西京極 紫の館

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戦国武将のお宅訪問 58 - 戸田氏鉄 / 尼崎城 -

2023年08月05日 16時38分10秒 | お城探訪
連日猛暑を超えた酷暑が続いていますが「城が見てぇ!」の衝動が抑えきれず敢えて酷暑の中、近場のお城探訪に出かけました。出かけた先は平成ラストの31年(2019)に復元された尼崎城です。

京都からは車でも電車でも1時間弱。駅ホームからも見える復元天守ですが、元々お城があった場所から100mほど離れています。旧城址は後回しにして、まずは新造された復元天守の周囲を観て回りましょう。

この新造天守はここ尼崎の地で創業した旧ミドリ電化の社長・安保詮氏が私財を投じて建造したもの。完成後に市に寄贈されたそうです。天守の北側は公園になっていて遊具なども設置されています。

尼崎城は徳川家康が幕府直轄地で西国支配の要所でもある大坂城を防御支援する要の城として元和3(1617)年に建てられました。築城を任されたのは近江膳所から転封された戸田氏鉄。そう、のちに大垣城の城主になる譜代大名です。膳所といい、尼崎といい、大垣といい、要地ばかりを任されているとは、家康はよほどこの氏鉄を信頼していたのですね。
北西角側から見た天守
4層4階の天守には3種の破風が縦に設けられており、東西南北どの方向から観てもバランスが良く、美しい。城北側の公園と城を仕切るような形で鉄砲狭間が配置されています。

尼崎駅周辺の高層ビルが遠望でき、歴史の今昔を感じます。
北東角側から見た天守
城内部への入口は天守の東側にあり、その前は結構広い人工芝広場になっています。暑過ぎて誰も遊んでませんでしたがw

では満を持して城内へ。入城料は大人500円。開場時間は朝9時から夕5時。

コンクリート造りの内部は真新しく超清潔な印象。1階はチケット売り場でパンフもここでもらう。そしてチケットを買ったら城内に設置されたエレベーターで最上階である5階へ行くように案内されます。エレベーターはドアが木造の門扉っぽくマスキングされています。

このエレベーターで昇った5階は展望ゾーン。四方にある窓はすべて閉め切られていて冷房が効いていて超快適。まだ新しいのでヒノキ材(かな?)の良い香りもしています。ここから南方向には大阪湾、西方向には多くの寺がある寺町街が観えます。
5階展望ゾーン
階段で降りた4階はギャラリーになっていて、城とはま~ったく無関係のセサミストリートのパネルが飾ってありました。なんでここでやる?って感じでした。さらに降りて3階は甲冑や着物に着替えて撮影できるなりきり体験ゾーン。見学に来た子供たちが畳敷きの広間の上で寝っ転がってましたw
2階尼崎城ゾーン
2階がいわゆる資料展示エリアで、VRを駆使して江戸時代の尼崎の城下町を体験できる施設になっています。火縄銃や刀、弓、槍などのレプリカが展示してあり、手に取って実際の重みを体感する事が出来ます。説明員の女性が丁寧に対応して下さいましたので、歴史好きが観るならこの階だけで十分でしょう。500円払う価値があるかどうかはビミョーではありますが、そこはお城へのお布施という事で♪
鯱瓦のレプリカ
説明員の女性のお話では、この復元天守だけではなく、野面積みっぽい天守台の石垣も新たに作ったものだとの事。石は淡路島から運んだのだそう。そりゃあ大工事だ。ミドリ電化の社長、大名並みに凄いナ。

戸田氏鉄の像が展示されているのかと思いきや…松潤(どうする家康)像でしたw

お城を一通り観て回ったので、一階でもらった街マップを片手に旧城址を探しに行くことにしました。冷房の効いてる城から出たら地獄のような暑さ。大汗をかきながら向かった先は元のお城が建っていたのは南東へ100mほど離れた場所。昔は小学校、今は歴史博物館になっていて「本丸跡」の石碑がありました。
本丸跡の石碑
そして、新しく今も使われている小学校のグラウンドの南西角にも「尼崎城址」の碑が残っていました。


そこから西方向へ進んでいくと多くのお寺が集積されている寺町エリアがあります。この辺りは街並みもかなり情緒があってこの地獄のような暑ささえなければ、そぞろ歩くには良いロケーションです。この界隈でもひときわ立派な寺院である本興寺。やや小ぶりながら立派な三重塔がありました。
本興寺
尼崎  思っていたよりも綺麗で見所もある良い街だな~と思いました。ご興味のおありの方は是非お越し下さい。(と、尼崎市民でもないのに宣伝するw)

