「海」、「風薫るウィーンの旅六日間」、「バタフライ和文タイプ事務所」、「銀色のかぎ針」、「缶入りドロップ」、「ひよこトラック」、「ガイド」という七つの短編が収録されている。収録順に読んでいったが、特に印象に残ったのは、最初の「海」と最後の「ガイド」の二編だった。
「海」は結婚の承諾を得るために恋人の泉さんの実家を訪れた青年と彼女の「小さな弟」との一夜の交流を描いたもの。 「家族が話題に上ると、彼女の声の調子が微妙にバランスを欠くことに僕は以前から気づいており、あえて深追いはしないよう自分に言い聞かせていた」とあるが、そういう何かデリケートな問題を含んでいるらしい家族に会うというのだから、夕食の食卓の会話もどことなくぎこちない。
泉さんの「声の調子が微妙にバランスを欠く」のは、痴呆の傾向を見せる祖母の存在によるものもあるのだろうが、もっぱら21歳になる「小さな弟」の存在によるだろう。 「小さな弟」といっても、「僕よりも頭一つ背が高く、体重は一・五倍くらいありそうだった」というだが、「泉さんがその愛称 を口にする時はいつも、本当に小さな姿が目の前にあって、それを乱暴な息遣いで壊してはいけないと案ずるような、ためらいがちな口調になった」とあることからも、そのように推測される。実際、この弟はどこか現実の社会生活とうまく折り合っていけそうにない。「楽器奏者」ということになってはいるが、彼は「鳴鱗琴」という美しい名前を持つ世界に一つしかない楽器の「発明者で、唯一の演奏者」なのだ。
その楽器は、海から吹いてくる風をさまざまな魚の鱗で覆われたザトウクジラの浮袋に吹き込んで、中に張ってある飛び魚の胸びれで作った弦を振動させて音を出すというもの。「小さな弟」の部屋で寝ることになった「僕」は、彼に「鳴鱗琴」の音を聴かせてもらおうとするが、「小さな弟」は海からの風がないため聴かせられないという。代わりに演奏する様子を、身振りを交えて説明してくれる。
僕は小さな弟が海辺に立っている姿を思い浮かべてみた。両足はたくましく砂を踏みしめ、掌は優しく浮袋を包んでいる。まるで風は目印をつけたかのように、彼に吸い寄せられる。海を渡るすべての風が、小さな弟の掌のぬくもりを求めている。
彼の唇は本当に今そこに鳴鱗琴があるのと変わりなく、暗闇を揺らし続けた。それは僕の愛する泉さんの唇と、そっくり同じ形をしていた。
こうして「僕」は不可視の楽器の音色を聴く。それは「僕」がこの現実社会に居場所を見出すことができなさそうな「小さな弟」を受け止めたということであり、泉さんの家族となるための儀式のようなものの役割を果たしているのかも知れない。
「風薫るウィーンの旅六日間」は、ウィーンへのツアー旅行が、たまたま同室となった六十代半ばの琴子さんという未亡人のおかげで、一人の死者を看取る旅に終わってしまったというもので、思わずくすりと笑ってしまうオチがついているが、最後に語られる、
どんな名前の人にだって、見送る人が必要です。あなたはその役目を果たしただけなのです。
という「私」の言葉が
とにかく、遠い場所に、たとえ一瞬でも自分のことを思い出してくれる人がいるなんて、うれしいじゃありませんか。そう思えば、眠れない夜も安心です。その遠い場所を思い描けば、きっと安らかに眠りにつけます。
という琴子さんの言葉と呼応しながら、これが紛れもなく『アンネ・フランクの記憶』や『ミーナの行進』の著者の作品であったことを想起させる。図々しいが、どこか憎めない琴子さんの人物造形も、過去を愛しむ人であるという点で小川洋子的であるといえるだろう。
「バタフライ和文タイプ事務所」は、主に医学部の大学院生たちの学会発表用の原稿を請け負う和文タイプ事務所のタイピストである「私」は、長くその事務所の倉庫で働いている「活字管理人」の男に次第に惹かれていくという物語だが、表意文字である漢字が喚起する意味やイメージを活かした、しかもちょっととぼけたようなユーモアに満ちた官能小説のパロディのような作品。
「私」が活字を破損するたびにこの「活字管理人」のところに行って、新しい活字をもらうのだが、「活字管理人」は、「落ち着きのあるp。65」とすりガラスの隙間から覗く薄水色のシャツと手、そして左利きであることとガラスの向こうの気配以外は分からない。が、出向くたびに次第に関心は高まり、ついには男の所に行くために自ら活字を破損するまでになる。
ところで「私」が破損する字が、なぜか性的なイメージを喚起する文字ばかりで、しかも、それらの文字(あるいは活字そのもの)へのフェティシズムに満ちた「活字管理人」の講釈に耳を傾けるうちに「私」は男に対する関心を高め、次第に性的妄想によって頭の中が満たされ、その妄想が現実を侵食してゆくというもの。この「活字管理人」と「私」の関係は『薬指の標本』の「標本技術士」と「私」のイメージと重なり合う。題名にある「蝶」からのアナロジーも気が利いた仕掛けだと思う。
