西京極 紫の館

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戦国武将のお宅訪問 60 - 黒田孝高 / 中津城 -

2024年08月23日 22時08分13秒 | お城探訪
大分ビッグアイで天皇杯ラウンド16を戦うサンガの応援の為、朝6時半に京都を車で出発。走行距離約570km。7時間ほどかけて昼過ぎに福岡県と大分県の県境に位置する中津市までやって来ました。試合観戦に先立って今回もお城探訪です。あの名軍師・黒田官兵衛孝高が秀吉から最初に与えられ築城した城  中津城であります。

中津城は北に周防灘、西にその周防灘に注ぎ込む中津川に面しており、東側に回り込む濠は中津川から水を引き込んでいます。なので中津城のお濠の水嵩は周防灘の干満によって上下していたらしい。その意味ではいわゆる水城と言っても良い城です。

僕が車を停めたのはお城の南側の中津神社の鳥居をくぐった駐車場。駐車代は無料。まずはいつもの通りすんなりと天守へは向かわず、内濠に沿って外周を観て回ります。

南側の内濠は蓮池になっていて、たくさんの蓮の花が咲いていました。

この蓮池の右手へ歩いて行くとなんだかオシャレな建物が…

中津市歴史博物館です。ここには中津城をはじめ耶馬渓など中津市の観光名所を紹介する施設になっていました。入館自体は無料。(館内の企画展スペースのみ有料)館内は冷房がガンガンに効いていて酷暑の時期には誠に有難い!そして館内スタッフさんが優しくて親切!いっぱいパンフもらえました。

館内からガラス越しに見る内堀の蓮池と黒田時代の石垣。遥か遠くには天守も見えますね。

歴史博物館で十分涼んだ後、さらに内堀右手へ向かいます。すると汐湯というお風呂屋さん(?)に行き当たって水門跡を通って駐車場広場へ戻るしかありませんでした。駐車場広場から天守へ向かいます。

天守へ向かう手前には中津大神宮があり、ここには天照大御神が祀られています。こりゃ今日のサンガの勝利を祈願しておかねば!「ど~か、サンガを勝たせてくださいませ~っ!!」という祈りが天照大神に届いたのか、2-0で快勝!ありがたや~!さぁ天守へ行くぞ!


中津城は冒頭にも書いた通り、天正16(1588)年に豊臣秀吉から九州平定の命を受けた黒田官兵衛が中津16万石を拝領し、この中津川河口に築いたものです。しかし城が完成したのは黒田家が福岡へ移封された後、中津に入った細川忠興の時代です。恐らく天守も細川時代になって完成したと思われます。

現在の天守は昭和39年に建てられた鉄筋コンクリート製地下1階5層5階高さ23mの模擬天守。外観は萩城天守をモデルにしているそうだ。下層4階が黒く、最上階のみ白い。黒い城は豊臣派、白い城は徳川派を表す。信長から秀吉、秀吉から家康へ、主を変えて戦国の世を生き抜いた官兵衛らしい外観と言えます。

模擬天守に連結する形で建っているのは大鞁櫓(だいひやぐら)。望楼型の二重櫓で、城主の馬具などを収納していたと言われています。

天守に入るには入城料400円が必要。700円の共通観覧券を購入すれば先述の歴史博物館の企画展t福沢諭吉旧居記念館も見学出来ます。福沢諭吉旧居には行ってみたかったので共通観覧券を購入しました。

天守の内部は黒田家や細川家、さらに徳川期の城主だった小笠原家、奥平家由来の鎧や武具、美術品が展示されていました。撮影OKなのかどうか良く判らなかったので、取り敢えず写真はなし。代わりに天守最上階から周囲四方の景色を撮っておきました。
天守から望む南
天守から望む東
天守から望む北。中津川河口周防灘。
天守から望む西。中津川。
天守最上階は最高の景色。そして吹き渡る風が心地良い!

天守の見学を終えて今度は東側からと逆時計回りに北側へ回って行きます。

中津川から水を引き入れている内濠。潮が満ちて海水が逆流しているのか、この辺りはどことなく汐の香りが漂っています。

あ、石垣にカニがいる!