戦国武将のお宅訪問 57 - 筒井定次 / 伊賀上野城 -

2022年12月17日 23時09分34秒 | お城探訪
自宅から車で1時間弱で行ける近場のお城へ行ってきました。和田竜の小説『忍びの国』の舞台である伊賀国  伊賀上野城であります。

この小説では他国の雇われスパイを生業とする伊賀の地侍たちがお互いの保身の為に仲間を裏切り殺し合うという“ひとでなしの国”であると描かれていますが、事実はどうあれ地侍同士が割拠し、統率した組織が成立しなかった為、織田信長(実際に殲滅戦を行ったのは信長の息子・信雄ですが)によってそのほとんどが殲滅されたという歴史(天正伊賀の乱)があります。そんな伊賀の里ですが、2022年現在でも町のウリは“忍者”と松尾芭蕉です。芭蕉自身も忍者であり、俳句を詠みながら全国を巡っていたのも実は諸国の情勢を探る諜報活動だったのでは…と言う人もいるくらいです。城へ向かう途中には芭蕉の生家が観光名所として保存されていたりしました。(寄りませんでしたが…)

お城観光用の駐車場(駐車料600円)に車を停めて、ワンコの散歩を兼ねて天守へ向かいます。

駐車場からの道はキレイに整備されていて、この日は雨がパラつく生憎の空模様でしたが足元の心配をする必要もなく見て回れました。

伊賀上野城のウリである忍者屋敷。イイ感じのかやぶきの家ですが、中にはどんでん返しの壁やら隠し階段などの仕掛けがあちらこちらに設えられているそうです。(入場料は大人800円とちょっとお高め…)僕はイヌ連れなので入れませんでしたが、1日3~4回忍者の実演ショーが開催されていて、その掛け声が外まで響き渡ってました。その声にイヌがビビリまくってましたww

忍者屋敷を横目に進むと個性的なデザインのでっかいお堂がありました。このお堂、俳聖殿と言いまして、芭蕉の旅姿を模したお堂だそうです。県指定の重要文化財とのことで、以下がその説明看板。

お堂の中を覗き込んでみると奥の方に仏様のような像が安置されていました。これ、伊賀焼で造った芭蕉像らしい。

俳聖殿の脇にはこちらも風情のあるかやぶきの立派な門があります。この門も県の重要文化財のようです。その門を潜って右手へ回ると今度は左手に石段があり、それを上ると広場の奥に模擬天守が見えてきます。
天守右側面
この模擬天守、昭和10年(1935)地元の代議士・川崎克が私財を投じて建てたもので、純木造。天守は層塔型三層三階でそれに連結する小天守は二層二階建て。
小天守
おそらくこの天守は筒井定次時代のものを再現しようとしたのだと思われますが、筒井氏の後、伊賀国に入った藤堂高虎が大規模な改修を行い五層五階の大天守を建てる為に石垣もそれ用に大きくしたようです。その五層の天守は竣工直前に暴風により倒壊。その後徳川家康の天下となってからは城普請禁止の布告がなされ再建されることはなかったとの事。五層用の石垣に三層の天守が乗っかっているのでちょっと見た目的にはアンバランスな感じもします。ここも内部が資料館となって有料(大人600円)で見学可能ですが、イヌ連れなので入れず外観を眺めつつ一周してみました。
天守左側面
天守背面
天守の右手側にはこの城跡のもうひとつの見どころである高石垣が観られます。

案内板には「日本で1、2を争う規模の石垣」と書かれていました。なんやその奥歯にモノのはさまったようなビミョーな表現は…?でも実際この石垣の頂上から足元の堀を見下ろしてみると…おおっ、これはなかなか怖い!

雨と泥で汚れたワンコを高石垣脇の石の上でフキフキしつつ…

う~ん、こりゃあ立派な石垣だわ。この辺の普請は築城の名人高虎らしい仕事ですな。

模擬天守と高石垣を堪能した後、大手門側へ回り込んでみます。

きれいに整備された石段を右手に上ると、そこには城代屋敷の跡がありました。

この芝生の広場が藤堂高虎転封後、天領となった伊賀上野の城代が住んだお屋敷跡。庭には池もあったようです。今はただ間取りを示す白線が引かれ、「玄関」とか「広間」とか説明板が置かれているのみです。この写真中央奥には模擬天守が見えています。

