西京極 紫の館

サッカー観戦、映画や音楽鑑賞、読書などなど、
日々のなんやらかんやらを書いてみようかな、と♪

戦国武将の御宅拝見48 - 本多正純 / 宇都宮城 -

2018年05月05日 14時52分26秒 | お城探訪
今回やって来たのは栃木県宇都宮市にある宇都宮城です。

冒頭の写真のように、この宇都宮城は石垣ではなく掻き揚げた土塁で出来ているお城です。
古くは平安時代末期  ですから源平合戦の頃に出来たお城で、
藤原宗円が築城したのが最初と言われています。

その後、鎌倉から室町期にかけて宇都宮氏が城主としてこの地方を代々治めていましたが、
宇都宮国綱が豊臣秀吉に所領を奪われ、家が断絶。
その後は浅野長政が城代となったり、蒲生秀行が入ったりしましたが、
最も有名なのは徳川幕府の治める世となった元和五(1619)年に城主となった本多正純でしょう。

本多正純。
徳川家康の策謀ほぼすべてを担った本多正信を父に持ち、
自身も家康の懐刀として卓越した智謀で徳川政権を支えた能吏です。
まぁ、今でいうところの財務官僚のトップですね。
豊臣政権時代の石田三成のような存在だったと言えます。
正純は家康の下で有力な大名を次々と国替えさせたり、取り潰したりして力を削ぎ、
相対的に徳川政権を盤石なものにする事に成功し、この宇都宮入国の時には15万5千石にまで出世します。

この出世が同僚からの嫉妬を生んだのか、
将軍・家光が日光東照宮参拝に向かう途中この宇都宮城に宿泊した際、
仕掛けた釣り天井を落として暗殺しようと企んだとの噂を流され、
三年後の元和八(1622)年に改易されました。
後の世に言う宇都宮釣り天井事件です。

ともあれ、宇都宮城は正純の時代に最大の規模に整備されました。

ですが、その後幕末の戊辰戦争で宇都宮が戦場となり、街も城もほとんどが焼けてしまい、
今残っているのは西側の土塁の一部と平成になってから復元された清明台と富士見櫓のみです。


宇都宮城址公園前の駐車場(ゲートはあるけど、無料)に車を停めて、
まずは外周を歩いてみました。

 外周から見た清明台と土塁

 外周から見た富士見櫓

外周を巡って清明台と富士見櫓の中間に設けられたゲートから土塁の内部へ。

土塁の内部はちょっとした資料館となっていて、入館はこちらも無料。
城址から掘り出された土器や漆器、瓦や江戸期の宇都宮城のジオラマ模型などが展示されていました。

ここからエレベータで土塁の上へ移動。
出て右手に清明台、左手が富士見櫓があります。

まずは清明台へ。


 清明台
清明台は天守を持たない宇都宮城の天守代わりとされたらしいですが、
まぁ徳川幕府政権下、そのお膝元宇都宮で戦など起こるはずもなく、
天守など必要なかったのでしょう。
 清明台内部
内部はまだ真新しくヒノキの良い香りがしていました。
この日は閉められていましたが、日曜日は二階にも上がれるらしいです。

次に反対側の富士見櫓へ。


 富士見櫓
“富士見櫓”というのは文字通り、霊峰富士を見る為の櫓で、
江戸城をはじめ、いろんなお城に同じ名前があります。
でも…宇都宮から見えるのかな富士山?

 富士見櫓内部
こちらもほぼ構造は清明台と同じ。
どちらにも釣り天井は仕掛けてなさそうww

土塁で囲われたお城は他にも残っているのかもしれませんが、
僕が知っている限りではここ宇都宮城だけ。
関東七名城のひとつであるこのお城を訪問出来て良かった。

教訓。
頭が良過ぎたり、偉くなり過ぎると、
他人から妬まれて、足を引っ張られる。
何でもほどほどにしておくのが一番。うん、うん。



お城見学後、徒歩にてJR宇都宮駅まで行って宇都宮餃子を食す。
元祖宇味家(と書いてウマイヤと読むらしい)さん。
プレーンな焼き餃子と独特な食感のフライ餃子、どちらも美味しかった~!