つづく「銀色のかぎ針」と「缶入りドロップ」は掌編。「銀色のかぎ針」は祖母の13回忌で高松行きのマリンライナーに乗った「私」が車内で編み物をする老婦人に、やはり編み物が得意だった祖母への追憶を重ね合わせるというもので、短い旅のスケッチのようでいて、今はいない人の記憶を喚起する旅であるという点がポイントだろうか。「缶入りドロップ」は40年もの間、バスを運転し続けてきた男の、幼稚園の送迎バスを運転するようになって編み出したすぐに泣き出す幼児をなだめるためのちょっとしたトリックの話だが、あとの「ひよこトラック」に登場するドアマンと通じ合う。そして、この作品からそれまでの一人称による叙述から、客観的な叙述へと転換する。
「ひよこトラック」は言葉を発しなくなった少女と四十年間ホテルのドアマンとして働き、定年間近となった初老の男の交流を描いたもの。少女が男のもとに持ってくるさまざまなコレクションがいずれもかつてその中に何らかの中身が詰まっていたものであり、そこに中身が詰まっていたことの痕跡であるという面白いのだが、こうした興味深いモティーフはあるものの比較的簡単に結末のオチが読めてしまうことと、ドアマンの男の一人称による語りではないことで、叙述がやや説明的なものに傾いていて、他の作品のような読後の余韻が減じていると感じた。
二人は言葉を介さないコミュニケーションによって繋がっているが、父が行方知れずとなり、母も亡くした心の傷によるものか言葉を話さなかった少女はともかく、「誰も男の顔など見なかったし、名前も覚えなかった」と語られる男の方も元来、寡黙な、ホテルのドアマンとしての職業上必要な決まり文句を除けば、どちらかといえば自ら口を開くことはない人物として描かれている。『ブラフマンの埋葬』の<創作者の家>の管理人の「ぼく」と近しい人物といえるだろう。兄弟や年少のいとこというものを持たず、また一度として父親になったこともないドアマンにとって、「子供という存在そのものが謎」であったのだが、この男の孤独を、ひよこを積んだトラックをめぐる視線の交錯以来、関わりを持つようになった少女と彼女がもたらすプレゼントと呼ぶには奇妙なオブジェの存在が埋めていくことになる。
それらはあえて言葉を発しないことで、少女と「平等」な関係を築こうとした男への少女からのプレゼントなのだろうか。むしろ男の意識を、今までわずかな関心も向けていなかったものへと導くための無償の贈与だろうか。いずれにせよ本当のプレゼントは、ひよこトラックが横転したとき、唐突にもたらされる。
「ガイド」は、公認バスガイドの母親とその一人息子である「僕」との関係と、「僕」と「題名屋」の老人や「不完全なシャツ」を作る「シャツ屋」のおばさんとの交流という複数のモティーフが交錯する形で進んでいく。(『ブラフマンの埋葬』などに比べると、こうしたモティーフの絡み具合がやや緊密さにおいて劣っているように感じたが、それはキーとなる語句の読み落としという可能性も考えられる。この点については保留としておく。)
案内用の旗を失くしてからの母の不運と「僕」自身の頭部の怪我による「シャツ屋」のおばさんとの交流が語られたあと、母親がガイドを務める観光バスに乗ることになった「僕」の一日が語られる。そのバスで隣同士に座ることになったのが「題名屋」の老人ということだ。かつては詩人だったという老人は、今は「お客さんたちが持ち込んでくる記憶に題名をつけること」を生業としている。「詩を必要としない人は大勢いるが、思い出を持たない人間はいない」からだ。『薬指の標本』の弟子丸氏が記憶の中の痛みや悲しみを分離するための技術者であったのに対して、
題名のついていない記憶は、忘れ去られやすい。反対に、適切な題名がついていれば、人々はいつまでもそれを取っておくことができる。仕舞っておく場所を、心の中に確保できるのさ。生涯もう二度と、思い出さないかもしれない記憶だとしても、そこにちゃんと引き出しがあって、ラベルが貼ってあるというだけで、皆安心するんだ。
と語るこの老人は、いつか忘却されてしまう記憶を人がしっかりと保存する術を与えるエキスパートなのだった。
この老人が遊覧船に乗り遅れてしまう。「僕」は母親を助けるために、この老人を探し出し、タクシーに同乗して母の代わりに「ガイド」を務める。そして別れ際に、お礼をしたいという老人に、「僕」は「今日の僕の一日に、題名をつけてほしいんです」という。そこで老人が少年に与えた題名は、その日の二人の会話の中で老人が既に語った言葉の一節であり、また少年からすれば老人との出会いを強く印象付ける言葉であるがゆえに、老人にとっても少年に出会えたことをかけがえのないものと思っていることが感じられる言葉だった。
以上、七編。いずれもひそやかな人生の断片を、静謐さを感じさせる文体で切り取ってみせたもので、それぞれに微妙な味付けが施されているものばかりだった。
小川洋子『海』(新潮社、2006.10)
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