませんでした。

おばあちゃんは阿弥陀様のところに逝ったのです。母の悲しみが仏様の前で癒されていくのをみて、私はいつも自分をみてくれている神様がイエス様なのか阿弥陀様なのか八百万の神々なのか分からなくなりました。

なぜと言えば、おばあちゃんの逝った阿弥陀様ですら、日が経つうちにただの仏壇となってしまったのですから。その上、好きだった叔父さんの宗旨替え騒動に、神様は混乱するばかりだったのです。

 

子供のことですので深くは考えませんでしたが、

誰が見ていなくても心の中まで見てくれている神様というイメージは、そんな混乱の中でも消えませんでした。

幸いなことに、それは、監視されているという負のイメージではなく、見守ってくれているという、母親のような温かさと父親のような神秘性を持っていて、私はよく山端の空をぼんやり眺めているような子供でした。一種のそれは憧れのようなものでした。

無意識に神様と話をすることもあったのでしょう。そんな私を見つけてはやしたてる学友と、処し方が分からず不登校に陥っていく自分の心の中に、友だちよりその憧れの方に一層強く惹かれたのかもしれません。

日暮れに屋根に上って寝転がり、夕闇がやって来る空の変化に見とれ、やがて満天の星を息をのんで眺めていました。下での私の捜索騒ぎも知らずにです。(とにかく叱られました)

 

そんな子供時代を故郷に置いて、海の見える世界に出てきた私は、世間という広さを心身両面で感じますが、同時に「宗教」という言葉を知るきっかけから、故郷の神々が宗教の枠組みの中で様々に分類されていることを知りました。

そして私を驚かせ傷つけたのは、その分類された宗教の神々が街を破壊し人を殺しているということでした。無論それを実際に見たわけではありませんが、私にやってくる知識は、信じられない宗教の争いや恐ろしい迫害のイメージを生み出したのです。海外でも日本でも、それはどこにでもあるように思えました。

黄金のように見えた聖書物語の世界は嘘だったのでしょうか。

叔父の宗旨替え騒動で対立する大人達を見て、どちらも私の好きなやさしい叔父同士が、私たちより偉いはずの神様のことで言い争うのを見て不思議でなりませんでしたが、世界にはもっと大きないさかいがあるなどと考えたこともありませんでした。

宗教の中には、自分の信じる神を受け入れない者を異教徒とみなし、まるで間か悪魔のように見下し、それゆえ破壊し人を殺しても良心の呵責を覚えるどころか、それが神に讃えられるというような歴史があります。それが今も延々と続けられているのです。そんな神が本当にいるのでしょうか。

 

悪いことをしたら罰があたって地獄に行くよ。天国に行きたかったら、悪いことをしてはいけないよ。人が見ていなくても神様はいつも見ているからね。

そんな神様を素朴に慕い敬う人々の、最も中心にいるべき宗教が悪いことをするわけがありません。

そんな私の確信は今も変わりません。

けれど、この恐ろしい現実をどう考えていいのか分からないのです。

それでもこの現実を受け入れ理解するためには、悪くないはずの宗教がどこかで間違えてすれ違っていることを証明するしかないのです。

その証明はどこにあるのか。

 

私にとって幸いしたのは、文献を読みあさる能力がないということでした。

知識欲も旺盛な時に、文献の中に知識を追い求めて行こうとする自分がありましたが、サルトルの書籍一冊も読み切れない自分に愕然としました。そんなことですから、どんな経典であれ読み切ったという記憶はありません。もしそんな能力があったら、おそらく今頃膨大な文献にうずもれていたことでしょう。

こんな私にも、人並みに失恋がやってきたのです。

すべてを失った、がらんどうの胸中に打ちのめされ、むなしい自分の心に立ち向かったとき、自分のまわりの友人や職場の人々の心のむなしさを同時に味わいました。

誰も私を見ていない。私にかまうものは一人もいないのです。親友には私の方から遠ざかる始末でした。このみじめさを見られ、慰められるのが耐えられないのでした。

 

そんな時、誰からも見られていない孤独の中でひびいてきた言葉がありました。

人が見ていなくても神様はいつも見ているからね。

この瓦礫のような心を見ていてくれる神様がいるのだろうか。その問いかけの答えはすでに幼少のころから持っていました。ようやくそのことに気付いたのです。

そうです。

この心のどこかに、私を見守ってくれている「眼」があるのです。それ なら、この心の中を探すしかないと思いました。

その「眼」に出遭う事が出来たら、それが私のやるべき証明だとはじめて理解できたのです。

その証明が出来たら、世界のどんな宗教でも真摯なものである限り、無神論者も含めて間違いなく崇高で正しいと言えるようになる。敬虔な信者の心はすべて等しく称賛される、人として最高の人生を送ることが出来るのです。

なぜならどんな人の心の中にも、どんな孤独の中にいる人の中にも、自分をみてくれている神様がいるのですから。

 

その神様は文献の中にはいない。自分のこの心の中にいるのです。

私の心の旅がそこから始まりました。

それは絵を描きはじめるのと同時だったのです。

 