観るものは一通り観終わったので、雨脚が若干強まる中、駐車場に戻ります。その道すがらきれいに色づいた紅葉があったので写メっときました。



今回はイヌ連れだったので忍者屋敷も天守にも、芭蕉記念館にも入れませんでしたが、また機会があれば観てみたいですね。
ニンニン

戦国武将のお宅訪問 56 - 徳川家康 / 駿府城 -

2022年08月31日 23時38分21秒 | お城探訪
サンガの日本平遠征のついでにお約束のお城見学。今回は日本平からほど近い駿府城です。

駿府城を築城したのは徳川家康。元々この駿河を治めていたのは今川家でしたが、当主・今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれた後、一時は武田領となり、その後家康が治める事となりました。その時期に家康の本拠として本格城郭に整備されたのが駿府城です。さらに豊臣秀吉が天下統一を遂げると、家康が領していた駿遠三の東海三国と甲斐は召し上げとなり、関東五か国への転封を命じられます。

天正18年、代わりにこの駿府城に入ったのが秀吉子飼い大名の中村一氏。一氏は関ケ原合戦の直前に病死するのだが、中村家自体は家康に味方した功で伯耆国米子へ加増転封される。(のち慶長14年、一氏の嫡子・一忠が急死して中村家は断絶する。)そして慶長12年、天下人となった家康は将軍職を息・秀忠に譲ると“大御所”としてふたたび駿府城へ戻ってきます。この慶長期の天下普請で北西部に五重七階の天守が築かれたようです。その天守も家康の死後、火災により焼失。以後天守は築かれる事はありませんでした。

城跡北西の外堀近くの駐車場に車を停め、外堀を越えて内堀北西角へ。そこから見た東方向の景色がコレ。

天守が現存していればこの北西角にそびえ立っていたはず。(静岡市で再建してくれんかな、天守?)

そのまま東方向へ内堀沿いに徒歩移動。内堀周辺には静岡市の官庁や学校が立ち並んでいます。途中に搦手門らしき北門橋がありましたが、そこはスルー。お城好きとしてはやはり正面から入りたいからね。そのまま内堀沿いに南進すると駿府城の東南角に正門である東御門が見えてきます。
東御門と奥が巽櫓
そして東御門に架かる橋の袂には駿府城の案内板が設置されています。

橋を渡ると平成8年(1996年)に復元された東御門。

コレをくぐって振り返ると門を支える立派な梁二本が…

城の内側から東御門を見るとこんな感じ。めっちゃ立派な門です。内部は「駿府城の一生」と題した最新調査結果の展示がされているようでしたが有料(200円)なので(あんまり試合まで時間の余裕もなかったし)今回はパス。城跡内は芝が植えられ、植樹されて公園として整備されています。内堀沿いの櫓以外に建築物はほとんどありません。
場内の案内図
正直言うと、駿府城は天下泰平となってから築かれた城なのでほとんど要塞としての工夫はありません。攻められる恐れはない家康の隠居城らしい造り。唯一建物っぽかったのが紅葉山庭園。
紅葉山庭園入口
ここも入るのに別料金(150円)が必要。今は夏なので紅葉はないよね。パス!パス!

そのまま庭園を左回りに散策していくと天守台跡がある北西部は工事中。どうやら天守台の発掘調査が進んでいる模様。その工事区域の手前にあるのが家康公お手植えのミカンの木。

紀州から持って来たものらしく県指定の天然記念物との事。

そのミカンの木のすぐそばには鷹を手にした大御所家康の像が。


家康像の後方、工事区画も一部ですが見学出来ました。

手前の赤いコーンが置かれている所が天正期の天守台入口。奥のシートがかかっているのが天守台。中央奥の黄色いコーンの辺りが今川期の館跡らしい。家康は自分を人質に取っていた今川家が憎かったのだろう。今川館を破却してその上に自分の天守を築いたようだ。

この緑のコーンの場所には慶長期の天守南面があったとの事。天正期の天守からかなり南側へ位置が変わっている。工事区画内にはプレハブの小屋が建てられていて、発掘調査中に発見された瓦などが展示されていました。

最後に城址南西の坤(ひつじさる)櫓へ向かいます。
坤櫓
この坤櫓は平成26年に伝統的な吹き抜け構造の木造建築で復元されたもの。ここも内部を有料(100円)で見学可ですが、パス。なんつーか、やたら個別に金取るな、ココ。

