Mey yeux sont pleins de nuits...

読書、映像・音楽の鑑賞の記録など

二宮正之『私の中のシャルトル』

2007-06-25 22:38:02 | 読書
 解説で小宮正弘氏が本書に通底する主要なテーマを「ことばを生きる」ことだと述べているが、そのことにまったく異存はない。そしてそのテーマは本書の中で大きくページが割かれている森有正についても言えるだろう。 . . . Read more

池澤夏樹『真昼のプリニウス』

2007-06-24 22:43:20 | 読書
 『真昼のプリニウス』は世界とどのように関わるかということへの迷いを抱えた火山学者・頼子を主人公としている。魅力的な独身女性として描かれる頼子の周囲には三人の男性、彼女がかつて一緒に暮らそうと思いながら今は別れて暮らしているカメラマンの壮伍、弟の友人で広告代理店に勤める門田、そして易者としての顔をもつ製薬会社社長の神崎が配され、そしてもう一人、天明年間の浅間山大噴火の記録を書き残したハツという女 . . . Read more

多木浩二『「もの」の詩学』 4

2007-06-23 00:03:47 | 読書
 第四章ではナチズムの都市と建築が考察される。1920年代から30年代は「もの」の様態の特徴としては次の三点が挙げられる。第一に近代建築やデザインが成立し、世俗化した都市の理想的な秩序の計画になる。第二に「もの」が表面的に近代生活を表しはじめ、アール・デコが登場する。アール・デコは資本主義の商業的顕示、性的欲望、文化的スノビズムといった都市の生活の非合理な欲望の網目を構成しつつ、常にうつりかわる生活の場面と結びついた「もの」にあらわれた大衆的生活の祝祭的表現だった。第三に大都市に対する嫌悪という伝統的民族主義と政治的象徴としての都市の重要性とのあいだに分裂しつつ、その不統一が微妙な均衡を保っていたナチズムと結びついた「もの」の様態である。これら三つの現象は資本主義社会の大都市に生じた混乱と抑圧に関連している。 . . . Read more

多木浩二『「もの」の詩学』 3

2007-06-22 22:26:24 | 読書
 第三章はルートヴィヒ2世を中心にキッチュについて取り上げている。19世紀末は「まがいもの」という「もの」が登場し、文化にとって否定しがたい意味をもつようになってきた時代であり、ルートヴィヒ2世の建築は建築史の枠の中で考えるよりも「まがいもの」の文化史という枠組の中で考えて興味深いものとなる。 . . . Read more

多木浩二『「もの」の詩学』 1

2007-06-19 23:28:23 | 読書
 ある時代の物質文化(「もの」の文化)には、その時代の人間の思考や感情や欲望が刻み込まれており、そうした「もの」と人間の関係を読み解くことで、人間の歴史や文化、あるいは人間そのものを捉えようとする「もの」のアルケオロジーの試み。  本書を読むことで同著者の『生きられた家』や『都市の政治学』における同時代を中心とした考察に歴史的パースペクティヴがもたらされる。一例を挙げれば、本書の第二章は『都市の政治学』における現代都市のイヴェントに関する考察の前史として読める。  全体は四章から成っていて、 第一章は、ある文化の家具の歴史はその文化の身体の歴史を素描するという観点のもとに、ルイ14世の宮廷文化を中心として17世紀から18世紀の椅子を中心とした家具の文化を論じている。 . . . Read more

フィリップ・ラクー・ラバルト『経験としての詩』

2007-06-19 00:01:34 | 読書
 ドイツ領だったチェルノヴィッツに生まれたユダヤ系詩人パウル・ツェランはドイツの「古代ギリシア的」なユートピアによる残虐行為の犠牲者の遺族であり、生還者の一人であり、70年にセーヌ川に身を投げてその生涯を自ら閉じている。「死はドイツより来る支配者だ」と書いたツェランにとって、彼の国語たるドイツ語は常に他者の言語であった。  ツェランが「いったい私たちとは誰なのか」という真理に関するドイツにおける証言者であり、ヘルダーリン同様、「何のための詩人か」という問いを問い続けた詩人であると考えるフィリップ・ラクー・ラバルトは、彼の、土地の名を題名として持ちそれぞれヘルダーリンとハイデガーの名と結びついている二つの詩、「テュービンゲン、一月」と「トートナウベルク」の読解を通じて「ポエジーと思考」とのあいだの関係に関する問いを考察する。 . . . Read more

堀江敏幸『おぱらばん』

2007-06-14 22:51:07 | 読書
 主にパリを舞台とした小品集。(日本を舞台とした作品も収められている。)それらの作品のほとんどは「書物の中身と実生活の敷居がとつぜん消え失せて相互に浸透し、紙の上で生起した出来事と平板な日常がすっと入れ替わる」(「クウェートの夕暮れ」)という仕掛け(それは書物に限らず、絵画や映像、写真である場合もある)が施されている。 . . . Read more

青山真治『シェイディー・グローヴ』

2007-06-12 23:13:45 | 映画
 " Boy meets girl. " 一組の男女がこの世界で一度出会い、大きく迂回して次にどこにもない場所で出会う。ただし、ラヴ・ストーリーではない。むしろラヴ・ストーリーがはじまるまでを描いている。二つの世界は粒子が粗く紗がかかったようなヴィデオの映像とフレームの端を丸く切り取ったしっとりとして瑞々しい肌合いのフィルムの映像で描き分けられる。そしてこのフィルムの中の世界(*1)が今は宅地造成で失われた森、つまり題名ともなっている”Shady Grove”であり、この森を写した写真が二人を結びつける夢の通い路となるが、この夢の回路は最初から開かれているわけではない。  ところで藤尾、甲野、小野、宗近という登場人物といえば『虞美人草』をつい想起する。ただしこの作品は漱石作品の映画化というわけではない。確かに藤尾は独善的で小野を婿養子にと考えたりもするが、自ら毒杯をあおって死ぬことはないし、甲野は浮世離れした青年だが哲学的な思惟をめぐらし藤尾の批判者となる、というわけではない。しかも甲野は藤尾を死んだ双子の妹に重ね合わせようとするが二人は兄妹ではないし、小野と宗近の間に接点はない。何より映画はエゴイズムに押し流される人間の悲劇を主題としているわけでもない。エゴイズムへの批判は小野を通じて戯画的な挿話として描かれるだけで、この映画はこういってよければ、むしろ独我論的なテーマを扱っている。 . . . Read more

フィリップ・ラクー・ラバルト『虚構の音楽』 4

2007-06-04 23:34:52 | 読書
 第四章は「ヴァーグナー試論」と「聖なる断片―シェーンベルクの『モーゼとアロン』について」を中心にアドルノの言説が取り上げられる。アドルノの議論はベンヤミンの芸術論との関連が認められ、一方、ラクー・ラバルト自身の「モーゼとアロン」の解釈にはストローヴ+ユイレの同名映画の影響が認められる。 . . . Read more

テンシュテットのヴァーグナー

2007-06-03 22:52:26 | 音楽
 先日、聴いたカラヤンの指揮による演奏とはオーケストラの音色はまったく別のオーケストラかと思ってしまうほど異なる。もちろん金管楽器は力強く、弦楽器群も繊細な美しさを感じさせる。ただし、それはカラヤンが振ったときのものよりもずっと鄙びた味わいがあって、それがもっとも顕著なのは木管楽器の響きだろうか。鄙びたという言葉に語弊があるなら質朴と言いなおしてもいいだろう。またあるいは神聖なものの表象ではなく、それに信仰を捧げる人間の内面の表象としての演奏といえばよいのだろうか。 . . . Read more