西京極 紫の館

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戦国武将の御宅拝見29 - 三村元親 / 備中松山城 -

2014年06月16日 22時29分01秒 | お城探訪
土曜は千葉遠征でサンガの惨殺を見せつけられ、
日曜は日本代表の不甲斐ない戦いで追い討ちをかけられ、
最低最悪な週末から一夜明けた月曜日。
気分を変えないとやりきれません。

そうだお城に行こう!

実は会社事情で本日は公休日。
せっかくの機会なので気晴らしにドライブがてら備中松山城見学に来ました。

この日は運良く梅雨の晴れ間で朝から良い天気。

朝7時半に自宅を車で出発、山陽道→岡山自動車道、約3時間半程度で賀陽IC到着。
ここからお城まで約10km程度下道を走らないといけないのですが、
この賀陽ICかなり標高の高い場所にある様で、高梁川流域にある高梁市街が遥か下に見えます。
 途中に見える高梁市街
強烈な急カーブの連続を一気に下ります。

高梁市内に入るとナビの案内で高梁川東側に位置する美観地区の細い路地をグネグネ進みつつ
JR伯備線の踏切を越え、お城のある臥牛山を目指しひたすら登っていきます。
 標高480mの臥牛山
土日祝日はふもとの城見橋公園から出るシャトルバスに乗らないといけないが、
今日は平日なので一番お城に近い“ふいご峠”の駐車場まで車を乗り入れる事が出来る。

このふいご峠の駐車場への道がこれまた狭い。
車一台通るのがやっとの幅しかなく、さらに曲がりくねって視界も悪い。
なので警備員が上と下にいて、片側の車を止め、交互通行させています。
 ふもと側で待たされる
 交互通行するしかない狭い駐車場への道
この道行の困難さが山城への期待をいやが上にも高めてくれる(嗚呼自虐的)。
この難路を登り切った所がふいご峠駐車場。
 ふいご峠駐車場
この駐車場、十数台しか駐車スペースがありません。
ここへ到着したのが午前11時頃ですが、意外にも車がいっぱい停まってました。
2台分くらいしか空きスペースがありません。結構見学者多そうです。

登城の道は駐車場の奥。なんと完全なる登山道です。

写真奥右手の山道(判るかな~?)が登城道なのですが、かなり急です。
看板に「夜間の登城はご遠慮ください」とあるが、本当に夜はムリ。昼間でも転げ落ちそう。
しっかりトラッキングシューズ履いてくる事をお薦めします。
 登城道 天守まで約700mあります
何組か下ってくる高齢のご夫婦とすれ違いましたが、みなさんなかなかお達者です。
まぁ登る側の方がしんどいとは思いますが、息が上がりました。ハァハァ…キツい。

途中、中太鼓櫓跡の石垣があります。
音声ガイドつきの説明看板があるので、解説聞きつつ一旦休憩。
 中太鼓櫓跡の石垣

さらにハヒハヒ云いながら登ると大手門の石垣が見えてきます。
 
この石垣、大迫力です。
こんな山の上にこんな立派な石垣を積み上げるなんて…感動します。

でも、まだ天守は見えません。
見えないからこそワクワクします。
この焦らされ方が城マニアの心を刺激します(笑)

大手門を越えると三の丸跡。
ここでようやく階段と云うか、道が整備されて歩きやすくなります。
ここからは銃眼がくりぬかれた土塀が続きます。
 重文・三の平櫓東土塀
この土塀、復元したものではなく当時のものが現存する土塀で重要文化財。
 三の丸跡
この備中松山城は、麓から順に“一の平櫓”から数字の順で“八の平櫓”まである様です。
復元された五の平櫓と六の平櫓以外の櫓は石碑だけですが、
もしすべて復元されたらその威容いかばかりか…

そしてお待ちかねの天守登場です。
 二の丸跡からチラ見せ
この記事の冒頭の写真が二の丸跡の広場から見た本丸です。

平成9年に復元された五の平櫓と六の平櫓に挟まれた南御門前で入城券(300円)を購入。
パンフをもらって南御門をくぐる。
 南御門からみた天守
 左:五の平櫓 中央:南御門 右:六の平櫓
六の平櫓の中では、お城の歴史や修復の記録映像が観られます。
さらにその脇には無料の給水ポイントが!
 冷えたお茶のサービス!
なぜ“備中”なのに“宇治茶”なのかは…謎(苦笑)
それはさておき、がっつり登山してきた身には冷えたお茶は沁みます!