でもさぁ、“宇味”じゃ“ウ・マイ”とは読まないでしょ?
“宇昧”なら読めるけど…
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戦国武将の御宅拝見47 - 真田昌幸 / 上田城 -

2017年11月23日 18時00分45秒 | お城探訪
去る11/19のサンガ応援の長野遠征の際、50Kmほど寄り道して上田城を見学してきました。
上信越自動車道の上田菅平ICから約10分で到着。
駐車場へ車を停めていざお城へ。

上田城の外濠(かな?)を美しく彩る紅葉並木をくぐって大手門へ向かう。

大手門といっても門はなく、石垣のみが遺っています。

大手門の右手には鐘楼があり、門跡をくぐると左手にやや新し気な上田大河ドラマ館があります。
いかにも昨年のNHK大河ドラマ『真田丸』人気にあやかろうというミエミエのテーマパークで
ここでVR体験ができますよ~と呼び込みの兄ちゃんが叫んでますが、ここはお城と別料金。
完全スルーしてwお城へ向かいます。


はい、見えてきました。上田城の目玉建造物、本丸東虎口の櫓門です。

上田城と言えば、真田昌幸の城  というイメージが強烈ですが、
現在残っている櫓や門はいずれも真田昌幸&信繁親子が九度山配流されてから
上田に転封された仙石忠政が造ったものです。真田時代の遺構は石垣のみ。
それなのに真田、真田、真田といたるところで徹底した真田押し。
仙石サンやその後藩主になった松平サンが不憫です。


櫓門の石垣には“真田石”と呼ばれる巨石があります。
この巨石、昌幸と信繁が九度山に送られた後、
徳川方に味方して真田家を継いだ信幸(のち信之に改名)が転封された松代(信濃海津)に
持って行こうとしたがビクともしなかったという伝説が残っています。


これは櫓門の内側を仰ぎ見たところ。
この櫓門は平成6年に復元されたもので、使われている建材も新しい。

櫓門を通ると正面が本丸跡ですが、そこには真田親子を祀った神社があります。
 眞田神社
ここで「今日の試合、サンガを勝たせてください!!」と祈願したところ、見事にサンガ勝利!
さすが天下のひねくれ者・真田昌幸がご神体だけあります。
(実際は歴代領主である仙石氏や松平氏も祀られてます)
地元の松本山雅より京都を贔屓してくれるとは…(^^;)

神社の左手には真田時代に掘られた井戸。

この井戸の底から城外へ抜けられる秘密の抜け道があるとの話ですが…本当だろうか?

さらに神社の左を行くと明治の廃城令の際に唯一残された西櫓がある。
石段を上がると人がいっぱいで櫓に近づけない。

なので櫓の裏手に回り込んで西櫓の全容を撮影しました。


ここまでは入場料の必要ありません。
上田城でお金を払わないといけないのは先ほど通り抜けた櫓門の両脇にある北櫓と南櫓。
城跡公園内にある博物館と共通の観覧券500円を購入。

 北櫓
この北櫓、南櫓は明治維新の際、売却されていたそうで、
昭和18年上田市民によって買い戻され、昭和24年にかけて元の場所に再移築されたものです。
(この櫓も仙石氏の建てたもので真田じゃない)

入口は南櫓。
 南櫓
 南櫓から南方、尼ヶ淵を望む
土足厳禁でスリッパに履き替えて櫓門の内部を通り抜けてまず北櫓へ。
 櫓門内から大手虎口を望む
第一次上田合戦の際、この虎口に押し寄せた徳川家康の軍勢を
引き寄せて、
閉じ込めて、
散々に討ち破った…そんな光景が見えるようです。

