
(たまご立て、再挑戦。今度は12秒)
人が悟りを開くというイメージを描いたらどんな形だろうと思ったら、たまご立てを思いだしました。なんとなくそれが心にしっくりといったのです。
机に乗ったたまごは目に見えない3つの山に支えられて自立しています。
身体の大きさを自由に変えて小さな自分を想像してみたら、どんな風景が見えるでしょうか。テーブルがあって、たまごがそびえ立っています。その山肌はごつごつした岩でおおわれていて、跳びだした3つの山が足になってテーブルと接して立っているのです。その隙間をくぐり抜けることも出来ます。
さて、そんなことよりも、心がこのたまごに似ているのです。
自立しているたまごが悟りを得た姿だと考えると、私たちの日常はまさにこのたまごを立てようとしている姿とよく符合します。
私たちの思考は、平安を得ようとしてくるくる動きます。しかしその思考は、「たまごが」している思考ではないのです。私たちの思考は、たまごを立てようとしている指が懸命に頭を使って働いている結果なのです。
どんなことに対してでも、四苦八苦する私たちの日常の心、それはたまごではなく指の方だったのです。
つまりこういうことです。私たちはどんなに苦悩にまみれても、どんなに己が醜いと嫌悪しても、それは指のことであって、白い卵は誰の心の中にも無傷でその指の中に納まっているのです。
親鸞は悪人が救われないはずはないと言いましたが、どんなに悪に染まった指でも、握っているたまごは唯一無二の真実なのですから、そう考えるとよく理解できるのではないでしょうか。
人は誰でも、神から与えられた真実の卵を持っている。
それなのに苦悩はなぜ生まれるのでしょうか。苦悩とは何なのでしょう。
たまごの中に苦悩はかけらもありませんね。たまごは真実そのものであり、至福そのものだと考えられます。すると苦悩はたまごを握っている手なのだということになります。
苦悩は握りしめられた たまごに生まれるのではなく、握りしめた手の方に現れる。
そう考えると、私たちが悟りに向かって進む道程をとてもわかりやすく、象徴的に理解させてくれるのです。
無心になってたまご立てに挑戦しながら、悟り(心の至福)について考えてみるのもいいかもしれません。
次回、心のたまごを自立させる意識の流れを、たまご立てになぞらえて考えてみましょう。
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