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室井尚『哲学問題としてのテクノロジー』

2007-05-02 23:47:30 | 読書
 
 著者によれば、テクノロジーとは知識によって構築された媒介のシステムであり、人間の内部の問題としての知と人間の外部の環境としてのテクノロジーといった二項関係で捉えることは意味をなさない。むしろテクノロジーと知の組織化の形態とは不可分の関係にあり、そのことを確かめるためにテクノロジーの歴史を三つに区分して概観する。

 最初の段階は身体機能の拡張としての道具の時代であり、ここではものを製作する集団や個人が技術の主体となる。この時代はまだ技術は「教える/学ぶ」ことができるものでもあった。次に産業革命以降、人間の身体機能の外部化としての機械の時代が到来し、機械を所有する者と機械に従属する者とに階級分化される。機械の時代を支える知は物理、数学などの科学的知識であり、こうした専門的知識が接合されて人間の身体を超えた知識システムが創出されるが、人は加速度的に増大する知識の一部分にしか関与できない。そして「真理の探究」「人類の進歩」といった理念と物語が崩壊した今、その全体像は誰にも捉えられない。

 そして人間の認知能力の拡張またはシミュレーションとしての装置の時代となる。それは情報科学、生命科学といった新しい科学によって支えられている。装置はハードウェアではなく、ソフトウェア(プログラム)が機能を決定する。したがって人間はプログラムの作動に関与はするが、技術の主体はあくまでもプログラムにある。しかも装置は人間の一部であり、人間もまた装置の一部として機能する。このとき人間が世界との間の記号システムを介した関係も変化し、知の情報化が進行する。すなわち知はもはや役に立つか否かが存在の根拠となる。

 本書の狙いは、こうした人工的なシステムが主体を呑み込み、人間を支配する自走システムと化した現代における主体とコミュニケーションの編成とのあり方を考察し、新たな知の枠組を構想することにある。その考察は当然のことながら、コミュニケーション・テクノロジーとメディア編成の変化を踏まえてなされる。そして、この問いは非常に困難な問いでもある。

 たとえば、人間を隷属させるシステムと化した技術に対して内的なもの(自由な精神や主体の概念)を擁護するハイデガーの技術批判と、一見それとは正反対の立場と思われているが、知識や科学があまりに巨大なものとなり誰もその全体像を理解できなくなった状況を変え、もう一度人間が知識の主体となることを目指したウィーナーのサイバネティクスという二つのシステム批判が結局のところの別のシステム(ハイデガーの場合はより古いシステムへの回帰であり、ウィーナーの場合は新しいシステムの提案となるが)への移行を目指すものにしかなっていない、と著者は批判する。

 もともと自由なり、生の意味づけなりはもともと非本来的な外部のシステム(イメージや文字といった)によって行われていた。したがってハイデガーやウィーナーのように外部の非本来的なシステムの支配への批判は的外れなものとしかならない。さらに新しい技術システムが単純に社会の仕組みやコミュニケーションのあり方を変えていくわけではなく、常に古いシステムと新しいシステムの複雑な関係が生じることも見落としてはならないと著者は指摘する。

 こうした指摘を踏まえて著者は先の主体とコミュニケーションの編成のあり方の問題を考察する。

 最初の問いは人間が装置-システム-プログラムの連関に組み込まれ、その一部としてプログラムを適切に作動させるという補助的な役割としてしか機能するしかない状況の中で、新しい情報を創出しうる主体となる可能性を問うている。著者の考えによればそのような主体とは、プログラムを熟知し、その可能性を知り、それに隷属することなく、むしろ裏切りながら、他の装置や他の操作者の組み合わせからは生み出しえない写真を生み出す写真家のような存在、つまりサイボーグ的な主体ではないかということになる。

 次にコミュニケーションの再編の問題だが、ネット型コミュニケーションを情報生産の場とする工夫は存在するのか、存在するとすれば、それはどのようなものか、そして言説と対話の構造にもう一度「意味」を取り戻すことは可能かという二つの問いの形をとる。この二つの問いに対する明確な解答は保留されているが、著者はこれらの問いに関連して装置の時代=高度情報化社会と相補的な関係にある現代の三つの技術が持つ自己編集性とそれが人間の意識や身体にもたらしつつある変容の可能性へと注意を促す。