お城の北側もちょっとした広場になっていて、そこには官兵衛とその妻・光姫(みつひめ)の像が仲良く建っていました。

そしてこの天守台の石垣には黒田時代の石垣と細川時代の石垣とが混在しています。

上の写真で中央にY字に区切られている箇所がありますが、そこを境にして左側が細川時代の石垣。右側が黒田時代の石垣だそうです。黒田時代の石垣はあの穴太衆が積んだものとの事。あきらかに積み方や石の形状が違っていますね。

中津川に沿ったところにも黒田時代の石垣がありました。

ここで一旦、中津城から離れ、徒歩5分北東方向へ行くと、福沢諭吉旧居記念館。

現在建物の補強工事中との事で、旧居の壁には補強材が組まれていました。また併設されている記念館には中津出身の偉人・福沢諭吉の偉業を示す数々の資料が展示されていました。諭吉が印刷されていた旧一万円札(シリアルナンバー1のもの)も展示されていました。奇しくも今年お札のデザインが一新され一万円札も諭吉から渋沢栄一になった訳で…なにやら感慨深い。

旧宅内には諭吉が幼少時代、勉学に勤しんでいる様子を再現した人形が飾られていました。

官兵衛の城、諭吉の生まれた町  中津。潮の香りがする風情のある町でした。

戦国武将のお宅訪問 59 - 溝口秀勝 / 新発田城 -

2024年08月14日 18時11分49秒 | お城探訪
過去サンガの応援でビッグスワンに遠征する度に「いつか観に行こう」と思っていたお城  新発田城。今回の新潟遠征は時間的余裕があったのと、単独行動で自由だったのでビッグスワンを一旦通り過ぎて約30kmほどバイパスを北上、新発田城までやって来ました。

新発田城はその本丸区画の3/4が自衛隊駐屯地という珍しいお城です。日本で自由に見学出来ないお城トップ3は、皇居である江戸城、おおもと教団の持ち物である亀岡城、そして自衛隊駐屯地であるこの新発田城なのです(苦笑)という事で、公園として整備された区画を見学して回ります。公園周辺には無料駐車場が点在していて停め放題。僕は本丸エリアの西側の駐車場に車を停め、まずはここで一番大きな建造物である三階櫓へ向かいます。
三階櫓
本丸内濠の向こうにそびえる三階櫓は、天守の存在しない新発田城にあってはお城のシンボル的存在。白漆喰塗りで腰壁部に海鼠(なまこ)壁を配した北国の城らしいデザインだが、最大の特徴は屋根の形状。通常2匹一対である鯱が、T字型の棟3か所に存在しているのです。これは城を攻めて来た兵の方向感覚を狂わす事を狙った意匠とも言われているが…本当にそんな効果あるんだろうか?
屋根の鯱が三匹!
この三階櫓は辰巳櫓と共に平成16年に復元完成したもので、自衛隊駐屯地内部にある。なので内部は一般公開されておらず、その雄姿を観るのも内濠のこっち側この場所が最も近いのです。もはや天守と言っても遜色ない威容であります。

内濠に沿って右手へ向かうと見えてくるのが旧二の丸隅櫓。
旧二の丸隅櫓
この隅櫓、元々は鉄砲櫓があったこの場所に二の丸から移築したそうで、表門と共に江戸時代から残る現存城郭建造物で国の重要文化財に指定されています。新潟県内で残っている城郭建造物はこの隅櫓と表門のみらしい。(なんで新潟県内の城郭建築物は残ってないんだろう?)

外観はごく一般的な隅櫓同様、装飾はほぼなく地味。唯一特徴は一階部の海鼠壁かな。内部はのちほど。

さらにお濠を回り込んで本丸南側へ。やがて重要文化財・表門に至るのだが、その手前に案内図がありました。

表門南側にはかなり広大な空白地が広がっている。地図でいえば二の丸があった所だ。もしかすると今は存在しない土橋門、二の丸隅櫓など復元再建されて二の丸広場として整備されるのかもしれません。今後の自治体・地域のがんばりに期待しましょう!

表門前の道を挟んだところにお土産屋さんと堀部安兵衛の立像があります。
堀部安兵衛像
堀部安兵衛と言えば、言わずとしれた赤穂浪士の一人で大石内蔵助に次いで有名な人物。安兵衛は寛文10(1670)年に新発田藩士・中山弥次兵衛の子として生まれたそうです。辰巳櫓の管理責任者だった弥次兵衛は、失火により櫓が焼失した責任を負って浪人。息子である安兵衛は18歳で国を出て、江戸で高田馬場の決闘の助太刀で名を上げ、やがて赤穂浪士に名を連ねる事になった訳ですね。

