テイカカズラが満開だった。
後白河法皇の第三皇女である式子内親王は、賀茂の斎院となり、
その後病で斎院を退いてからも独身で五十歳前後で病死したとか。
式子内親王を慕っていた藤原定家は、葛となって内親王の墓にまつわりついた。
そして内親王の霊は、旅の僧に邪淫の妄執で成仏できないその苦しみを訴える…
そんな「定家」という謡曲があり、名前はこれに由来すると言われる。
このテイカカズラもガンガンにからみついていた(笑)
式子内親王は後白河天皇の第三皇女で、幼年から十九歳頃まで、
賀茂の神に仕える斎王に坐り、嘉応元年(1169)病によって退いた。
その後、兄の高倉宮以仁王が平家討伐の先鞭をつけて敗死し、
つづいて源平争乱の世となった。
内親王はひっそりと歌作に心をやって暮らしたが、建久9年(1198)に
橘兼仲・僧観心などの陰謀に加わった疑を受け、京外追放の代りに出家させられ、
建仁元年(1201)五十一歳頃に薨じた。
正確な墓所は知られず、この塚を古くからそれと伝えてきた。
(川勝政太郎著 京都古寺巡礼より)
今出川通の千本東入、般舟院陵
バス通りに面しているのに、陵内は静寂そのもの、
古くから「式子内親王塚」と伝わる小さな五輪石塔が
石仏に隠れるようにひっそりとあったなぁ…