 北櫓内部
北櫓内部は再移築した際(恐らく)建材が一部欠落していたのでしょう、
新しいものと古いものが混在しています。
内部には上田合戦の様子を説明するビデオや上田城の歴史を説明するボードが展示されていました。

櫓門と北櫓の間には六文銭の真田の幟が飾られています。

そして南櫓。
こちらも中に鎧やら何やらが展示されてはいますが…500円の価値があるかといえば…う~ん。
正直言うと、二の丸跡にある博物館の展示物を観る為のチケットでしたね。
こっちは結構いろいろ展示がされていて見応えありました。
(でもあんまり真田一族のものは展示されてません…)

一般的には“真田の城”と思われている上田城。
実際は“仙石忠政の城”でしたね。
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戦国武将の御宅拝見46 - 北条早雲 / 小田原城 -

2017年06月20日 20時51分44秒 | お城探訪
東海道新幹線で東京から京都への帰り、
小田原駅を通過してトンネルに入る前の一瞬だけ見えるお城。それが小田原城。
かの信玄も謙信も攻め落とせなかった難攻不落の北条五代の居城である。
何度も目にはしていたが一度も行った事がなく、
いつかは行かないと…と思っていたら
平成15年から翌16年にかけて耐震工事の為天守が非公開となってしまった。

その平成の大修理がようやく終わり、天守が再公開。
今回、サンガ応援の湘南遠征の機会を利用してやって来ました。

東名高速・大井松田ICから下道30分ほど。
JR小田原駅のそばの城跡公園前のコインパーキングに車を停めた。

あれ?どっちから登城すればいいのかな?

登城口らしきルートが2つある。
ひとつは如何にもお城の入口という感じの馬出門からのルート。
もうひとつが堀に架かった朱塗りの欄干の学橋を渡るルート。
観光客の多くはなぜか学橋の方のルートから登城している様だ。
少しモヤっとしたまま自分も学橋コースを採る事にした。
 学橋から隅櫓を望む
なぜこっちがメインルートになっているのかは後ほど判明する。

学橋を渡ると広々とした二の丸広場となる。
今日はここで流鏑馬実演のイベントがあるみたいでその準備中。

流鏑馬の衣装を身につけた演者や競技用の馬が出番待ちしていた。

二の丸広場を抜けて歴史見聞館を通り過ぎ、
それほど長くもない石段を上がるとそこは季節の花が咲き乱れるエリア。
 
この時期がちょうど見ごろとなる花菖蒲や紫陽花が。

この花園を越えると常盤木門です。
この門は昭和46年に再建されたもので中はグッズ売場と刀剣展示場。
 常盤木門

常盤木門をくぐるとすぐ左手に三重四階の天守が見えてくる。

この天守、江戸期に大久保氏が建てた際の図面を基に
昭和35(1960)年再建されたもの。
徳川譜代の臣・大久保氏の手によるものだけに
天守の外観は白が基調で飾りっ気が少ない。

もちろん鉄筋コンクリート製だが、
先頃修復を終えたばかりなので中身はピカピカである。





内部は他の復元天守同様、資料館となっていた。
各階テーマごとに展示がなされているがそのほとんどは複製品。
常盤木門と天守の共通で600円の入場料だがちょっと割高感あり。

中で現代アートっぽい企画展示もあったが、そこになぜか
小田原城を舞台にしたシンゴジラVSキングコングの絵が飾られていた。

ちなみに1962年東宝製作の「キングコング対ゴジラ」の舞台は
熱海城であって、小田原城ではない。
過去のゴジラ映画で小田原城は壊された事はありません。
コレってゴジラに壊して欲しいっていう小田原市民のアピールなのかな?