 三つのテクノロジーとは、コンピュータ・テクノロジー、バイオ・テクノロジー、そしてナノ・テクノロジーであり、これらのテクノロジーはそれぞれ意識や精神、生命、そして物質を情報として扱い、その編集可能性を提起している点に従来の技術にない特徴が見られる。むろん、これらのテクノロジーは今のところ人間の自由や孤独といった問題の根本的な解決をもたらすものとなっていないと批判するが、だからといって一方的に否定することもない。なぜならこれらの新しい技術も、従来のあらゆる技術同様、反自然的なものと見なされていながら、実際には人間の内なる声に導かれて生み出されたものだからだ。そしていたずらに否定するよりも、人間の知覚や意識のプロセッシング(形成)を行うこれらのテクノロジーを通じて、新しい知覚回路や生命の根源に触れうる可能性に期待する。これは楽観主義だろうか?

 技術をめぐる問いは、古くて新しい問いであり、人間の業のようなものでもある。本書の冒頭で著者はギリシア神話の中のダイダロスの逸話を引用している。名工ダイダロスの作り出した迷宮は自らを閉じ込める牢獄となり、自由を希求して作られた翼は息子イカロスを死に至らしめた。しかもダイダロスは弟子ペルディクスの師をも凌ぐ才能に嫉妬し、死に至らしめようとし、ペルディクスは鶉に変じてひたすら師の目を逃れるため茂みを徘徊する。それは技術そのものの寓意であるとともに、技術者の楽天主義と反技術主義者の悲観主義の寓意だという。著者は、すでに見てきたようにそのいずれにも与しようとはしない。ただ、不可逆的な技術の進展を、所与の条件として受けとめる。その上でどのようにテクノロジーに向き合うかという課題を掲げる。それゆえ、ここでの未来への展望はどこかしら諦念に彩られている。

 そもそも人間が生み出した文化とは、もともと生命内部の情報処理のオーバーフローに由来するもので、外部の処理装置として生命の余剰を含み込みながら拡張していくものだと著者は考える。それはまた、記号システムによってしか世界を触知しえない人間が世界を体感するための第二の皮膚のようなものであるとも言っている。それゆえ新たなテクノロジーの登場は新たな外部空間への扉を開く可能性がある。それゆえ著者は、テクノロジーが自走的なシステムとして個々の生命を圧迫するものであってはならないし、自走システムと化した知識を再び人間のものとするためのツールがますますシステムを強大にし、古いシステムの支配を強化しつつ、人間を隷属させてはならないという条件を付けるが、これらを一概に否定しようとはしないのだった。(ただし、こうした条件を付与する余地があると考えられるのは、あらゆる技術の改良と進展の目的が人間の自由などの価値に対する内的欲求にのみ基づくものであれば、の話だが、そこまで楽観的になれるかどうかは難しい。)

 その上で第二の問いに対しては分散的かつ非中心的なメディアによるシステムの無効化というヴィジョンを提示する。ただし、この展望についても、一方で分散したコミュニケーションの場が相互不干渉的な閉鎖的回路に封じ込められる危険性があることも認めている。いずれにせよ、著者が最初に断っているように、人間の内的欲求という自然に従って進展するがゆえに不可逆な流れとなるテクノロジーをめぐる問いは、対象となるものの帰趨がいまだ定かならず、それに対峙する知の枠組も編成されていない。それゆえ著者自身、明確な解答を出しえていないと感じた。

 それでも本書にはいくつかの興味深い着想が含まれている。たとえば、ここでの著者の考察は、この新たな知の枠組の編成に向けてのものでもあった。この知の枠組について、「文化の気象学」という観点を提案している。文化と気象現象とがその複合性や複雑性、そして境界をもたないという点において共通していることに着目したアイディアなのだが、こうした視点がどのような形で有効性を発揮し、今後どのような展開を示すのか、本書の中で詳述されているわけではない。けれども著者の仕事をフォローしていきたいと思わせるものはある。


 室井尚『哲学問題としてのテクノロジー』 (講談社選書メチエ,2004.4)


 2007-04-29 & 2007-05-01 の記事を修正・統合




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