さあ僅かに許された見学スペースへの入口、表門をくぐります。
表門
入場は無料(パンフくれるのに無料って気前良いな~)。この門、いわゆる大手門ではなく本丸への出入口なので、やや小ぶりです。
表門くぐった内側はこんな感じ
表門をくぐると東西に細長い見学スペースが整備されていました。表門2階内部が見学可能で、そこには表門に攻め寄せた敵を攻撃する為の石落しが配置されています。今は閉められているので、見学者がくぐっても石は落ちてきませんwwまたこの門の組み上げには複雑な木組み工法が採用されているとの事で、その説明書きも展示されていました。

表門をくぐった正面では新発田藩初代藩主・溝口秀勝の像がお出迎え。
溝口秀勝像
溝口秀勝は天文17(1548)年、尾張国生まれ。織田家の重臣・丹羽長秀に仕え、長秀の死後、豊臣秀吉の下で活躍し越後蒲原郡新発田に6万石を与えられた武将である。秀吉の死後は関ケ原合戦で東軍につき徳川家康の勝利に貢献。領国で起こった上杉遺民一揆の鎮圧の功を家康に評価され所領安堵、晴れて新発田藩初代藩主の座を得る事となった。徳川政権下では秀勝が没した後も外様大名でありながらその子孫が代々新発田藩主を務め、明治維新を迎えるあたり、秀勝自身はもとよりその子孫らも徳川からの信任が篤かった様だ。なかなかの世渡り上手だと言えます。

内部が見学できる辰巳櫓。内濠の外から見た外観はこんな感じ。
辰巳櫓
三階櫓と共に平成16年復元された辰巳櫓。重文である旧二の丸隅櫓に比べると海鼠壁がない代わりに一階の庇や屋根の形状が凝った意匠になっているのが解ります。
凝った意匠の辰巳櫓
木造復元されたその内部に入ると、めっちゃ明るくて綺麗!!
辰巳櫓一階内部
一階には新発田城本丸区画の模型や、ガラス張りで櫓の基礎部分の様子が観られる展示がありました。これはちょっと珍しい。


櫓の二階へ上がるとそこには復元にあたって用意された瓦や復元に尽力した当時の市長の名を記した大きな看板が飾られています。
辰巳櫓二階内部
辰巳櫓の二階からは陸上自衛隊駐屯地が良く見えます。駐屯地の奥には三階櫓も…。
辰巳櫓二階から見た駐屯地
三階櫓の内部ってどうなってるんだろう。観れないとなると余計気になる~!!

さて、新発田城見学も残すは重文・二の丸隅櫓の内部を残すのみ。
隅櫓へ向かう緩やかな階段
平成建築で真新しい辰巳櫓とは真逆で、現存建築である二の丸隅櫓内部はかなり薄暗い。
旧二の丸隅櫓一階内部
この隅櫓、採光部が少ない上に、建物の保存優先なのだろうが床置き人感センサ照明が階段に設置されているだけ。でもそのおかげで歴史の重みを感じる事が出来ます。
旧二の丸隅櫓二階内部
階段を上がった二階は比較的明るく、棟上や祭事に使用したものが展示されていました。あと、立派な梁!

お城の周辺を散策して回った際、駐屯地内の訓練施設やら自衛隊車両やら色々な施設を見られました。もちろん柵の外からです。写真も何枚か撮ったけどSNSに載せて良いかどうか怪しかったので立番の自衛官の方に許可を頂いて撮影した駐屯所の正門の写真のみ上げときます。自衛官の皆様、このところの災害対応、本当にご苦労様です!

以上、見学できるエリアは本丸全体の1/4程度ですが駐屯地も含めぐるっと一周歩いて回ったら20分程度だったかな?見学施設を観るのもそれほど時間はかからなかったので滞在時間は約一時間ほど。この新発田城は4月1日から11月末までの限定公開。冬場は見学不可となりますのでご注意を!