内堀越しに見ると、東御門傍にあった巽櫓に比べるとかなり凝った意匠だとよく解ります。
内堀越しに見る坤櫓

家康にとって今川家の人質として苦労した幼年期を過ごした駿府の地は、出生本領である三河国岡崎と共に特別なこだわりの地だったのでしょう。「死ぬならココで」と決めていたに違いありません。海の幸にも山の幸にも恵まれた温暖な地は、老後を穏やかに過ごす場所としては最適だったのかもしれませんね。家康の最期が穏やかだったかどうかは定かではありませんが…

戦国武将のお宅訪問 55 - 毛利輝元 / 広島城 -

2022年05月24日 18時04分33秒 | お城探訪
サンガ12年ぶりのJ1復帰で、待ちに待った広島遠征。試合の方は…デシタが、試合後ちょっと広島市街へ寄り道して久々のお城巡りに行きました。広島城は、中学校の卒業旅行で友人と一緒に来て以来今回が2度目です。

この広島城。戦国時代の中国の覇者・毛利氏の本拠として文禄元年(あるいは慶長4年とも言われる)に当時の当主であった輝元が築いた平城。なのですが、築城途中で起きた関ケ原の合戦で西軍についた毛利家は敗者となり、勝者・徳川家康の命で長門・萩への転置減封。築城作業は毛利氏の後に入国した福島正則に引き継がれ、正則が近世城郭としての広島城を完成させました。その正則も幕府の許可を得ず石垣修復した咎を受け、領地没収。以後、浅野氏が安芸国・広島城に入り、明治維新を迎える事となります。


これが平成元年から3年かけて復元された二の丸の建物群で城跡の東南角に位置する平櫓。案内板を見ても解かりますが、二の丸自体が本丸を防御する“出丸(馬出)”の形になっているのが特徴。

その二の丸エリアへ入る為の御門橋。それを渡った先には表御門があります。今、広島城内には門はコレしかありませんが、元は十二の門があったそうです。
御門橋の先には表御門
表御門を潜って右手に平櫓や多聞櫓、太鼓櫓などの復元建築物内部を見学出来る出入口があります。ココは無料。
平櫓内は畳敷き
多聞櫓内に展示されていた鯱レプリカ
太鼓櫓は一階部分は見学出来ましたが、二階には上がれず。階段の脇に太鼓だけが置かれていました。


太鼓櫓から二の丸跡を臨む。

二の丸跡には番所跡やら馬場跡やらがありました。
二の丸広場から見た太鼓櫓

二の丸広場から本丸エリアへ渡る。途中には立派なユーカリの樹がありました。このユーカリ、被爆しているらしい。すごい生命力。

本丸内には護国神社があって、ここの狛犬(?なのかそうでないのか?)がちょっと変わってて、頭にツノが生えてます。護国神社を通り過ぎ、イイ感じの公園を抜けると天守が見えてきます。(記事冒頭の写真)

太平洋戦争まで現存していた旧広島城天守は国宝に指定されていましたが、言うまでもなく広島に原爆投下された際、天守は石垣を残して跡形もなく吹っ飛んでいます。(あ~戦争はイヤだ、イヤだ!)現在の天守は旧天守の意匠を忠実に再現はしていますが鉄筋コンクリート製。五層望楼型の外観はどことなく大坂城に似ていて僕好み。漆喰部分より板張り部分の方が多く、大坂城に比べるとシブいが、ソレもイイ。

天守内部は甲冑や書画・刀槍など工芸品、さらに広島城の歴史を解説する資料などが展示されていました。基本的には全館撮影禁止でしたが、唯一撮影可だったのが上のゆるキャラ“しろうニャ”の展示スペース。なんでネコなのかは不明。天守に入るのは有料で大人370円。65才以上のシニアと高校生は180円で中学生以下は無料。

天守の最上階から南西方向を臨む。マンションの先に立ち並ぶタワークレーン群がありますが、ココは広島カープの昔の本拠地・広島市民球場跡で、今建築しているのは2024年春完成予定の新サッカー専用スタジアム。完成した暁には是非遠征したい!っていうか、その時までJ1に残留し続けねば!!


