日本公開タイトルが示すようにゲーテの『ファウスト』がベースとなっていて、作中幾度も引用されたりもするが、かなり自在な翻案がなされている。
登場人物は研究のために修道院を訪れた教授とその妻、ひそかにオカルティズムを研究しているらしい修道院の管理人と若い女性研究員の四人で、これに管理人の手伝いをする老夫婦や漁師が登場する。
舞台は眼下に海を見下ろし、しかも鬱蒼とした森に囲まれている中世に作られた修道院。庭は廃墟のようでもあり、内部も暗く不気味な装飾が施されていたりする。原生林は昼間も陽光から遮られ、また海辺の洞窟は悪魔礼拝の場となっていて、修道院とつながっているようだ。この修道院もそこに暮らす老夫婦のルシファー信仰の場となっている。
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舞台は二本の表通りをつなぐ階段状の裏通り。この通りを挟んでひしめきあって建ちならぶ家々の住人たちは誰もが貧しい。冒頭、この映画が世界のどこにでもある「古くて新しい社会的問題」、つまり貧困(と権力関係)を扱っているお伽話(寓話)であることが明示される。
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19世紀の小説が、しばしば舞台となる土地の風景の描写から叙述していくように、この映画もアブラハム渓谷と呼ばれるドウロ河を挟む美しい風景を一望のもとに捉えたロング・ショットから始まり、列車の車窓からその景色を捉えたショットが続く(その後も時間の経過を表すためにこの二種類のショットは使われる。)その列車の進行のように3時間余りの時間をかけてゆったりと描いていく一人の女の少女時代からその死に至るまでの生。『ボヴァリー夫人』を現代ポルトガルに舞台を移し変えて翻案した小説をもとにしており、全編を覆い尽くすかのようなナレーションはオリヴェイラ自身の依頼で書かれた小説からそのまま採られているのだろうか。が、匂い立つような感覚美は映像ならではのもので、赤をアクセントとした深みのある色彩と濃密な時間にひたすら酔うことになる。
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今福龍太は『遠い挿話』のプロローグとして置かれた「ハンモック・リーディング」という文章の中で、旅行鞄に本をしのばせるときの不思議な興奮について書いている。
こうした経験は自分にもあてはまる。それは専ら移動中やホテルのベッドに寝そべって読むためのものだが、どの本を持っていくかを考えているときが旅支度のなかでももっともわくわくする時間だ。そのとき確かにいつも見慣れた本の表情は一変している。今福龍 . . . Read more
原罪と救済、善と悪、理性的思考と信仰、エロスとアガペーなどの二項対立軸を幾重にも交叉させさせながらヨーロッパ文明をめぐって繰り広げられるコンパクトな対話劇、あるいはその戯画、もしくはトーマス・マンの『魔の山』の精神病院ヴァージョンといった趣。
舞台となるのは、もとは貴族の別荘か何かだろうか、木のぬくもりと白地に青い絵模様のタイルの冷ややかさが奇妙に同居した瀟洒な建物でドアの横に「精神を病んだ人々の家」とある。住人たちは自分を『聖書』やドストエフスキーの小説の登場人物と思い込んでいて、彼らはそれらのエピソードを生きる、というか、院内で再現していく。
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中沢新一は『ゲーテの耳』(河出書房新社)に収められた「賢者の旅の哲学」という短文の中で、現代における旅の三つの相を論じている。
一つ目はランボーをその象徴とするアドレッセンスの旅。それは「ブルジョア的文明」を脱出して未知なるものを捜し求める旅であり、「いっさいのできあがってしまった大人の世界に背をむけて、自分を獲得するためにおこなわれるイニシエーションとしての旅」。そして、日常の退屈を抜け . . . Read more
今福龍太の『遠い挿話』を読んでいたら、旅人を「探検家」「トラヴェラー」「ツーリスト」の三つのタイプに分類した英国のポール・フュッセルという批評家の言葉(『海外へ』)を紹介していた。
フュッセルによれば、「探検家」とは未知の探求者であり、「彼らは死の危険をすら冒して未知を彼らの世界の側に奪取する文化英雄たろうとする」者で、他方、現代の「ツーリスト」は商業資本によってあらかじめ発見された大衆的価 . . . Read more
この小説は十代の終わりに一冊の写真集を出して消えてしまった遠井一という写真家に関するルポルタージュという形式で書かれている。
東京オリンピックの年に刊行された彼の唯一の写真集『世界という廃墟』は、戦後の復興と高度経済成長とに背を向けるように、「すべて自然に朽ち汚れ崩れていく建物あるいは物の写真」で構成されている。写真集を刊行した出版社の元社長は、遠井の写真に「余分の、仮の偶然のものが消えて、 . . . Read more
「いつも何かに追われているという恐怖」を感じながら生きてきた若者が白い服を着た奇妙な少女に出会う。少女は衣服から露出しているところは、手足はむろん、目と鼻と口だけを残して顔までも繃帯で覆われている。
少女には、「草がのびる音、花が開く音、いろんな虫が働いたりけんかする声、石にひびが入る音、樹が水を吸いあげる音」が聞こえ、世界は「さまざまな音と気配で生き生きとした」ものとして存在する。若者は日 . . . Read more
風の強い谷間にある地方の小さな町。町はずれの山の中腹の石切り場跡は、中でも風がもっとも鋭く鳴る場所で、3年ほど前からどこからともなく現れ、住みついた男がいる。男は町の人々から風男と呼ばれ、たったひとりでストーン・ヘンジを組み上げている。
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当時と今とでは、風俗や慣習は大きく変わってしまったが、市民道徳の偽善性と貨幣経済そのものは変わっていない。それらはもともとこのオペラの台本にも内包されており、ヴェルディが「私たちの時代の主題」と見なしていたものだろう。カーセンの演出はそれを具体的に眼に見えるものとしたに過ぎない。デュマ・フィスが自作を戯曲化したときも、風俗を乱すとして長く上演されず、ヴェルディが強く願いながら劇場側や台本作者が忌避したため、果たせなかったを本来の意図を現代において再現するという意味では十分に説得力のあるものと感じた。
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第二幕、第一場。前奏曲の間、木立の中のヴィオレッタとアルフレードの頭上から木の葉のように紙幣が降ってくる。
降り積もる紙幣は、二人が「贅沢な」(ジェルモン氏)生活を維持するために費やした費用のメタファーだろう。遠目に見れば美しい愛の巣も、現実にはさまざまな出費を要する。セットは第一幕の緑の木立の壁紙の転用だが、黄色とオレンジのライトで紅葉と見せている。やがてすべての木の葉(紙幣)が散れば、木々は丸裸となる。
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ジュゼッペ・ヴェルディ作曲 歌劇『椿姫』
出演:パトリツィア・チョーフィ、ロベルト・サッカ、
ディミトリ・フヴォロストフスキー 他
指揮:ロリン・マゼール
演奏:フェニーチェ歌劇場管弦楽団、同合唱団
演出:ロバート・カーセン
2004年11月 ヴェネツィア、フェニーチェ歌劇場
2004年に再建されたヴェネツィア・フェニーチェ座の杮落とし公演のプロダクショ . . . Read more
自然光を見事に捉えた美しい映像や趣味の良い別荘のインテリアなど、それだけでも幸せな気分になるのだが、さらにうれしくなるのはプロットと緊密に結びついた画面構成の妙味だろう。 . . . Read more