人は言語によってのみ世界内に存在し、言語の中に深く住まうがゆえに、かえって自らが発する言表を対象化して捉えることが困難になる。だから日本語を母語とする者にとって日本語はあまりに自明のものとして映る。ところが多言語を母語とするものからすれば、それは尽きせぬ問いを誘発する。
なぜ「行ってきます」という言表には「行く」と「来る」の二つの動詞が含まれるのか。「ちょっと待った」という言表のように、どうしてまだ実現していないことについても「た」がつくのか。フランス語を母語とする著者のひとりフランス・ドルヌは日本語という森の中でこうしたいくつもの不思議を見つけては目印をつけていく。観察の対象は日常的な日本語の会話文であり、それらを品の良いユーモアを交えながら、肩の凝らないレポートとしてまとめている。
著者は発話操作理論の言語学という視点から、人間は何らかの発話をするたびに自らを発話者として規定し、発話する主体である自分と外界との間に関係の網を構築する存在であるとの認識のもと、この関係の網がどういった操作によって形成されるのかを日本語(とフランス語との比較)を通じて探っていく。そして著者の探索につきあいながら、自分が日本語を通じてどのように世界と関わりあっているのかを知ることになる。
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したがって本書の目的はあるべき日本語の姿を見定めたり、その文法体系を確立したりすることにはない。また著者はヨーロッパ言語を規範として日本語を特殊性の枠に押し込めるようなこともしない。ただ人間の言語能力の中で一般化可能なものが異なる回路を通じて現れているに過ぎないのではないかと考えている。
以下は著者が辿る日本語の森の散策経路。
まず「奥のほうへ進んでください」や「玄関先で失礼します」といった言表に見られる空間表象の仕方にはじまり、そこから空間表象においても重要な役割を果たす格助詞と動詞の述定関係が「表参道で降りる」「先生に本をもらった」という言表を通じて観察され、次に「行ってきます」「助けて!」という言表とともに時間に関する表現とともに、複数の発話主体をもつ発話状況が分析される。
述定関係と発話状況の分析は「お湯を沸かして」「捻挫は治った」という言表を通じての自動詞・他動詞やアスペクトの分析につながり、また一方で「よくまあいらっしゃいました」「よく言うよ」といった質と量に関する表現の観察からモダリティの問題が取り出される。それが「ちょっと待った!」「しまった!」という言表における時間表現のシステムとともにより深く分析されたところで、最後に前述定関係を含む「いたっ!」という言表や終助詞を用いた「すごいよね」という言表の観察を通じて主体と発話の関係を探り、感覚や感情といった「原初的な領域」に分け入り、社会的な要素も含んだ日本語の発話空間の特質に迫り、話を締めくくる表現を取り上げた最終章で総括される。
「おあとがよろしいようで」とは寄席で、噺のおわりを告げるとともに、次の演者に引き継ぐ言表だった。この言葉とともに日本語の森の探索のつづきは読者に委ねられる。著者が最後に取り上げる言表は次のようなフランス語。
Toute fin n'est jamais qu'un commencement.
(どんな終わりもなにかのはじまりにすぎない。)
フランス・ドルヌ+小林康夫『日本語の森を歩いて』(講談社現代新書・2005)
何だか面映いものもあるのですが。