天守に入る前に一回りします。
まず本丸南側の天守正面です。
 天守南側(正面)
大きくは無いが、黒塗りの板塀と白漆喰のコントラストが美しい二層二階建ての天守。
この方向だけにある大きな唐破風が特徴的。
岩盤の上に石垣を積み、その上に天守が建っている。
現存十二天守の内、山城と云えるのはここだけ。
 天守東側
 復元された天守東側土塀
 天守北側 一階部分が大きくせり出しているのが特徴

天守の北側・裏手にあるのがこれまた重要文化財の二重櫓。
 重文・二重櫓
二重櫓の脇には、八の平櫓の跡があり、眼下には高梁川を見る事が出来ます。
 八の平櫓跡 遥か下に高梁川
天守の西側は急斜面で回り込めません。一旦正面側に戻ります。

ここ臥牛山には野性の猿や猪などが生息していて、お城の施設にも被害を及ぼしていた様です。
獣害対策として主要な建築物の周辺には高圧電線が張り巡らされています。
 天守周辺には野猿避けの高圧電線が…

 天守の南西角 ここから入城
天守西側にある渡り廊下部分から天守内に入ります。
 渡り廊下内部
ここでスリッパに履き替えて一階部分に上がります。
 天守一階内部
一階は平成の大修理の際、取り替えた建材や鯱瓦などが展示されています。

この備中松山城は、鎌倉時代に秋庭氏が築城したのが最初で、
以来数々の豪族・武将が城主となっていました。
戦国時代後期には、毛利氏に味方した三村氏が城主となりましたが、
毛利と織田が争う中で、三村元親は毛利に反旗を翻し、毛利に攻められ滅びます。
その後、江戸期に入ると、徳川家康の命を受けた築城の名手・小堀遠州が入城、大改修が行われました。
城が現在の形になったのは、その後に藩主となった水谷氏の時代の様です。
幕末には京都所司代となった板倉勝重が城主となった…というのがこの城の歴史です。

他にも討ち入りで有名な赤穂の大石内蔵助がお家断絶となった水谷氏より
城の受け取りをしたというエピソードもあります。

天守内部はとにかく複雑に組み合わされた木材で構成されています。
 
左は天守北側に張り出した装束の間。
右は一階東寄りにある囲炉裏。天守内に囲炉裏があるのは珍しいです。
この城が高所にあり冬場はかなり寒いから…でしょうか?
 唐破風内部の連子窓
正面の唐破風の内側は上の様に窓になっています。
中からは外の様子が見やすく、外からは中が見難い構造です。

 
左の階段を上がって、二階へ。右はその二階の様子。
 
左が二階の天井部分。城の構造が良く解ります。右は二階の連子窓から見た鯱瓦。
 天守二階から観た景色 遥か彼方に高梁市街が見える
この二階には神様を祀る祭壇があり、歴代城主が信心深かった事が良く解ります。

内部を一通り観たので天守から出て、二の丸の東側へ。
 二の丸東側の石垣
石垣に沿って歩くと搦手の石垣があります。
 搦手
この搦手、すぐ先は急斜面でとても攻略出来そうにありません。
まさに守るに易く、攻めるに難い要害の地と言えます。

本丸の裏手(北側)には後曲輪や水の手門の跡があります。
 後曲輪跡から二重櫓を望む

ここからさらに北へ続く道を発見。
立札には大松山城跡まで480m、天神の丸跡まで200mと書かれている。
こりゃ行くしかないでしょ。
 険しげな道
歩き始めてすぐに後悔した。
この道、天守までの道に輪をかけてキツい。
さらに人がまったく通った跡がなく、遭難しそうな獣道。かなり不安。
それでも途中にある立札を頼りにどうにかこうにか天神の丸跡まで到着。
 天神の丸跡
ここには天神様が祀られていた様です。

もはやここまで来たら最後まで探索を続けるしかありません。
最後の探索地・大松山城跡へ向かいます。
 この左手の山道を行く…暗いゾ、大丈夫か?
不安な気持ちで道なき道を行きます。
時折り足元の草むらが「ガサッ!」っと音を立てます。
イノシシとかクマとかが飛び出してきたら一巻の終わりです。
こんなとこ一人で来るのはバカだけです。マネしない方が良いです。
 
ついに到着!大松山城跡!
右は城跡に残る井戸の石垣。
この写真だと日当たり良くて全然怖くなさそうですが、実際は暗いです。
ひとりでウロウロするのはかなり勇気いります。

ここは秋庭氏が最初に築城した場所らしいですが、
こんな山奥に城を作ろうなんて信じられません!は…はやく帰ろう!!
 
この道にもところどころ石垣の積み跡が…やはりここもお城の一部なのだ。

天守前まで戻ってきたら観光客もちらほらいてようやく安心。
お化け屋敷やホラー映画観るよりよほど緊張した。
山城恐るべし!
でも、見所満載で来て良かった。イヤ、ホント。

 ほんま、大儀でござった!