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マノエル・ド・オリヴェイラ『家路』

2007-04-04 00:27:31 | 映画

家路  JE RENTRE A LA MAISON
(ポルトガル/フランス・2001・90min)

 監督・脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
 製作:パウロ・ブランコ
 撮影:サビーヌ・ランスラン
 文芸顧問:ジャック・パルジ
 
 出演:ミシェル・ピコリ、アントワーヌ・シャピー、
     レオノール・バルダック、リカルド・トレパ、
     カトリーヌ・ドヌーヴ、レオノール・シルヴェイラ、
     ジョン・マルコヴィッチ 他


 事故で妻と娘夫婦を亡くした老舞台俳優ジルベール・ヴァランス。悲しみと喪失感にひたるまもなく、予期せぬ形でもたらされた孫のセルジュとの二人きりの生活をはじめなくてはならない。いつも通りの生活のリズムを確かめながら、ときにいい靴を手に入れ、孫にプレゼントをして心躍らせる時間も確保しようとする。しかし、老いた名優を取りまく環境は時代に流れとともに変わりつつあり、自身もまた自らの老いを自覚する。

 ヴァランスは毎日同じカフェに行き、眺めのいい席に座り、一杯のコーヒーを飲み、穏やかな眼差しで通りを見やりながらくつろぐ。そしてどちらかといえば擦れ違いとなることが多いが、時間がとれるときは孫との付き合いを大切にしようとする。舞台を終えて夜遅く帰宅してもセルジュにとってはやさしい祖父として振舞い、舞台のない日は嬉々として遊ぶ。孫と遊ぶヴァランスの表情は生き生きとして微笑ましい。孫のセルジュも毎朝祖父の寝室に挨拶をしに行き、前夜が遅くて寝入っているときはそっと音を立てずに学校に行く。互いを慈しみながらともに生きていこうとする二人の姿が胸を打つ。

 しかし俳優としてのヴァランスには次々と過酷な現実が突きつけられる。そもそも彼に家族の突然の死の報せがもたらされたのは舞台の上演中のことだった。演目はイヨネスコの黒いユーモアに包まれた『瀕死の王』。誰からも死を望まれる王を演じている。もうひとつの演目はシェイクスピアの『テンペスト』。ここで彼が演じているのは弟によってミラノ大公の地位を追われ、追放されたプロスペロー。かつての復讐の鬼も最後は「そのあと私に残された道はミラノにもどり、朝にも夕べにもただひたすら墓に入る身支度をすることだ」(小田島雄志訳)と呟く。

 いつも主人公の生を、それと対照的な生を傍らに配して深い陰翳とともに描いていくオリヴェイラ作品なのだが、この作品では主人公が舞台俳優であるということで、彼が演じる役柄の生と俳優としての生、そしてセルジュ少年の祖父であり、生活者としての主人公の生がときに二重写しになり、またときに対位法のように絡まりあう。

 そんなヴァランスに、舞台俳優としての矜持から高額な出演料を約束されていながら断り続けたテレビの仕事が舞いこむ。その仕事は彼の芸術観と相容れるものではない。舞台でも共演している若い女優を巻き込んだ、ドラマの内容を地でいくようなエージェントのつまらない芝居もあってヴァランスは激昂する。次にヴァランスもその力量を認めるアメリカ人映画監督によるジョイスの『ユリシーズ』出演の話が持ち込まれる。突然の代役としての出演ということもあり、英語で台詞を喋らないといけないのに準備期間が三日しかない。ヴァランスは一度は躊躇うが、結局引き受ける。

 リハーサル・シーンは俳優たちの声と演技者たちを凝視する監督の表情だけで描かれる。そして主人公は何度も台詞を間違える。監督はヴァランスに台詞の特訓を命じる。自宅で夜遅くまで練習したのだろう、そのままソファで寝入ったしまった主人公は心配げな孫のセルジュに起こされ、また撮影所に向かう。しかし英語の台詞への戸惑いに疲労と老いが重なったのだろう、とうとう台詞に詰まってしまう。そして「私は家に帰る。休みたい。」と言い残し、撮影所をあとにする。この突然フランス語で話す言葉は、彼が舞台でプロスペローとして語った言葉と呼応する。

 そのキャリアの終焉に近づきつつある名優のプライドが崩壊していくさまをオリヴェイラ監督は冷徹なまでの視点で捉え、ミシェル・ピコリは悲哀と自分への怒りが動揺と綯い交ぜになった繊細な表情の演技で応える。役柄の扮装のまま、心ここにあらずといった様子で自分に与えられた台詞を声に出しつつ家路に着くヴァランス。憔悴しきった足取りで家に戻ってきた祖父を心配そうに見つめるセルジュ少年のアップでこの映画は終わる。しかし、少年の面差しは祖父と戯れていたときよりも心なしか大人びて見える。そのことがこの老いという過酷な現実を描くこの作品の痛切なラストに微かな救いをもたらしていると感じられる。

 ミシェル・ピコリの穏やかな表情が何ともいえず素晴らしい三度繰り返されるカフェのシーンでは、ちょっとユーモラスな場面がある。主人公がコーヒーを飲み終わると決まって入れ違いに同じ席に座る中年男性がいる。いつもその席で『フィガロ』紙を読んでくつろぐ。ところが、主人公が孫のプレゼントを買ったためにいつもより遅くカフェにやってきた日は、いつもの時間にやってきた『フィガロ』氏はほかの席に着かざるをえなくなる。憤懣やるかたない様子の『フィガロ』氏。しかも漸く主人公が席を立って、いつもの席に移ろうとすると、『ル・モンド』を手にした男性がするりとその席に座ってしまい悠然とパイプをくゆらせる。呆然とする『フィガロ』氏。保守系の『フィガロ』紙を読む男性は実直な中堅サラリーマンのようだ。一方、中道左派系の『ル・モンド』紙を読む男性はインテリ然とした様子。それぞれの購読層の類型的ともいえるカリカチュア。主人公は時流に合わなくなり、衰退著しいとされる左派系の『リベラシオン』紙を手にしている。これも主人公の現実と二重写しになっている。

 このカフェの場面も含めて、映画の前半、ガラス越しのやり取りをガラスのこちら側の音声のみを重ねって撮っているシーンがいくつかある。サイレント映画のような味わいが何とも言えない。






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