戦国武将のお宅訪問 58 - 戸田氏鉄 / 尼崎城 -

2023年08月05日 16時38分10秒 | お城探訪
連日猛暑を超えた酷暑が続いていますが「城が見てぇ!」の衝動が抑えきれず敢えて酷暑の中、近場のお城探訪に出かけました。出かけた先は平成ラストの31年(2019)に復元された尼崎城です。

京都からは車でも電車でも1時間弱。駅ホームからも見える復元天守ですが、元々お城があった場所から100mほど離れています。旧城址は後回しにして、まずは新造された復元天守の周囲を観て回りましょう。

この新造天守はここ尼崎の地で創業した旧ミドリ電化の社長・安保詮氏が私財を投じて建造したもの。完成後に市に寄贈されたそうです。天守の北側は公園になっていて遊具なども設置されています。

尼崎城は徳川家康が幕府直轄地で西国支配の要所でもある大坂城を防御支援する要の城として元和3(1617)年に建てられました。築城を任されたのは近江膳所から転封された戸田氏鉄。そう、のちに大垣城の城主になる譜代大名です。膳所といい、尼崎といい、大垣といい、要地ばかりを任されているとは、家康はよほどこの氏鉄を信頼していたのですね。
北西角側から見た天守
4層4階の天守には3種の破風が縦に設けられており、東西南北どの方向から観てもバランスが良く、美しい。城北側の公園と城を仕切るような形で鉄砲狭間が配置されています。

尼崎駅周辺の高層ビルが遠望でき、歴史の今昔を感じます。
北東角側から見た天守
城内部への入口は天守の東側にあり、その前は結構広い人工芝広場になっています。暑過ぎて誰も遊んでませんでしたがw

では満を持して城内へ。入城料は大人500円。開場時間は朝9時から夕5時。

コンクリート造りの内部は真新しく超清潔な印象。1階はチケット売り場でパンフもここでもらう。そしてチケットを買ったら城内に設置されたエレベーターで最上階である5階へ行くように案内されます。エレベーターはドアが木造の門扉っぽくマスキングされています。

このエレベーターで昇った5階は展望ゾーン。四方にある窓はすべて閉め切られていて冷房が効いていて超快適。まだ新しいのでヒノキ材(かな?)の良い香りもしています。ここから南方向には大阪湾、西方向には多くの寺がある寺町街が観えます。
5階展望ゾーン
階段で降りた4階はギャラリーになっていて、城とはま~ったく無関係のセサミストリートのパネルが飾ってありました。なんでここでやる?って感じでした。さらに降りて3階は甲冑や着物に着替えて撮影できるなりきり体験ゾーン。見学に来た子供たちが畳敷きの広間の上で寝っ転がってましたw
2階尼崎城ゾーン
2階がいわゆる資料展示エリアで、VRを駆使して江戸時代の尼崎の城下町を体験できる施設になっています。火縄銃や刀、弓、槍などのレプリカが展示してあり、手に取って実際の重みを体感する事が出来ます。説明員の女性が丁寧に対応して下さいましたので、歴史好きが観るならこの階だけで十分でしょう。500円払う価値があるかどうかはビミョーではありますが、そこはお城へのお布施という事で♪
鯱瓦のレプリカ
説明員の女性のお話では、この復元天守だけではなく、野面積みっぽい天守台の石垣も新たに作ったものだとの事。石は淡路島から運んだのだそう。そりゃあ大工事だ。ミドリ電化の社長、大名並みに凄いナ。

戸田氏鉄の像が展示されているのかと思いきや…松潤(どうする家康)像でしたw

お城を一通り観て回ったので、一階でもらった街マップを片手に旧城址を探しに行くことにしました。冷房の効いてる城から出たら地獄のような暑さ。大汗をかきながら向かった先は元のお城が建っていたのは南東へ100mほど離れた場所。昔は小学校、今は歴史博物館になっていて「本丸跡」の石碑がありました。
本丸跡の石碑
そして、新しく今も使われている小学校のグラウンドの南西角にも「尼崎城址」の碑が残っていました。


そこから西方向へ進んでいくと多くのお寺が集積されている寺町エリアがあります。この辺りは街並みもかなり情緒があってこの地獄のような暑ささえなければ、そぞろ歩くには良いロケーションです。この界隈でもひときわ立派な寺院である本興寺。やや小ぶりながら立派な三重塔がありました。
本興寺
尼崎  思っていたよりも綺麗で見所もある良い街だな~と思いました。ご興味のおありの方は是非お越し下さい。(と、尼崎市民でもないのに宣伝するw)

戦国武将のお宅訪問 57 - 筒井定次 / 伊賀上野城 -

2022年12月17日 23時09分34秒 | お城探訪
自宅から車で1時間弱で行ける近場のお城へ行ってきました。和田竜の小説『忍びの国』の舞台である伊賀国  伊賀上野城であります。

