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読書、映像・音楽の鑑賞の記録など

池澤夏樹「スティル・ライフ」

2007-04-05 23:38:17 | 読書
 この作品は、人が世界との関係を、世界を驚異とともにみつめる眼差しをとり戻すことを主題とした小説なのだと思う。

 佐々井というどこか謎めいた友人の手引きで「ぼく」は、「心が星に直結していて、そういう遠い世界と目前の狩猟的現実が精神の中で併存して」いた太古の人間の持っていた、さまざまな先入見や知的操作が加わる以前の身体感覚によって世界を知覚する術を学んでいく。

 佐々井は何気ない山のスライド写真を見せながら「ぼく」に言う。「見方にちょっとこつがある。・・・なるべくものを考えない。意味を追ってはいけない。」

 おそらく人間と世界との間である親密な対話がなされないとき、世界はその生き生きとした表情を失うだろう。花見に行ってはしゃぐほかない「ぼく」の女友達にとって世界はそのような無表情なものとしてあるのだろう。世界へと身を挺し、対象との親密さや交流を回復すること。

 外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること。一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。

 つまり、それは対象と癒着することではなく、 「さまざまの超越が湧出するのを見るためにこそ一歩後退する」 ことなのだ。そうやって 「<見えるもの>についての天賦の才」 をトレーニングによって回復していく。

 次第にこういう写真の見方が身についてきて、最初に見た時よりずっと自分の意識を消すことがうまくなった。ぼくの全体が風景を見てとる目に還元された。

 このとき 「世界の諸々の構成契機の多様化・変質・配置転換」 がなされ、新しい意味が生起する。こうして人は 「世界の瞬間」 を目撃する。ただ連続して壁面に映し出される山の映像が

 見ているうちに一種の運動感が生じた。・・・・次から次へと壁面に映される地形は、一枚一枚は数秒ずつ映っては次のに代わるのに、全体としてはまるで一つの地形がうねり、盛り上がり、ぶつかり、崩れ、雪を頂き、木々を養い、かぎりなく変転して地表の光景のすべてをそこで見せてくれているのかのようだった。

 こうした新しい意味を生成する解釈とは自己を解釈されるものに向けて変換することである。

 ぼくは次第にその錯覚に取り込まれ、全身が風景の中に入り込んで、地表を構成する要素の一つに自分がなったような気持ちになった。

とあるように。そうやって人は「偽の現実」から生きられた世界へと還っていく。そのとき世界はたとえばこんな風に現れるのではないだろうか。

 音もなく限りなく降ってくる雪を見ているうちに、雪が降ってくるのではないことに気付いた。その知覚は一瞬にしてぼくの意識を捉えた。目の前で何かが輝いたようにぼくははっとした。
 雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。ぼくはその世界の真中に置かれた岩に坐っていた。岩が昇り、海の全部が、膨大な量の水のすべてが、波一つ立てずに昇り、それを見るぼくが昇っている。雪はその限りない上昇の指標でしかなかった。


 そう、世界はたしかに驚異にみちている。
 
 そして世界との間に何がしかの親密さをとり戻したくなったとき、またこの作品を手に取るだろう。



 池澤夏樹『スティル・ライフ』(1991、中公文庫)所収

 
 斜体による引用
 モーリス・メルロ・ポンティ『眼と精神』(瀧浦・木田訳、1966、みすず書房)






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2 Comments

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これ好きなのです。 (rbhh)
2007-04-06 06:46:10
こんにちは。
この作品とても好きなので、記事を発見して驚きと感動に包まれました。私も昨年簡単な記事を書きましたので、勝手ながらまたリンクさせていただきました。

ついでながら、オリヴェイラをたくさんご覧になっていらっしゃって素晴らしいですね。私はとっても興味があるのですが、悲しいことに1本しか観る機会に恵まれていません。
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Unknown (nocturnes_1875)
2007-04-06 22:34:59

 コメントありがとうございました。

 先月読んだ日野啓三の短編集に解説を書いていたことと、これも先月家で回し読みしていた須賀敦子が「スティル・ライフ」の書評を書いていたことが重なって、それらの本がこの本を呼び出したのかもしれません。そして、今視線の先、一メートルほどのところで福永武彦の全集が次は私の出番だ、とばかり、控えていたりするのでした。

「透明感のある小説」というのは同感です。この作品の中の世界には、澄みきっていて、ひんやりというほどではないですが、どこか涼やかな空気が絶えず流れているという感があります。
 
 そのような空気とここに描かれている(と感じている)世界を肯定する意思やさりげないけれど知覚のありようを変容させるような人間関係のある種の深みが気に入っていて、そんな思いを言葉にしようとしていたら、いつのまにかメルロ・ポンティが混入し、気がつけばどんなストーリーがまったく判らない文章になっていました・・・。


 マノエル・ド・オリヴェイラについては、今回は、家にあるDVDを制作年の順に観ているだけなのですが、作品ごとにさまざまな工夫がなされていて、このように集中的に観ても楽しめます。


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