天守内部見学中に同行していたサポーター仲間から
「新し過ぎて何か趣きのない城やな~」と愚痴られた。

まあ確かに。

北条五代が治めた名城とはいえ、
その遺構のほとんどは明治には解体・破却されて残っていないし、
現在の小田原市すべてを城郭内に取り込んで周囲9キロに及んだ総構えも
この城跡公園からは想像出来ない。

最上階からは相模湾が一望出来るが、
その海岸線のギリギリまでが総構えだったのだろう。

ピカピカ過ぎる天守を出て二の丸広場へ戻る途中で
こちらも再建して間もない銅門(あかがねもん)へ足を運ぶ。
 銅門
現在内部を特別公開しているとの事で、入ってみるとこちらは鉄筋ではなく木造。
 銅門内部
天井には立派な梁が使われていて、ピカピカ天守よりイイ感じ。

銅門をくぐったその先の住吉橋が現在工事中で通行止め。

本来は馬出門から住吉橋を渡り、この銅門を通って、常盤木門を経、
天守に至るのが正式の登城ルートだが、工事のせいで通れなくなっていたのだ。

せっかくなので帰り際に隅櫓、馬出門、住吉橋も駆け足で見て回った。
 二の丸側から見た隅櫓
 内堀から見た隅櫓
 馬出門
 工事中の住吉橋
いずれにしてもちょっと新し過ぎて情緒には欠ける。
天下の名城がなんとも勿体無いと感じずにはいられなかった。

小田原城を後にしてサザンの曲をカーステで流しつつ、
海岸沿いの西湘バイパスを走り、湘南海岸で昼食。

生シラスたっぷりのそば御膳に舌鼓を打ち、湘南の夏を堪能しました。
肝心の試合の方は…う~むでしたが…
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戦国武将の御宅拝見45 - 筒井順慶 / 大和郡山城 -

2017年05月26日 22時43分25秒 | お城探訪
この城探訪レビューも45本目。
現存12天守も未見は青森・弘前城のみ。
これはさすがに気楽に「見に行こう!」とはいかない。
どっか近場で行った事のないお城はないかいな~と考えて…
あった、ありました!大和郡山城です。
先日行ってきました。

大和郡山城は天正8(1580)年に大和国の守護となった筒井順慶が築いた城。
順慶の死後、豊臣秀吉の実弟・秀長が大和・和泉・紀伊三カ国、
百万石余の領主となるとその政治的拠点として兄・秀吉の居城・大坂城に似た
天守を持った大規模な城郭として整備された。
秀長が死ぬと豊臣政権五奉行の一人増田長盛が22万石で入城するも
関ヶ原の戦いで長盛が属した西軍が敗れると、天守は破却され以後は再建されず。
その後は徳川親藩・譜代の大名である水野氏、本多氏が城主となり、
最後は柳沢氏が入って明治を迎えた。

奈良県内では最大級であり唯一の城と云って良いお城なのだ。

京都駅からは近鉄急行で45分。
大和郡山城のお濠のすぐ脇を近鉄の線路が走っている。

桜御門跡の石垣の脇になぜか山梨県甲府市の寄贈した碑があった。
 桜御門址
この謎は後ほど解き明かされる。


大和郡山城は内堀、中堀、外堀の三重の堀が穿たれており、
外堀の内に城下町を形成する惣構え。
その縄張りはJR郡山駅近くまでに及んでいてかなり広大。
 中堀
城跡公園として整備されているのは中掘から内堀・天守台までの区域で、
その半分ほどは県立郡山高校となっている。
 二の丸表門址は郡山高校の校内

城跡公園に入る道は二つ。
追手門から入るコースと柳沢神社を経由して天守台へ至るコース。
僕は柳沢神社を通るコースを採った。

天守台へ向かうのは後回しで脇道から内堀を渡り、
資料館である柳沢文庫へ向かってみた。
 内堀
その途中には極楽橋が架かっていた跡があった。
どうやら極楽橋を再建する動きがあるようだ。
 極楽橋址
つい先日も倒壊の恐れのあった天守台の石組みを組み直し
整備公開したばかりで自治体はお城の再建にはかなり積極的だと思われる。

