Mey yeux sont pleins de nuits...

読書、映像・音楽の鑑賞の記録など

エクサンプロヴァンスの『椿姫』(ペーター・ムスバッハ演出)

2011-01-23 22:08:44 | オペラ
 前奏曲が奏でられる間、雨が降り続くなか足元のおぼつかぬ白いドレスの女が現れる。そして前奏曲が終わるともに女は路上に倒れ伏す。ムスバッハの演出は『椿姫』を路上に行き倒れたヴィオレッタ・ヴァレリーの回想として描き出す。したがって彼女はほぼ全編にわたって舞台上にいることになる。また舞台手前の紗幕には雨粒やワイパーが映し出される。観客はこの行き倒れた女を車の中から見ているという設定ということになるだろう。 . . . Read more

『トロヴァトーレ』(ウィーン国立歌劇場、1978)

2011-01-09 23:25:21 | オペラ
 ドラマティックな二重唱や三重唱、勇壮な合唱に加え、主要な五人の配役にも聴きごたえのあるアリアが用意された『トロヴァトーレ』は、したがってそれが見事な上演となるにはそれぞれの配役にふさわしい声のキャラクターをもった五人の歌手を揃える必要がある。そして、1978年、ウィーン国立歌劇場ではそのような配役による『トロヴァトーレ』が実現した。 . . . Read more

アドルノとオペラ 2

2009-12-26 23:44:55 | オペラ
 先に「オペラとLPレコード」という文章の中でアドルノが聴き手として想定していたのは、アドルノが『音楽社会学序説』(1962)の中で「エキスパート」と呼んだ特定の聴衆ではないかと書いた。そこでアドルノの聴衆の型の7類型のうち、最後の「無関心な者、非音楽的な者、音楽嫌いな者」を除く6類型を簡単に整理してみる。 . . . Read more

アドルノとオペラ 1

2009-12-06 00:06:00 | オペラ
 レコードやラジオを聴取の退化をもたらすメディアとして批判したアドルノだが、晩年の1969年に書かれた「オペラとLPレコード」では、「長時間にわたる音楽を、その流れを中断することなく、その流れが有している意味の統一性を損なうことなくしっかり固定し記録する」技術によって、LPレコードについては一転して、「自分の都合のよい時間に鑑賞し、研究しようとする聴き手が、あらゆる音楽作品に限りなく真正な姿で接することも可能となろう。」と書き、「革命と呼んでも言い過ぎではない」とまで賞讃している。 . . . Read more

『蝶々夫人』(アレーナ・ディ・ヴェローナ、2004) あるいは 帝国主義的ノスタルジー

2009-10-28 23:57:04 | オペラ
 デアゴスティーニの『DVDオペラ・コレクション』の第4弾は 帝政ローマ時代の闘技場の巨大な空間にしつらえられた大掛かりなセットが何よりも目を引くアレーナ・ディ・ヴェローナでの、フランコ・ゼッフィレッリ演出の『蝶々夫人』だった。不安材料はゼッフィレッリの「本物」志向だが、台本を大きく逸脱しないことを旨とするゼッフィレッリ演出が、たとえ無自覚であるにせよ(いや、むしろ無自覚であるがゆえに)、このオペラが内包する問題を浮き彫りにすると考えられるし、衣装デザインに、黒澤明の『乱』や大島渚の『御法度』の様式化された衣装や、チャン・イーモウやピーター・グリーナウェイ(とくに『枕草子』)との共同作業で「西洋から見た東洋/日本のイメージ」そのものを形象化してみせたワダ・エミを起用したことから、リアリズムより、様式美の追求に向かっているのではと期待される。それで購入した。 . . . Read more

モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』(マルティン・クシェイ演出) 