この小説では他国の雇われスパイを生業とする伊賀の地侍たちがお互いの保身の為に仲間を裏切り殺し合うという“ひとでなしの国”であると描かれていますが、事実はどうあれ地侍同士が割拠し、統率した組織が成立しなかった為、織田信長(実際に殲滅戦を行ったのは信長の息子・信雄ですが)によってそのほとんどが殲滅されたという歴史(天正伊賀の乱)があります。そんな伊賀の里ですが、2022年現在でも町のウリは“忍者”と松尾芭蕉です。芭蕉自身も忍者であり、俳句を詠みながら全国を巡っていたのも実は諸国の情勢を探る諜報活動だったのでは…と言う人もいるくらいです。城へ向かう途中には芭蕉の生家が観光名所として保存されていたりしました。(寄りませんでしたが…)

お城観光用の駐車場(駐車料600円)に車を停めて、ワンコの散歩を兼ねて天守へ向かいます。

駐車場からの道はキレイに整備されていて、この日は雨がパラつく生憎の空模様でしたが足元の心配をする必要もなく見て回れました。

伊賀上野城のウリである忍者屋敷。イイ感じのかやぶきの家ですが、中にはどんでん返しの壁やら隠し階段などの仕掛けがあちらこちらに設えられているそうです。(入場料は大人800円とちょっとお高め…)僕はイヌ連れなので入れませんでしたが、1日3~4回忍者の実演ショーが開催されていて、その掛け声が外まで響き渡ってました。その声にイヌがビビリまくってましたww

忍者屋敷を横目に進むと個性的なデザインのでっかいお堂がありました。このお堂、俳聖殿と言いまして、芭蕉の旅姿を模したお堂だそうです。県指定の重要文化財とのことで、以下がその説明看板。

お堂の中を覗き込んでみると奥の方に仏様のような像が安置されていました。これ、伊賀焼で造った芭蕉像らしい。

俳聖殿の脇にはこちらも風情のあるかやぶきの立派な門があります。この門も県の重要文化財のようです。その門を潜って右手へ回ると今度は左手に石段があり、それを上ると広場の奥に模擬天守が見えてきます。
天守右側面
この模擬天守、昭和10年(1935)地元の代議士・川崎克が私財を投じて建てたもので、純木造。天守は層塔型三層三階でそれに連結する小天守は二層二階建て。
小天守
おそらくこの天守は筒井定次時代のものを再現しようとしたのだと思われますが、筒井氏の後、伊賀国に入った藤堂高虎が大規模な改修を行い五層五階の大天守を建てる為に石垣もそれ用に大きくしたようです。その五層の天守は竣工直前に暴風により倒壊。その後徳川家康の天下となってからは城普請禁止の布告がなされ再建されることはなかったとの事。五層用の石垣に三層の天守が乗っかっているのでちょっと見た目的にはアンバランスな感じもします。ここも内部が資料館となって有料(大人600円)で見学可能ですが、イヌ連れなので入れず外観を眺めつつ一周してみました。
天守左側面
天守背面
天守の右手側にはこの城跡のもうひとつの見どころである高石垣が観られます。

案内板には「日本で1、2を争う規模の石垣」と書かれていました。なんやその奥歯にモノのはさまったようなビミョーな表現は…?でも実際この石垣の頂上から足元の堀を見下ろしてみると…おおっ、これはなかなか怖い!

雨と泥で汚れたワンコを高石垣脇の石の上でフキフキしつつ…

う~ん、こりゃあ立派な石垣だわ。この辺の普請は築城の名人高虎らしい仕事ですな。

模擬天守と高石垣を堪能した後、大手門側へ回り込んでみます。

きれいに整備された石段を右手に上ると、そこには城代屋敷の跡がありました。

この芝生の広場が藤堂高虎転封後、天領となった伊賀上野の城代が住んだお屋敷跡。庭には池もあったようです。今はただ間取りを示す白線が引かれ、「玄関」とか「広間」とか説明板が置かれているのみです。この写真中央奥には模擬天守が見えています。

観るものは一通り観終わったので、雨脚が若干強まる中、駐車場に戻ります。その道すがらきれいに色づいた紅葉があったので写メっときました。



今回はイヌ連れだったので忍者屋敷も天守にも、芭蕉記念館にも入れませんでしたが、また機会があれば観てみたいですね。
ニンニン

戦国武将のお宅訪問 56 - 徳川家康 / 駿府城 -

2022年08月31日 23時38分21秒 | お城探訪
サンガの日本平遠征のついでにお約束のお城見学。今回は日本平からほど近い駿府城です。

駿府城を築城したのは徳川家康。元々この駿河を治めていたのは今川家でしたが、当主・今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれた後、一時は武田領となり、その後家康が治める事となりました。その時期に家康の本拠として本格城郭に整備されたのが駿府城です。さらに豊臣秀吉が天下統一を遂げると、家康が領していた駿遠三の東海三国と甲斐は召し上げとなり、関東五か国への転封を命じられます。

