少しばかり時間的な、また精神的な余裕ができてきたので、昨年末に亡くなった加藤周一の著作をまとめて読み始めている。年末にかけて少しずつ読み進めていくことになるだろう。ただし、それは遅ればせながらの追悼という意味ではない。少なくとも加藤周一の熱心な読者ではなかったからだ。そうではなく、その著作を読んでいくことを通じて、「知識人」について、そして20世紀的な知のあり方について、自分なりに考えてみたいと思ったのがその動機だ。
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Grigory Sokolov Live in Paris
( EuroArts )
監督はブリュノ・モンサンジョン。カットの切り替えが楽譜を踏まえたものになっていて演奏に集中できる映像となっている。曲目は次のようなもの。
Beethoven : Sonata for Piano no 9 in E major, Op. 14 no 1
Beethoven : Sonata f . . . Read more
アラン・レネ『去年マリエンバートで』
この時代のレネはヌーヴォー・ロマンと呼ばれる作家たちとの共同作業が続く。そういえば、デュラスやロヴ・グリエの監督作品は今も手に入るのだろうか?
デュラスの『インディア・ソング』と『ヴェネツィア時代の彼女の名前』のBOXセットなどというものが出たら真っ先に買ってしまいそう。
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中心となる登場人物は上流階級に属する知的なセシーリアとその妹で夢想癖のあるブライオニー、それに姉妹の家の使用人の息子であるロビーの三人。小説は階級差ゆえに生じる心理的葛藤を伴うセシーリアとロビーの恋愛とブライオニーによる恋人たちの運命を翻弄した虚偽の証言への贖罪の物語が端正なたたずまいをもって優雅に、あるいは酸鼻をきわめるリアリティをもって描かれていくが、そこに施された現代の小説らしいメタフィクショナルな仕掛けがこの作品を一層読み応えのあるものとしている。 . . . Read more
岡田暁生の『音楽の聴き方』の補遺として、ブラームスの交響曲第4番をトスカニーニとフルトヴェングラーの演奏で聴き比べてみた。トスカニーニは52年のフィルハーモニア管との演奏で、爆竹のノイズの入ったもの(TESTAMENT)、フルトヴェングラーは49年のベルリン・フィルとの演奏(TAHRA)で、ともにライブ録音となっている。同書で紹介されているアドルノによる両者の演奏評で指摘されている2点を主な比較のポイントとして聴く。
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音楽自体をひとつの言語として読むというクラシック音楽の聴き方(方法)についての実用書としても読めるが、「能動的聴取」(アドルノ)の方法論と『西洋音楽史』の最後の二章の議論を踏まえて、音楽から疎外された現代の聴衆が音楽を自らのもとに取り戻すために、音楽を「聴く型」の考察を通じて、何をすべきかを簡潔にまとめた文化社会論としても読める。ここでの主張の根底にあるのは、音楽のもつ言語性こそが、音楽が人間的なコミュニケーションを有しうる生命線であり、音楽を聴く上でそれは「人が人に向けて発する何か」であることへのリスペクトを失わないことが何よりも大切なのだという考え方だろう。
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