階段通りの人々 A CAIXA
(ポルトガル/フランス・1994・96min)
監督・脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
製作:パウロ・ブランコ
原作:プリスタ・モンテイロ
撮影:マリオ・バロッソ
出演:ルイーシュ・ミゲル・シントラ、ベアトリス・バタルダ、
フィリペ・コショフェル、ルイ・デ・カルヴァルホー、
グリシニア・クォルタン、ソフィア・アルヴェス、イザベル・ルト
舞台は二本の表通りをつなぐ階段状の裏通り。この通りを挟んでひしめきあって建ちならぶ家々の住人たちは誰もが貧しい。冒頭、この映画が世界のどこにでもある「古くて新しい社会的問題」、つまり貧困(と権力関係)を扱っているお伽話(寓話)であることが明示される。
カメラはこの階段通りから離れない。演劇的ともいえるが、むしろ階段が想起させるのは夙に指摘されているようにミュージカルだろう。『アブラハム渓谷』では印象的な聾唖の洗濯女を演じていたイザベル・ルトが扮した豆売り女は、ときおり翳りのある美しい声でファドを歌う。自分を知る人々の目を避けるため、この階段通りにいずこからともなく現れてはギターを爪弾く老教授は酒場の主人のリクエストに応えてアヴェ・マリアを奏でる。またときに豆売り女と老教授は即席のコラボレーションをするだろう。映画の後半では贋の盲人が施しを乞いながら奇妙に音程を外しながらやはりファドを歌い、エピローグの直前、時間の経過を示すために踊り場でバレリーナたちが「時の踊り」を舞う。
物語はリュイス・ミゲル・シントラ演じる盲目の老人が行政から与えられた箱をめぐって展開する。映画の原題ともなっているこの恵みの箱によって、老人とその家族は労せずして収入を得られるようになる。しかし、箱は娘夫婦が管理している。娘は日々家事に追われ疲れきっており、夫は働こうともせず、気が向いたときに老人の箱の用心棒をしている。老人はこの幸運な収入によって好物の魚料理にありつけるのだが、箱に募金された額が一体いくらであったかは知らない。弱者が弱者から搾取するという構図が描かれる。そして財産を作り出す者ではなく、財産を管理し、それにアクセスできる者が力を持つというのは、もとより人間社会の普遍的な真実だろう。
箱は、また、他の住人たちの嫉妬心を掻きたて、老人とその家族に不安と猜疑心を植えつける。老人の箱が何者かによって奪われたとき、娘は父親を口汚く罵り、その夫は盲目の老人を罵りながら殴打する。だが、忌まわしい出来事はそれだけにとどまらない。箱が失われたことで、老人を含めて二人の死者が出て、一人の受刑者が生まれる。
お伽話であるといいながら、それは弱者同士が互いに助け合うといった「美しい物語」とはならない。弱者は常に自分より弱者を見つけようとし、持たざる者は常に持てる者を羨望の眼差しをもって凝視しながら、相手の同情をひこうとしつつ、相手を自分より弱者に貶める隙を窺う。だというのに、ただの陰惨な話とはならない。それは美しい音楽と幻想的なバレエ・シーンによるものか、それともこの口汚い人々が妙に生き生きとしているからなのか、おそらくその両方によるものと思われるが、確かにこの寓話は不思議と後味が悪くない。
エピローグでは、たった一日で父親と夫とを失った娘が自分の不幸極まりない身の上話で収入を得るようになったことが示される。おそらく学習の成果だろう、彼女は人々の嫉妬を巧みに懐柔し、聖女と呼ばれるようになっている。権力を持つ者とは、富を分配する者であるということも、この社会の普遍的な真実なのだった。
(ポルトガル/フランス・1994・96min)
監督・脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
製作:パウロ・ブランコ
原作:プリスタ・モンテイロ
撮影:マリオ・バロッソ
出演:ルイーシュ・ミゲル・シントラ、ベアトリス・バタルダ、
フィリペ・コショフェル、ルイ・デ・カルヴァルホー、
グリシニア・クォルタン、ソフィア・アルヴェス、イザベル・ルト
舞台は二本の表通りをつなぐ階段状の裏通り。この通りを挟んでひしめきあって建ちならぶ家々の住人たちは誰もが貧しい。冒頭、この映画が世界のどこにでもある「古くて新しい社会的問題」、つまり貧困(と権力関係)を扱っているお伽話(寓話)であることが明示される。
カメラはこの階段通りから離れない。演劇的ともいえるが、むしろ階段が想起させるのは夙に指摘されているようにミュージカルだろう。『アブラハム渓谷』では印象的な聾唖の洗濯女を演じていたイザベル・ルトが扮した豆売り女は、ときおり翳りのある美しい声でファドを歌う。自分を知る人々の目を避けるため、この階段通りにいずこからともなく現れてはギターを爪弾く老教授は酒場の主人のリクエストに応えてアヴェ・マリアを奏でる。またときに豆売り女と老教授は即席のコラボレーションをするだろう。映画の後半では贋の盲人が施しを乞いながら奇妙に音程を外しながらやはりファドを歌い、エピローグの直前、時間の経過を示すために踊り場でバレリーナたちが「時の踊り」を舞う。
物語はリュイス・ミゲル・シントラ演じる盲目の老人が行政から与えられた箱をめぐって展開する。映画の原題ともなっているこの恵みの箱によって、老人とその家族は労せずして収入を得られるようになる。しかし、箱は娘夫婦が管理している。娘は日々家事に追われ疲れきっており、夫は働こうともせず、気が向いたときに老人の箱の用心棒をしている。老人はこの幸運な収入によって好物の魚料理にありつけるのだが、箱に募金された額が一体いくらであったかは知らない。弱者が弱者から搾取するという構図が描かれる。そして財産を作り出す者ではなく、財産を管理し、それにアクセスできる者が力を持つというのは、もとより人間社会の普遍的な真実だろう。
箱は、また、他の住人たちの嫉妬心を掻きたて、老人とその家族に不安と猜疑心を植えつける。老人の箱が何者かによって奪われたとき、娘は父親を口汚く罵り、その夫は盲目の老人を罵りながら殴打する。だが、忌まわしい出来事はそれだけにとどまらない。箱が失われたことで、老人を含めて二人の死者が出て、一人の受刑者が生まれる。
お伽話であるといいながら、それは弱者同士が互いに助け合うといった「美しい物語」とはならない。弱者は常に自分より弱者を見つけようとし、持たざる者は常に持てる者を羨望の眼差しをもって凝視しながら、相手の同情をひこうとしつつ、相手を自分より弱者に貶める隙を窺う。だというのに、ただの陰惨な話とはならない。それは美しい音楽と幻想的なバレエ・シーンによるものか、それともこの口汚い人々が妙に生き生きとしているからなのか、おそらくその両方によるものと思われるが、確かにこの寓話は不思議と後味が悪くない。
エピローグでは、たった一日で父親と夫とを失った娘が自分の不幸極まりない身の上話で収入を得るようになったことが示される。おそらく学習の成果だろう、彼女は人々の嫉妬を巧みに懐柔し、聖女と呼ばれるようになっている。権力を持つ者とは、富を分配する者であるということも、この社会の普遍的な真実なのだった。
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