人類の宝物である宗教ですが、この現実にある不幸な誤解と行き違い はどこに原因があるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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30 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-01-28 10:14:30
人は基本的には絶対に分かり合えない、という前提がなければ宗教も社会も成り立たないのではないでしょうか?
それは、のしてんてんさんが絵を描くという事即ち、芸術を可能にしている前提と全く同じ事ではないでしょうか?
人間がお互いに理解し合えないのは不幸であると嘆いたところで、それは安っぽいヒューマニズム論でしかないように思えます。
分かり合えない事が前提としてあるが故に、幸せが幸せとして感じられ、尚且つ、神さまが神さまとして望まれるのではないでしょうか?
分かり合えることを強制するものが過去に多くの不幸を招いたことはまぎれもない事実です。
返信する
私の場合は宇宙神とともに (真鹿子(まかこ))
2018-01-28 15:52:23
のしてんてん様
こんにちは!

私の場合、
この摩訶不思議奇跡宇宙は、
創造主であられる宇宙神の
宇宙神経の神の経糸で、
宇宙全体を網羅、
森羅万象万物すべての
極微な細部に至るまで網羅☆
宇宙神と宇宙万物、地球人類も、
緊密に連結連動していますが、

宇宙神は、わたしたちの知らない自分も、
わたしたちの知らない未知領域も、
熟知されておられて、
万物はすべて常に宇宙と一体であり、
宇宙の一部♪極小奇跡の一部であります。

これからも宇宙神との一体感をますます深め!
万物すべてのお役に立てますよう☆
微力ながら精進させて頂きますね。

また「地球の爆弾すべて花火となれ!」も、
決して諦めません!
さげすみの言葉、馬鹿、アホ
何と呼ばれましても
諦めません(=^ェ^=)♪
がんばりますね。

またこの度は、
目の覚めるような光体絵画を
ありがとうございます。
覚醒絵画でしょうか
覚醒波動☆放(花)っています^ね^
これからもどうぞ
よろしくお願いいたします。

感謝感激!
まかこ 拝

追伸

のしてんてんさん!
難場歩き♪
してますよ。
買い物の行き帰り
帰りは買い物をさげて、
心身ともに難場歩き
お陰様で気分爽快☆♪
これからも
難場歩きます^ね^!
返信する
Unknown (Unknown)
2018-01-28 16:07:27
Let us pause in life's pleasures
and count its many tears,
While we all sup sorrow with the poor
There's a song that will linger forever in our ears
Oh, Hard times come again no more.

Tis the song, the sigh of the weary,
Hard Times, hard times, come again no more
Many days you have lingered around my cabin
door
Oh, hard times come again no more.

While we seek mirth and beauty and music light and gay,
There are frail forms fainting at the door
Though their voices are silent,
their pleading looks will say
Oh, hard times come again no more.

Tis the song, the sigh of the weary,
Hard Times, hard times, come again no more
Many days you have lingered around my cabin
door
Oh, hard times come again no more.

There's a pale drooping maiden
who toils her life away,
With a worn heart whose better days are o'er
Though her voice would be merry,
'tis sighing all the day,
Oh, hard times come again no more.

Tis the song, the sigh of the weary,
Hard Times, hard times, come again no more
Many days you have lingered around my cabin
door
Oh, hard times come again no more.

Tis a sigh that is wafted across the troubled wave,
Tis a wail that is heard upon the shore
Tis a dirge that is murmured around the lowly
grave
Oh, hard times come again no more.

Tis the song, the sigh of the weary,
Hard Times, hard times, come again no more
Many days you have lingered around my cabin
door
Oh, hard times come again no more.
返信する
Hard Times Come Again No More (Unknown)
2018-01-28 16:19:28
真鹿子さんは宇宙神と共に歩んでいくのでしょうが、私は分かり合えない他人と一緒の方がいいです。
返信する
Unknown様 (のしてんてん)
2018-01-28 18:15:09
「人は基本的には絶対に分かり合えない、という前提がなければ宗教も社会も成り立たないのではないでしょうか?」

Unknownさんの仰る通り、私の考えもおそらく寸分たがわず同じではないかと思います。そして記事の核心をいつも喚起していただきありがとうございます。

分かり合えないからこそ芸術があり愛があるわけですが、問題なのは分かり合えないという嘆きではなく、「分かった」と思い込む心なんだと思います。

「分かった」という誤解が慢心と強制を呼び、独善がはびこる。宗教の陥るもっとも悲しい姿なのでしょうね。

不幸なのは「分かり合えない」ことではなく「分かった」と思いたい人間の欲、それ以外に私には思いつきません。

「分かり合えることを強制するものが過去に多くの不幸を招いたことはまぎれもない事実です。」
私もまさにこれが憂うべき人間の不幸だと思います。

私たち人間は例外なく個として存在し「私空間」の中から一歩も外に出ることは出来ません。誰からも理解されず、誰をも理解することが出来ない。これは宿命と言えるものでしょう。

私たちはそこからスタートするしかないのです^ね^



返信する
まかこ様 (のしてんてん)
2018-01-28 18:45:30
いつものことですが、まかこさんの宇宙への憧憬と理解しようとする道筋が私の心を喜ばせてくれます。
---------------------------
この摩訶不思議奇跡宇宙は、
創造主であられる宇宙神の
宇宙神経の神の経糸で、
宇宙全体を網羅、
森羅万象万物すべての
極微な細部に至るまで網羅☆
宇宙神と宇宙万物、地球人類も、
緊密に連結連動しています
----------------------------
これこそ私の思い描く神の姿を過不足なく想起させてくれます。
Unknownさんではありませんが、分かり合えない私たちの最善のコミュニケーションと言えるものでしょう^ね^

言葉のキャッチボールをしながら、互いに自分の心を勇気付けたり喜んだり。相手がいなければ出来ないことですものね。

「地球の爆弾すべて花火となれ!」私も、
決して諦めません!