城見学を一通り終えて帰る途中にあったのは、所得倍増計画をブチ上げた地元広島出身の政治家・池田勇人の銅像。同じ広島出身の総理大臣としてキッシーもココに銅像建てて欲しいのかにゃ?減税してくれたら建ててもらえるかもしれにゃいにょww

復元された多聞櫓と太鼓櫓を堀の外から臨む

戦国武将のお宅訪問 54 - 佐竹義宣 / 久保田城 -

2021年04月01日 20時33分26秒 | お城探訪
昨年J2昇格を果たしたブラウブリッツ秋田と対戦するサンガの応援の為、800km超の距離を大遠征。そのついで、と言っては何ですが、秋田のホーム・ソユースタジアムからほど近くにある久保田城を見学しました。地図だけで見ると歩いてすぐという印象だったのですが、実際スタジアムの駐車場からお城のある千秋公園までは歩くと結構遠かった…(苦笑)

久保田城は佐竹氏が慶長9(1604)年に築いた城です。この秋田藩の初代藩主となった佐竹義宣は、関ケ原の合戦に際し敗れた西軍側に味方したせいで常陸水戸54万石を徳川家康に召し上げられ、戦後この出羽秋田20万石へ大減封された誠にツイてないお殿様(奇しくも佐竹の旧領だった常陸水戸が今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の舞台)。お金が足りないのか?それとも徳川への遠慮からか?この城には築城当初から天守はありません。代わりに本丸を囲むように8つの隅櫓が築かれていたようです。今はその内の1つ北西部の御隅櫓が復元されています。またこの城には石垣がないというのが大きな特徴です。

まず千秋公園南西部にある池。綺麗に整備されてはいますが、ここから二の丸へ通じる道は工事中で通行不可。やむを得ず池を迂回する細い階段を上って鐘楼台まで移動します。この階段、結構傾斜があってキツい。ちょっと息上がる。
鐘楼
上った先にあるこの鐘楼。鐘自体は太平洋戦争で供出され、今架かっているのは戦後新たに鋳造されたもの。楼台もコンクリ製なので特に趣がある訳ではありません。ちょっと残念。

ここからも先ほど上って来たのと同じ細い階段で城山の頂上へ行けるのですが、折角なので城山の北側へ回り込んでみます。
案内板
途中に案内板があったけど、日に焼けて色が薄くなっちゃってて読み難い!新しくしてっ!とかなんとか言ってる内に掻き上げた土塁の上に復元された御隅櫓が見えてきます。






さて、櫓の所まで上ってみましょう。
御隅櫓北面
この復元された御隅櫓、もちろんこれもコンクリ製ではありますが、望楼まであって小さな天守と言っても良いくらい立派な造りです。この辺は名門・佐竹の意地…なのでしょうか?
御隅櫓東面
御隅櫓の内部は歴史資料が展示されていて観覧可能(観覧料100円)なのですが、この3月末まで休館していて入れませんでした。ものすご~く残念!!ですが千秋公園で最も高所にあるこの御隅櫓から見下ろした庭園は中々見事でした。池と同様、かなりしっかりと整備されています。

この庭園は本丸跡で、そこには幕末秋田藩最後の12代藩主・佐竹義堯(よしたか)公の銅像が建っています。
本丸跡

幕末戊辰戦争の時、佐竹藩は薩長側に味方したので、旧幕府に味方する周辺の奥羽諸藩連合軍に攻め立てられています。ですがこの維新戦に薩長方が勝利した事により、義堯は初代秋田県知事の地位を得ます。関ケ原でご先祖様が受けた徳川への恨みを晴らしたと言えるでしょう。しかしこの銅像も前述した鐘と同様、太平洋戦争で供出されたそうで、今の銅像は戦後再建したものです。戦争はイヤですね~。ここには八幡秋田神社が祀られているのですが、「どうかサンガに勝ち点3を!」とお願いしたにもかかわらず、その結果はムニャムニャムニャ…

この本丸跡から二の丸跡へつながる所にあるのが久保田城の表門。こちらも戦後に復元したものです。
久保田城表門
この門もかなり立派な門で佐竹家の家紋である“日の丸扇”があしらわれています。この門を下ると二の丸広場になりますが、その手前に久保田城内で唯一残っている藩政時代の建築物・御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)があります。今で言うところの“守衛所”でしょうか。
御物頭御番所
残念ながらこの日は戸が閉め切られていて内部を見る事は出来ませんでした。ですが、ここまで見て回っての個人的な感想は、天守も石垣もないけれど土塁は高く、道は複雑。見た目よりも攻め難い城だなという印象を受けました。

そして最後に二の丸跡。この広場の周囲には数多くのソメイヨシノが植わっていました。僕らが訪れた3月末では秋田の桜はまったく咲いていませんでしたが、あと半月もして満開になったらさぞや美しい光景になるだろうな…そんな事を思いました。