天正18年、代わりにこの駿府城に入ったのが秀吉子飼い大名の中村一氏。一氏は関ケ原合戦の直前に病死するのだが、中村家自体は家康に味方した功で伯耆国米子へ加増転封される。(のち慶長14年、一氏の嫡子・一忠が急死して中村家は断絶する。)そして慶長12年、天下人となった家康は将軍職を息・秀忠に譲ると“大御所”としてふたたび駿府城へ戻ってきます。この慶長期の天下普請で北西部に五重七階の天守が築かれたようです。その天守も家康の死後、火災により焼失。以後天守は築かれる事はありませんでした。

城跡北西の外堀近くの駐車場に車を停め、外堀を越えて内堀北西角へ。そこから見た東方向の景色がコレ。

天守が現存していればこの北西角にそびえ立っていたはず。(静岡市で再建してくれんかな、天守?)

そのまま東方向へ内堀沿いに徒歩移動。内堀周辺には静岡市の官庁や学校が立ち並んでいます。途中に搦手門らしき北門橋がありましたが、そこはスルー。お城好きとしてはやはり正面から入りたいからね。そのまま内堀沿いに南進すると駿府城の東南角に正門である東御門が見えてきます。
東御門と奥が巽櫓
そして東御門に架かる橋の袂には駿府城の案内板が設置されています。

橋を渡ると平成8年(1996年)に復元された東御門。

コレをくぐって振り返ると門を支える立派な梁二本が…

城の内側から東御門を見るとこんな感じ。めっちゃ立派な門です。内部は「駿府城の一生」と題した最新調査結果の展示がされているようでしたが有料(200円)なので(あんまり試合まで時間の余裕もなかったし)今回はパス。城跡内は芝が植えられ、植樹されて公園として整備されています。内堀沿いの櫓以外に建築物はほとんどありません。
場内の案内図
正直言うと、駿府城は天下泰平となってから築かれた城なのでほとんど要塞としての工夫はありません。攻められる恐れはない家康の隠居城らしい造り。唯一建物っぽかったのが紅葉山庭園。
紅葉山庭園入口
ここも入るのに別料金(150円)が必要。今は夏なので紅葉はないよね。パス!パス!

そのまま庭園を左回りに散策していくと天守台跡がある北西部は工事中。どうやら天守台の発掘調査が進んでいる模様。その工事区域の手前にあるのが家康公お手植えのミカンの木。

紀州から持って来たものらしく県指定の天然記念物との事。

そのミカンの木のすぐそばには鷹を手にした大御所家康の像が。


家康像の後方、工事区画も一部ですが見学出来ました。

手前の赤いコーンが置かれている所が天正期の天守台入口。奥のシートがかかっているのが天守台。中央奥の黄色いコーンの辺りが今川期の館跡らしい。家康は自分を人質に取っていた今川家が憎かったのだろう。今川館を破却してその上に自分の天守を築いたようだ。

この緑のコーンの場所には慶長期の天守南面があったとの事。天正期の天守からかなり南側へ位置が変わっている。工事区画内にはプレハブの小屋が建てられていて、発掘調査中に発見された瓦などが展示されていました。

最後に城址南西の坤(ひつじさる)櫓へ向かいます。
坤櫓
この坤櫓は平成26年に伝統的な吹き抜け構造の木造建築で復元されたもの。ここも内部を有料(100円)で見学可ですが、パス。なんつーか、やたら個別に金取るな、ココ。

内堀越しに見ると、東御門傍にあった巽櫓に比べるとかなり凝った意匠だとよく解ります。
内堀越しに見る坤櫓

家康にとって今川家の人質として苦労した幼年期を過ごした駿府の地は、出生本領である三河国岡崎と共に特別なこだわりの地だったのでしょう。「死ぬならココで」と決めていたに違いありません。海の幸にも山の幸にも恵まれた温暖な地は、老後を穏やかに過ごす場所としては最適だったのかもしれませんね。家康の最期が穏やかだったかどうかは定かではありませんが…