2007-10-17 00:53:21 | オペラ
 19世紀ロマン主義に大きな影響を与えたドン・ジョヴァンニ的人物像はその当時においてさえ文学者の想像力の中にしか活躍の場はなかった。そもそもロマン主義とは反近代主義の一形態なのだから。2006年のザルツブルクで上演されたマルティン・クシェイ演出の『ドン・ジョヴァンニ』は舞台を現代としている。性的な記号が至る所にあふれ、その一方でHIVの脅威によって不特定多数との性交渉が死につながりうるような時代にあって、カタログの歌に歌われるようなドン・ジョヴァンニ的人物像のリアリティはますます希薄なものとなる。ロマンティックな絶対の探求者などありえない、マルティン・クシェイの解釈にはそうしたシニスムが根底にある。  序曲が演奏される中、ストッキングのみを身に着けた女性たちが腹這いになって並んでいる広告写真らしきものをあしらった幕の奥にサングラスで表情を隠し、コートを着た女たちが次々と消えていく。この女性たちはこのあと場面に合わせて白や黒の下着姿で幾度もあらわれるだろう。カタログの歌に合わせて白く巨大な回転舞台上でさまざまなメディアにあふれかえるイメージを引用しつつ、ディスプレイされる。  彼女たちは一様に無表情で、しかもライティングの効果と下半身にまとったストッキングのせいで肌に生気がなく感じられる。彼女たちは性的な記号が氾濫する現代を象徴するイメージの次元に立ち現れた性的記号としての女たちといえるだろう。そしてこの舞台におけるドン・ジョヴァンニもまたそれらの記号の群れと等値である。 . . . Read more

モーツァルト『魔笛』(ピエール・オーディ演出) 

2007-10-04 00:04:29 | オペラ
 昨年のザルツブルク音楽祭における、モーツァルト・イヤーを記念しての上演。ピエール・オーディの演出に田中泯振付の舞踏が彩りを添える。リッカルド・ムーティ指揮の昨今主流のピリオド・アプローチとは無縁の、ウィーン・フィルの美しい響きを活かして、ふくよかさをも醸し出しながらよく歌わせる演奏で、少し懐かしい感じがする。一方、オーディの演出はここ数十年ほどの『魔笛』研究の成果を踏まえた演出と感じた。 . . . Read more

ロバート・カーセン演出『椿姫』 3

2007-03-06 22:31:21 | オペラ
 当時と今とでは、風俗や慣習は大きく変わってしまったが、市民道徳の偽善性と貨幣経済そのものは変わっていない。それらはもともとこのオペラの台本にも内包されており、ヴェルディが「私たちの時代の主題」と見なしていたものだろう。カーセンの演出はそれを具体的に眼に見えるものとしたに過ぎない。デュマ・フィスが自作を戯曲化したときも、風俗を乱すとして長く上演されず、ヴェルディが強く願いながら劇場側や台本作者が忌避したため、果たせなかったを本来の意図を現代において再現するという意味では十分に説得力のあるものと感じた。 . . . Read more

ロバート・カーセン演出『椿姫』 2

2007-03-05 22:38:00 | オペラ
 第二幕、第一場。前奏曲の間、木立の中のヴィオレッタとアルフレードの頭上から木の葉のように紙幣が降ってくる。  降り積もる紙幣は、二人が「贅沢な」(ジェルモン氏)生活を維持するために費やした費用のメタファーだろう。遠目に見れば美しい愛の巣も、現実にはさまざまな出費を要する。セットは第一幕の緑の木立の壁紙の転用だが、黄色とオレンジのライトで紅葉と見せている。やがてすべての木の葉(紙幣)が散れば、木々は丸裸となる。 . . . Read more

ロバート・カーセン演出『椿姫』 1

2007-03-04 21:43:48 | オペラ
 ジュゼッペ・ヴェルディ作曲 歌劇『椿姫』   出演:パトリツィア・チョーフィ、ロベルト・サッカ、       ディミトリ・フヴォロストフスキー 他   指揮:ロリン・マゼール   演奏:フェニーチェ歌劇場管弦楽団、同合唱団   演出:ロバート・カーセン    2004年11月 ヴェネツィア、フェニーチェ歌劇場  2004年に再建されたヴェネツィア・フェニーチェ座の杮落とし公演のプロダクショ . . . Read more

カイヤ・サーリアホ『彼方からの愛(L’amour de loin) 』

2007-03-03 12:28:22 | オペラ
舞台は12世紀のヨーロッパ。遠く隔てられた国のアキテーヌの王子とトリポリの高貴な女性の不可能な愛の物語。2000年8月にザルツブルク音楽祭で初演された舞台がフィンランドで再演された折に収録されたもの。なお演出のピーター・セラーズは『ピンク・パンサー』の人ではなく、『ゴダールのリア王』の方の人。 . . . Read more