この絵ですけど、GOOさんのこのブログ、今は使えないのですが簡単なお絵かきソフトがついていまして、毎回記事ごとにお絵かきしていたものです。ですのでもう十数年前のものでしょうか。
いつも鉛筆の世界にいますので、ここで色と遊ぶのが面白かったです^よ^

坂道を行く難場歩きのまかこさんを私、宮崎駿の名場面と重ねあわせて想像しております。注意を怠らず足元しっかり歩いてくだ^さ^い^ね^


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Dear Unkuown (のしてんてん)
2018-01-28 18:56:53
Thank you for the poetry of human sorrow.

I am poor in English, I can only say such gratitude, but please forgive me.

I understood your message as follows.

私たちは皆、哀れみを抱いていますが、私たちの耳に永遠に残る歌があります。

この歌、疲れた一瞬の吐息、苦しい時、苦しい時代、もう一度やってくることはないいつもあなたは私のキャンドルドアの周りにいました。

私たちが喜びと美しさと音楽の光と楽しみを求めているうちに、虚弱な形がドアの上で気絶しています。彼らの声は静かですが、彼らの嘆願は言うでしょう。

この歌、疲れた一瞬の吐息、苦しい時代、苦しい時代、もう一度やってくることはない。多くの日、あなたは私のキャビンのドアの周りをくぐり抜けていた。

彼女の人生を疲れさせている痩せた少女がいます。疲れた心で、より良い日々があります。彼女の声はおいしいでしょうが、一日中一杯になってしまいます。

歌、疲れた一瞬の吐息人間の、苦しい時代、苦しい時代、もう一度やってくることはない。多くの日、あなたは私のキャビンのドアの周りをくぐり抜けていた。

苦しい波の向こう側に漂っている吐息、岸辺で聞こえる嘆きです。墓地のまわりで騒がれている挽歌です。

歌、疲れた一瞬の疲れ、苦しい時代、苦しい時代、もう一度やってくることはない。多くの日、あなたは私のキャビンのドアの周りをくぐり抜けていた。

返信する
Unknown様 (のしてんてん)
2018-01-28 19:13:30
あの、すみません・・・上の英文Unknownさんでしたか・・・・

英語苦手で、うろたえ^ま^し^た^

Googleの翻訳、なかなか上手と思いませんか?
返信する
☆ありがとうございます☆ (真鹿子(まかこ))
2018-01-28 20:28:17
Unknown様
こんばんは!

コメントありがとうございます^^☆

「真鹿子さんは宇宙神と共に歩んでいくのでしょうが、私は分かり合えない他人と一緒の方がいいです。」と云うことについてですが、

これはいいとかわるいとか、
好きとか嫌いとかの問題ではなく、

わたしたち宇宙の万物はすべて
常に宇宙と直結、
常に宇宙神と一体なのです。

ですから、
「分かり合えない他人と一緒」に、
歩いていましても、
常に宇宙と直結
常に宇宙神と一体なのです。

つまり、
「分かり合えない他人と一緒」に
歩いる場合でも、
同時に常に宇宙と直結
同時に常に宇宙神と一体状態ですから、

結局「分かり合えない他人と一緒に、
宇宙神と共に歩いている」
と云うことにもなるのですが、

わたくしの表現力不足で、
ご迷惑をおかけいたしまして、
申し訳ございませんm(__)m
これからなんとか改善方向に
進めますよう努力いたしますので、
宜しくお願い致します^^

今夜も大変寒く冷え込んでおります。
どうぞご自愛くださいますよう
温かくしてお過ごしくださいませ☆

お気遣い感謝申し上げます!
真鹿子 拝
返信する
Unknown (Unknown)
2018-01-28 22:19:15
真鹿子さんがこの世界が宇宙神と一体であると言うことと同じように、私にとって世界という外部は、ただ単に物質という次元ではなく、それに関わることで何かしらの意味付けを施した世界です

ですからそれは、当然、私以外の他の人にも当てはまることであり、五次元という意味付けも宇宙神と一体という意味付けも、人それぞれに施された世界である以上、誰もがこの世界を同じ様に捉えることは不可能であると思うのです。

しかし、分かり合えない世界を見る者同士が、たまたま何かにおいて分かり合えることがあるわけですから、わざわざ神様など持ち出さなくてもいいような気がします。

『Hard Times Come Again No More 』
有名なアメリカの作曲家でフォスターの曲です
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