西欧近代絵画史を繙くと、廃墟を描いた絵画の系譜を辿ることができる。それらは今まさに崩壊していく建造物を描いたものであったり、静謐な現実の風景の中に描かれた古代遺跡を移し変えたカプリッチォ(綺想画)であったり、ネクロポリスと呼ぶべき無人の都市景観であったりする。私たちはそうした絵画の存在と魅力をかつてユルスナールや澁澤龍彦の秀逸なエセー、そしてここに取り上げる谷川渥の一連の著作を通じて知ったのだった。
本書の内容を一言で言えば、コンパクトにまとめられた17世紀から20世紀に至る西欧近代美術史における「廃墟の表象史」、もしくは廃墟画とその背後にある精神史を読み解く「廃墟のイコノロジー」の試みといったところだろうか。著者はモンス・デジデリオに代表される動態としての廃墟から、ピクチャレスク美学とも結びついたユベール・ロベールらの静態としての廃墟への変遷を辿り、さらに現実の古代をその規模においてはるかに凌駕するようなバロック的廃墟を生み出したピラネージから廃墟の断片の蒐集家ジョン・ソーンへとペンを進める。
とくに興味を惹いた箇所は、廃墟という主題が美術史において登場するのがなぜ近代以降なのか、という問いに対する著者の答えだ。
廃墟の表象は、…遠い過去の文明の記憶を保持しつつ、その過去と現在とを隔てる時間的距離を意識すると同時に、また現在をひとつの遠い過去とするであろう遠い未来との間に横たわる時間的距離をも意識し、さらに過去と未来とのあわいに存在するこの自己なるものを相対化しうるような時間意識の成熟によってはじめて可能になるのだ。
たとえば、クロード・ロランのように過去の黄金時代への憧憬を喚起する装置となる場合もあれば、ユベール・ロベール―ディドロのように「二つの永遠」のあわいに立つ人間のはかなさへの観相に向かう場合もあるし、シュペーア―ヒトラーのように自らの権力意志の未来永劫に続くモニュメントの夢想となる場合もある。が、いずれの場合にしても、廃墟に美を見出すのは、ヘレニズム的な円環的な時間意識やヘブライズム的なさほど遠くないものと感受された起源と終末を結ぶ線分的な時間意識(真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店・1981))ではなく、過去にも未来にもはるかに延長される直線的なものとして時間を把握する近代的な時間意識であることは共通している。
時間を現在が絶えず無に帰していく後の戻りのできない流れであり、過去や未来にどこまでも延長できるものとして捉えた上で「あるものとあったもの、あるものとありえたであろうものとの対照」のうちに廃墟は表象されていく。なるほど廃墟の表象とはまさに近代的な画題であり、これもまた近代的な時間意識の産物である進歩という観念とコインの裏表の関係にあるといえる。
2003/04/14
谷川 渥『廃墟の美学』(集英社新書:2003.3)
本書の内容を一言で言えば、コンパクトにまとめられた17世紀から20世紀に至る西欧近代美術史における「廃墟の表象史」、もしくは廃墟画とその背後にある精神史を読み解く「廃墟のイコノロジー」の試みといったところだろうか。著者はモンス・デジデリオに代表される動態としての廃墟から、ピクチャレスク美学とも結びついたユベール・ロベールらの静態としての廃墟への変遷を辿り、さらに現実の古代をその規模においてはるかに凌駕するようなバロック的廃墟を生み出したピラネージから廃墟の断片の蒐集家ジョン・ソーンへとペンを進める。
とくに興味を惹いた箇所は、廃墟という主題が美術史において登場するのがなぜ近代以降なのか、という問いに対する著者の答えだ。
廃墟の表象は、…遠い過去の文明の記憶を保持しつつ、その過去と現在とを隔てる時間的距離を意識すると同時に、また現在をひとつの遠い過去とするであろう遠い未来との間に横たわる時間的距離をも意識し、さらに過去と未来とのあわいに存在するこの自己なるものを相対化しうるような時間意識の成熟によってはじめて可能になるのだ。
たとえば、クロード・ロランのように過去の黄金時代への憧憬を喚起する装置となる場合もあれば、ユベール・ロベール―ディドロのように「二つの永遠」のあわいに立つ人間のはかなさへの観相に向かう場合もあるし、シュペーア―ヒトラーのように自らの権力意志の未来永劫に続くモニュメントの夢想となる場合もある。が、いずれの場合にしても、廃墟に美を見出すのは、ヘレニズム的な円環的な時間意識やヘブライズム的なさほど遠くないものと感受された起源と終末を結ぶ線分的な時間意識(真木悠介『時間の比較社会学』(岩波書店・1981))ではなく、過去にも未来にもはるかに延長される直線的なものとして時間を把握する近代的な時間意識であることは共通している。
時間を現在が絶えず無に帰していく後の戻りのできない流れであり、過去や未来にどこまでも延長できるものとして捉えた上で「あるものとあったもの、あるものとありえたであろうものとの対照」のうちに廃墟は表象されていく。なるほど廃墟の表象とはまさに近代的な画題であり、これもまた近代的な時間意識の産物である進歩という観念とコインの裏表の関係にあるといえる。
2003/04/14
谷川 渥『廃墟の美学』(集英社新書:2003.3)
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