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アルベール・カミュ『ペスト』(追記)

2011-03-19 00:18:21 | 読書

 先日、改めて読み返していると記したアルベール・カミュの『ペスト』はペスト禍により外部と完全に遮断されてしまったアルジェリアの一都市の人々を描いている。それはエピグラフとして掲げられたデフォーの言葉、「ある種の監禁状態を別のある種の監禁状態によって表現する」という意図のもとにナチズムをめぐる政治的寓話として書かれているが、現在の日本が置かれている状況とも奇妙に同期している部分もある。

 今回、改めて読み直して特に印象に残ったのは、医師リウーとパヌルー神父との対比だった。パヌルーは説教の中で、オランの街がペストに襲われたことは、神の慈悲に安住し、改悛を怠ってきた人間への「当然の報い」なのだと言い、人々に反省を促す。一方、医師リウーはパヌルーの説教についての感想をもとめられて、「それがもたらす悲惨と苦痛を見たら、・・・ペストに対してあきらめることはできないはずです」と答え、「パヌルーは書斎の人間です。人の死ぬところを十分見たことがないんです。だから、真理の名において語ったりするんですよ。しかし、どんなつまらない田舎の牧師でも、ちゃんと教区の人々に接触して、臨終の人間の息の音を聞いたことのあるものなら、私と同じように考えますよ。その悲惨のすぐれたゆえんを証明しようとしたりする前に、まずその手当てをするでしょう。」と切り捨てる。

 だが、パヌルーも、オランの街を襲った災厄から人々を救うために、リウー同様、献身的な努力をする。そして、一人の、無辜の少年の、苦痛に苛まれながらの死を前にして、リウーとパヌルーの二人の思考が交錯する。「まったく、あの子だけは、少なくとも罪のない者でした。あなたもそれはご存知のはずです!」と激高するリウーを落ち着かせながら、パヌルーに「われわれは一緒に働いているんです、冒涜や祈祷を越えてわれわれを結びつける何ものかのために。それだけが重要な点です」と語る。そしてこの少年の悲惨を契機にパヌルーも明らかに変化していく。二度目の説教の中でパヌルーは「ペストのもたらした光景を解釈しようとしてはならぬ、ただそこから学びうるものを学びとろうと努めるべきである」と説き、自ら災禍を前にしてひざまずくだけではない運命論、つまりたとえ罪無き者が苛まれる現実を前にして、なおも信仰を捨てずに<能動的>運命論と呼ぶべき立場に立って疫病に立ち向かう意思を表明する。

 今回の地震(津波)に関してなされて成された余りにも「不適切」な発言とそれを擁護するいくつかの発言がパヌルーの最初の説教を想起させた。それでこの小説にしばらくの間沈潜していた。「臨終の人間の息の音を聞いた」のち、パヌルーは明らかに変化した。だが・・・。

 ともあれ、少しばかり『ペスト』より抜書きを。

 毎日の仕事のなかにこそ、確実なものがある。その余のものは、とるに足らぬつながりと衝動に左右されているのであり、そんなものに足をとどめてはいられない。肝要なことは自分の職務をよく果たすことだ。
- リウーの感慨より

 「・・・今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」
 「どういうことです、誠実さっていうのは ?」と、急に真剣な顔つきになって、ランベールはいった。
 「一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職責を果たすことだと心得ています」
- リウーと(タルーと)ランベールの対話より 

 誠実さは無縁の饒舌、過度のヒロイズムの喧伝、そういったものが少し疎ましく感じられる。


 アルベール・カミュ『ペスト』(宮崎嶺雄訳、新潮文庫、1969) 

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