死んだ父の蔵書を整理していて見つけた、『日本の名随筆』というアンソロジーの一冊に収められた司馬遼太郎の「京の味」というエッセーを読む。
エッセーの内容はというと、織田信長の御賄頭をつとめた坪内某という人物をめぐる筆者を含めた三人の関西人(うち一人は生粋の京都人)のやりとりからはじまる。
もともと三好家に仕えていたこの坪内某という人物がはじめて信長の夕餉をつくるにあたり、不味ければ殺すと言われていたにもかかわらず、あえて信長の舌に合わない薄味の京風の味付けにして出して激怒させる。次に懇願して朝餉を作って今度は信長の嗜好に合わせて濃い味付けのものを出して満足させ、あとで他の料理人仲間に種を明かしながら信長の洗練さに欠けた味覚を嘲笑したという。このようなエピソードを紹介しつつ、司馬は、この坪内某に対する三者三様の評価を書きつらねていく。
坪内の命がけの皮肉を京都人の典型として絶賛する一人目の人物は、関西の人だが京都人を外から見てきた視点の代表ということになろうか。一方、坪内の言動を京都人としての洗練に欠けると見なすのは二人目の京都人で、本物の京都人であれば、「おそれ入りましてござりまする。二度目の味がよろしゅうござりましたとは、料理人としてまたとない勉強をさせていただきこれほどうれしいことはございませぬ」と言って、自らを安全な場所に置きつつ、さらに信長を徹底的に嘲笑したであろうというのがその理由だ。この二者の評価を受けて、両者を調停する形で司馬自身の評価が述べられる。
司馬は、坪内某の言動に義仲・義経を懐柔しつつ滅亡へと追いやった後白河院との共通点を見る。ついで中世という時代の気風を、当時の文化人の代表格でもあった細川幽斎を引き合いに出して、激しく荒々しいものだったと指摘する。そうして二人目の人物がいうように坪内の「命がけの遊び」には洗練さが欠けてはいたが、一人目の人物が指摘したように、坪内某もまた京都人の一典型と見なしうると結論する。
その結論を受けて、「京都人はこと文化に関するかぎり、本音の底にはひどくはげしいものを秘めているように思える」とのべ、ある京都の料理通とのやりとりにふれる。関西の味が進出して、東京の味付けも変わりつつあるという司馬の言葉に、その料理通はおだやかに、「そら、よろしおすな、東京もそろそろ都になって百年どすさかないな」と答えたという。そして、
都ならばいつまでも濃口醤油の煮しめばかりを食っておだをあげていることはあるまい、いずれは舌の味わい具合も都らしくなるであろう。「なるほどそろそろ都らしくなってきましたか」というあいさつなのである。よく考えてみると、これほど痛烈な批判はないのだが、しかし語り手の表情はあくまでもおだやかで、微笑をたたえて玉のようなのである。このあたりに京があるらしい。
とコメントして、司馬のエッセーは締めくくられる。
なかなか興味深い話題を、晦渋さを排した文章でさらりとまとめた一種の「名文」ではあるのだけれど、何かしら分かりにくさも残る。
まず司馬は、ここで「文化」という語を二通りの意味で使っている。「京文化の代表であった後白河法皇」と書くとき、この文化はある社会の人々の行動様式や思考・価値観の規準といったものを包含する概念で用いているように見える。具体的には真綿のような外面の底にある針を指している。一方、「京都人はこと文化に関するかぎり、本音の底にはひどくはげしいものを秘めているように思える」と書くときの文化は、そのあとに京都の料理通の言葉が示すように、料理のような生活文化を含む狭義の文化として用いられているように読める。ただし、あとで触れられる食通の柔和な笑顔で放たれる痛烈な皮肉に院と共通するものを見て取ることも可能だろう。
このことを坪内の行動に即して辿りなおすと、坪内の信長に対する嘲笑は後白河法皇に代表される文化に連なるものともいえなくはないが、あえて京風の味付けにこだわって最初の膳を用意したのは後者の、まさしく己の技芸を育んできた文化への矜持と見なすべきではなかろうか。このように二種類の文化が混在して用いられ、両者が混同されることで議論が成り立っているように感じられるところが自分には分かりづらく感じられるポイントのひとつめだ。
次に司馬は、後白河院 - 坪内某 - 現代の京都の食通を一貫する京都人らしさを想定しているのだが、それぞれが生きる時代や、それぞれの身分・階層は異なっている。いくら今様を通じ、遊芸の者と交流があったとはいえ、後白河院が生きた王朝文化と、坪内某が生きた武家の文化の様式や価値観は異なる。同じ武家社会に生きていたといっても、坪内某と細川幽斎もその身分の違いから異なる文化に属していたと考えられるだろう。当然、それらの人物と現代の京都の食通との間においても、価値観や行動様式を規定するものは大いに異なっていただろう。都の王朝文化の価値観や行動様式が長い時間をかけて、京都のほかの階層に浸透していった可能性も否定できないにせよ、時代や階層による文化の違いを司馬の議論はきれいさっぱり無視することで成立していると感じる。
だが、司馬は義仲・義経という田舎者と後白河院という京都人を対立させて、院の二面性を京都人の一典型として捉えるのだけれど、考えてみれば、当時、院の近くにいた貴族たちは、「黒白を弁ぜず」だの、「和漢の間比類なき暗主也」だのと評し、逆に院の二面性を正当に評していたのが、「日本一之大天狗」と呼んだ頼朝という東国武士の頭領であった。司馬がこうした資料の存在を知らなかったとは考えずらいのだが、ことを考えると、司馬が指摘する後白河院の京都人らしい二面性が、当時の「京都人」をもってしても理解しがたい、高度な政治的感覚に関わる院の個人的資質に過ぎなかったかとも思われる。
司馬が坪内某の行動を伝えることができるのは、彼がそれが信長の耳に入る危険があったにも関わらず、自身の意図を周囲に語ったということを意味する。このエピソードはたしか『信長公記』でも読んだことがあったから、それなりに人口に膾炙した話だったのだろう。とすれば、坪内某の行動は己の料理人としての技に対する矜持の現れであったのかも知れない。いうまでもなく坪内にとって信長に仕えるということは、彼がそれまで培ってきた料理人としての技やセンスを捨てることでもある。そこで最初から信長の味覚に合わせることもできたところを、あえて最初の膳は己の流儀を押し通した。そして節を曲げてまで信長に仕えることになったことを周囲の料理人たちにあえて誇示したとも考えられる。そうした気骨は別に京都人に限るものではあるまい。己の技芸に自信を持つ者ならば、当然持ちうる心性だろう。坪内某のエピソードは、あえて京都人なるものの心性と解さずとも、そのように解釈することもできるのでなかろうか。
田辺 聖子編『日本の名随筆 12 味』 (作品社、1983.12)
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