柳沢文庫はあいにく本日休館日。
入場料200円を払っても中を見たかったが、まあ仕方ない。
趣きのある外観だけでも見学しておこう。
 柳沢文庫

そのまま脇道を通って追手門へ。
 追手門
この追手門(別名・梅林門)は1980年に再建されたもので、
豊臣秀長の家紋である(五三桐?)があしらわれています。
追手門の脇には左手に向櫓(先艮櫓)、右手に東隅櫓があります。
 向櫓
 東隅櫓
板張りで柿渋を塗った様なシックな櫓がカッコいい。


追手門をくぐると法印曲輪跡の広場で、
そこには明治期、日露戦争戦勝記念で建てられた県立図書館があります。

県の重要文化財で、今は何か教育機関のオフィスとして使われている様です。

そして昨年石組み補修された天守台。

この石垣には近隣の寺社から墓石や石灯籠などが大量に転用されていて
その量の多さは他に類を見ないほどだという話。
奈良には良い石材がなかったと言う事ですが、
この築城にあたって秀長はかなり無理をしたに違いない。
墓石やらお地蔵さまやらを使った祟りで秀長は早死にしたのでは…という伝説も。

天守台に上がるには、内堀に沿って柳沢神社側から行かないと入れないのだが、
この柳沢神社、徳川五代将軍・綱吉の側近として権勢を振るった
あの柳沢吉保が祀られている。当然神社のご利益は学業成就である。

吉保の領国は甲斐国甲府。それで桜門跡に甲府市の碑があったのか~、なるほど。

柳沢神社に参拝してから天守台へ。
天守台の北側にはお地蔵様がそのまま石垣に転用された『さかさ地蔵』が。
 
一応写真に撮ってみたんだけど…わかるかな~?
逆さま向いて奥に押し込まれてる。(写真撮っても祟られたりしないよね?)

天守台の上から東方向、追手門を望む。
なかなかの絶景。

もし秀長の建てた天守が現存していればさらに良い景色が見られたはず。
大和郡山市がいつの日か天守を再建してくれる事を願います。

天守の南面には付櫓があったらしく、
天守に上るにはこの付櫓を通らないとならなかった様です。
 この石垣に付櫓への進入口があったらしい

で城跡公園を後にしたのですが、
帰りは近鉄ではなくJRで京都へ帰る事にしました。
途中には外堀緑地という場所があり、
「ああ、こんなところまで城の惣構えだったんだ」と
大納言の居城・大和郡山の三重掘りと町割りの壮大さに思いを馳せました。
 

もっと一般的な評価が高くても良いお城だと思います。
奈良観光にお越しの際はもう一駅足を伸ばして是非お越しあれ!
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戦国武将の御宅拝見44 - 水野勝成 / 福山城 -

2017年03月11日 18時50分31秒 | お城探訪
以前から行ってみたかった場所がある。
『崖の上のポニョ』などの舞台となった鞆の浦だ。

京都から車で3時間半。山陽道・福山東ICで下道で30分ほど。
沼隅半島の先端、日本最初に指定された国立公園の一つ。
穏やかな海と特徴的な島々が湾を守る様に浮かんでいる。
 鞆の浦から弁天島を臨む
海岸沿いに最近出来たらしい立体駐車場に車を停め、海岸の防波堤沿いに浦の中心街へ歩く。
山が海岸線近くまで迫っていて、その麓に家が密集しています。
元々ここには鞆城があったので細い路地は鍵の手鍵の手に折れ曲がり、城下町っぽくもあります。
 
陽光に誘われて路地の其処此処にネコさんがひなたぼっこしています。
観光客慣れしているのか、どのネコちゃんも近づいても逃げないし、ナデナデさせてくれます。

この鞆の浦、瀬戸内海のほぼ中央に位置していて
豊後灘からの海流と播磨灘からの海流がぶち当たる所。
満潮時と干潮時で潮の流れが変わるので、潮待ちの港として栄えました。
町のおばちゃんらが道端でヒラメの鱗取りをしていたり、魚が干されてたり。
漁師町の風情が溢れています。

