台風6号沖縄本島接近中。 暴風警報が出ていますが、風はそんなに強くありません。 でも急な突風や通過後の吹き返しに注意。 もう少し様子を見ましょう。
私の住んでいる南風原町には「黄金森公園」という少し小高い丘陵地があり、町の文化センターや運動公園があります。 その文化センター正面にこんな看板があります。
沖縄戦中の陸軍病院の壕跡です。 日本軍がまだ首里城防空壕を本部として戦闘していた当時、南風原町のこの周辺には陸軍病院が置かれていました。 初めは南風原国民学校に造られたそうですが、空襲が激しくなると壕を掘ってそこに移ったそうです。 南風原陸軍病院壕は20数カ所に分かれてあったそうです。
標識の矢印にそって行きます。
階段の道を上がって右側に祈念碑があります。
じつはこの祈念碑の近くに陸軍病院本部壕があったそうですが、落盤により埋まっています。 近くの案内板を見ると、この黄金森一帯に壕が掘られて、本部,第一外科,第二外科(元内科),第三外科(元伝染病科)に分かれていたそうです。 「元・・・・」というと、戦闘中は負傷者のみを扱っていたということがわかります。
そして、この病院に看護助手として集められた沖縄高等女学校,女子師範学校の生徒達が後のひめゆり学徒隊になりました。
さらに上ります。
丘陵地の上につきました。 この後は下り坂になります。
この道は「飯上げの道」と呼ばれています。 釜やバケツに入れた飯を壕に運ぶための道です。 空襲の合間を見て、丘陵地を登り降りして食料を運んだ道です。 病院ですから軍医・衛生兵を除き、元気な兵隊はいません。 飯運びはひめゆり学徒隊の仕事だったと思います。 雨の日は抜かる道。 でも飯を運ばなければ、動けない兵隊達は飢えてしまう。 米軍だって壕の存在はわかっていたはず。 米兵がまだ来なくても米戦闘機の機銃掃射はあります。
その場所にはこんな石碑が。 「仏ぬ前(ほとけのまえ)」 飯上げ途中になくなった人を慰める碑でしょうか?
来る時は階段がありましたが、実際の道は地山がむき出し。 泥岩の地肌。 雨が少しでも降れば滑りやすい道。 でも転んだら飯を入れた釜を落としてしまう。 空襲におびえ、飯を落とさぬよう足下に注意して丘陵地を毎日登り降りする。 そして壕に戻ったら負傷兵の手当て・看護が待っている
ようやく山道を降りて、壕の近くにたどり着けました。
ここが南風原陸軍病院壕第20号です。 南風原町は病院壕跡を「戦跡」として残す運動をしています。 それは戦争体験者の体験談を伝えるには時間的限界がどうしてもあるからです。 多くの病院壕は落盤などで崩壊していますが、20号を含め数カ所の修繕活動をしています。 20号は公開していますが、予約や人数規制があり、この日は未公開日で中に入れませんでした。
案内板では、この壕は長さ約70m,幅・高さ約1.8mで、病院関係者のひかえ壕だったこと。 中の支柱は一部焼けこげている(火炎放射器の攻撃にあったのか?)など書かれてました。
今度機会あって、中に入れたらその内容を書き込みたいと思います。
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