「ひたひたと」は『もののたはむれ』に収められていた「並木」や「千日手」に続いてまたしても榎田という男が登場するが、この三人の榎田が同一人物かどうかは定かではない。
ここでの榎田は、ふと「人を疎んじながら、憎みながら生きるのにはもう疲れた、もういい加減終わりにしてもいい頃合いだろう」と呟く疲れた中年男であり、母親が出ていったあと父親と二人で暮らしている孤独な少年であり、またはやくも疲労の翳を宿しつつ、ナミさんという年上の娼婦と同棲する無職の青年であったりする。
そうして榎田という主人公をめぐる三つの時間がかつて遊郭のあった洲崎という水辺の町を舞台に交錯する。いや三つの時間が交錯するという表現では正確ではない。過去の時間は回想という形式をとって語られるのではなくて、榎田は文字通り「中年男でもあり精悍な青年でもありいたいけな子どもでもある薄い影のようなもの」として描かれる。したがって、この作品の中の時間は、直線的で不可逆的な時間の流れではない。
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遊び心に満ちた趣味のよい音楽。出演者たちの好演。よく練られたウェルメイドな3本。いずれも録画しておいたもの。3本に共通する撮影監督のカルロ・ディ・パルマも手堅い仕事をしている。
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神への信仰と人間の自由が同時に生きられる場所、ヨーロッパ。著者によれば、その根幹をなすラテン・キリスト教文明はトマス・アクィナスによって先行するビザンツ文明(東方神学)とイスラム文明(一神教の伝統とアリストテレス哲学)の成果をブレンドしつつ、そのアイデンティティが決せられ、トマスは、したがって十二世紀以降のヨーロッパ文明を貫く思想的正統と見なされることになる。
トマスの思想の普遍性を解き明かすために、著者はひとまずトマスの思想からアリストテレスの自然学を捨象し、アリストテレスの「原因-結果」というカテゴリーを「限定-被限定」と置き換え、さらに「神」を「無限なる他者」として読み換える。こうした手続きを経て、著者のいうところのトマス・アクィナスの言語ゲームが抽出される。
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シェーンベルクやヴェーベルンによる編曲ものを集めた一枚。指揮者のギーレンはそれらをあくまでもシェーンベルクやヴェーベルンの作品として再現しようとしていたようだ。ただし、あとの2曲については多少鋭利さが後退しているようにも感じるが。
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確か1930年代から40年代のハリウッドで全盛をきわめたスクリューボール・コメディでは婚約者たちは不意の闖入者の登場によって結婚のチャンスを奪われるものだと書いていたのは蓮實重彦だったが、この『さよなら、さよならハリウッド』でも、あっけないほどのご都合主義の連続でひとつの婚約関係が破棄されてしまう。
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男は過去の甘美な夢に生きつづけ、女は過去を封印し、ただ現在にのみ生きる。
男は少年時代からの夢(あるいは妄想と呼ぶほうが正確か)を具現化するための最高の女を手に入れる。愛される対象であることだけを望んだ女は男の愛を受け入れる。少年時代の夢のままに時間が静止したような空間はいつも柔らかな光に包まれ、心地よい香りに満たされている。そこで他者との、あるいは外の世界との関わりを極力断ちながら、男はひたすら心地よい空間に閉じこもろうとする。
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もともとVANGUARD (ARTEMIS )レーベルからリリースされたものを、ヴァイオリニスト自身の個人レーベルから出しなおしたものだとのこと。プロコフィエフの二つのソナタについては、これまではクレーメルとアルゲリッチの盤を専らに聴いてきたのだけれど、それとはまた違った、シャハムの透明感があって抑制が効いているのだけれど、伸びやかな艶のある美しい音色で聴くプロコフィエフもまたすばらしいものだった。
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