今はひな祭りの時期で家々に飾られた多種多様なひな人形を路地から観ることが出来ました。
 本当に海が澄んでいて気持ちがいい

また歴史的な史跡も数多く残されています。

これは幕末京都を追われた三条実美ら七卿がいた国の重要文化財、太田家住居。

鞆の浦のシンボル常夜燈の脇には坂本龍馬の率いる海援隊の旗艦いろは丸の展示館が。

港からちょっと奥まった妙蓮寺の近くには毛利に殺された尼子の遺臣・山中鹿之助の首塚がある。
そして港近くの小山の上には歴史民俗資料館がありますが、ここは元“鞆城”があった所です。
 鞆城跡
鞆城は戦国期、足利幕府最後の将軍・足利義昭が鞆の御所として起居した場所です。
ここから見た鞆の浦の景色は素晴らしい。義昭になった気分でご覧下さい。


二時間あまり鞆の浦を散策して次の目的地へ向かいました。
JR福山駅のすぐそばに位置する福山城です。
 JR福山駅のすぐ隣が城址公園
整備された石段を登り切った所に「史跡 福山城跡」の石碑。

この石碑、植え込みの方へ身を乗り出さないと読めない。
なんでこんな方向をむいているのだろう?JRホームの乗客に見せる為としか思えない…

この福山城の天守は太平洋戦争で焼失しましたが、焼失を免れた遺構はあります。
上の写真の左が国指定重文・伏見櫓。一階と二階部の幅が同じなのが特徴。
京都の伏見城松の丸にあった櫓を移築したと云われています。
そして右の写真も国指定重文の筋鉄御門。この門をくぐると天守前の広場に出ます。

広場に出るといきなり天守…なのですが、
まずはその広場の周辺にある建築物をご紹介しておきます。
 市指定の重要文化財・鐘櫓
 御湯殿
この御湯殿も伏見櫓同様、伏見城から移築された建物で国宝でしたが、
戦禍により焼失、昭和41年に天守閣と一緒に再建されたもの。
 月見櫓
伏見櫓と対を成す月見櫓ですが、これも伏見城から移築されたもので、
明治初年の廃城令の際に破却されたが、昭和41年に再建されています。
赤い欄干が特徴ですが、はめられたガラス窓が趣を損なっているなぁ…

現状の福山城は外堀が完全に失われていて市街地に吸収されています。
往時は付近を流れる芦田川までを掘割の一部に利用していたようです。

銅像は築城された頃の城主である水野勝成です。
水野勝成は徳川家康の従兄弟で、その後5代の間この地を治めていきます。
この銅像の勝成  どこかで見た事のある顔だな~。
あ、吹越満に似てるんだ!

一通り見て回った最後に博物館となっている天守閣へ。

広場の中央にあるのは幕末の幕府老中・阿部正弘御手植えの松。
水野家5代の後、松平家が一代、その後幕末まで阿部家がこの福山藩を治めたのです。
 天守右側面
 天守背面
全体的に漆喰の白色が目立つのは徳川親藩の城らしさ。

天守内へは入館料200円を支払い地階から順に見学しました。
場内は撮影禁止なので写真はありませんが、地階は往時の福山城の模型が展示されていました。
そこから一階江戸末期・明治の書や日本画、二階に阿部家の頃の書や甲冑武具、
三階に水野家の頃の甲冑武具が展示され、四階は中世、
中四階は古代の土器や石器が展示されているという逆時系列の展示になっていました。
普通は逆だけど、ちょっと変わってるな。

そして最上階は展望台。
 天守最上階からの眺め
 最上階には水野家の家紋・丸に抱き沢瀉が
天守自体は昭和41年の鉄筋コンクリート造りなので歴史的な趣はない。
欄干の朱色もかなり退色していてそろそろお色直しが必要だと思いました。

今回の鞆の浦&福山ツアー、天候に恵まれ満足です。
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