西京極 紫の館

サッカー観戦、映画や音楽鑑賞、読書などなど、
日々のなんやらかんやらを書いてみようかな、と♪

戦国武将のお宅訪問 56 - 徳川家康 / 駿府城 -

2022年08月31日 23時38分21秒 | お城探訪
サンガの日本平遠征のついでにお約束のお城見学。今回は日本平からほど近い駿府城です。

駿府城を築城したのは徳川家康。元々この駿河を治めていたのは今川家でしたが、当主・今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に討たれた後、一時は武田領となり、その後家康が治める事となりました。その時期に家康の本拠として本格城郭に整備されたのが駿府城です。さらに豊臣秀吉が天下統一を遂げると、家康が領していた駿遠三の東海三国と甲斐は召し上げとなり、関東五か国への転封を命じられます。

天正18年、代わりにこの駿府城に入ったのが秀吉子飼い大名の中村一氏。一氏は関ケ原合戦の直前に病死するのだが、中村家自体は家康に味方した功で伯耆国米子へ加増転封される。(のち慶長14年、一氏の嫡子・一忠が急死して中村家は断絶する。)そして慶長12年、天下人となった家康は将軍職を息・秀忠に譲ると“大御所”としてふたたび駿府城へ戻ってきます。この慶長期の天下普請で北西部に五重七階の天守が築かれたようです。その天守も家康の死後、火災により焼失。以後天守は築かれる事はありませんでした。

城跡北西の外堀近くの駐車場に車を停め、外堀を越えて内堀北西角へ。そこから見た東方向の景色がコレ。

天守が現存していればこの北西角にそびえ立っていたはず。(静岡市で再建してくれんかな、天守?)

そのまま東方向へ内堀沿いに徒歩移動。内堀周辺には静岡市の官庁や学校が立ち並んでいます。途中に搦手門らしき北門橋がありましたが、そこはスルー。お城好きとしてはやはり正面から入りたいからね。そのまま内堀沿いに南進すると駿府城の東南角に正門である東御門が見えてきます。
東御門と奥が巽櫓
そして東御門に架かる橋の袂には駿府城の案内板が設置されています。

橋を渡ると平成8年(1996年)に復元された東御門。

コレをくぐって振り返ると門を支える立派な梁二本が…

城の内側から東御門を見るとこんな感じ。めっちゃ立派な門です。内部は「駿府城の一生」と題した最新調査結果の展示がされているようでしたが有料(200円)なので(あんまり試合まで時間の余裕もなかったし)今回はパス。城跡内は芝が植えられ、植樹されて公園として整備されています。内堀沿いの櫓以外に建築物はほとんどありません。
場内の案内図
正直言うと、駿府城は天下泰平となってから築かれた城なのでほとんど要塞としての工夫はありません。攻められる恐れはない家康の隠居城らしい造り。唯一建物っぽかったのが紅葉山庭園。
紅葉山庭園入口
ここも入るのに別料金(150円)が必要。今は夏なので紅葉はないよね。パス!パス!

そのまま庭園を左回りに散策していくと天守台跡がある北西部は工事中。どうやら天守台の発掘調査が進んでいる模様。その工事区域の手前にあるのが家康公お手植えのミカンの木。

紀州から持って来たものらしく県指定の天然記念物との事。

そのミカンの木のすぐそばには鷹を手にした大御所家康の像が。


家康像の後方、工事区画も一部ですが見学出来ました。

手前の赤いコーンが置かれている所が天正期の天守台入口。奥のシートがかかっているのが天守台。中央奥の黄色いコーンの辺りが今川期の館跡らしい。家康は自分を人質に取っていた今川家が憎かったのだろう。今川館を破却してその上に自分の天守を築いたようだ。

この緑のコーンの場所には慶長期の天守南面があったとの事。天正期の天守からかなり南側へ位置が変わっている。工事区画内にはプレハブの小屋が建てられていて、発掘調査中に発見された瓦などが展示されていました。

最後に城址南西の坤(ひつじさる)櫓へ向かいます。
坤櫓
この坤櫓は平成26年に伝統的な吹き抜け構造の木造建築で復元されたもの。ここも内部を有料(100円)で見学可ですが、パス。なんつーか、やたら個別に金取るな、ココ。

内堀越しに見ると、東御門傍にあった巽櫓に比べるとかなり凝った意匠だとよく解ります。
内堀越しに見る坤櫓

家康にとって今川家の人質として苦労した幼年期を過ごした駿府の地は、出生本領である三河国岡崎と共に特別なこだわりの地だったのでしょう。「死ぬならココで」と決めていたに違いありません。海の幸にも山の幸にも恵まれた温暖な地は、老後を穏やかに過ごす場所としては最適だったのかもしれませんね。家康の最期が穏やかだったかどうかは定かではありませんが…

戦国武将のお宅訪問 55 - 毛利輝元 / 広島城 -

2022年05月24日 18時04分33秒 | お城探訪
サンガ12年ぶりのJ1復帰で、待ちに待った広島遠征。試合の方は…デシタが、試合後ちょっと広島市街へ寄り道して久々のお城巡りに行きました。広島城は、中学校の卒業旅行で友人と一緒に来て以来今回が2度目です。

この広島城。戦国時代の中国の覇者・毛利氏の本拠として文禄元年(あるいは慶長4年とも言われる)に当時の当主であった輝元が築いた平城。なのですが、築城途中で起きた関ケ原の合戦で西軍についた毛利家は敗者となり、勝者・徳川家康の命で長門・萩への転置減封。築城作業は毛利氏の後に入国した福島正則に引き継がれ、正則が近世城郭としての広島城を完成させました。その正則も幕府の許可を得ず石垣修復した咎を受け、領地没収。以後、浅野氏が安芸国・広島城に入り、明治維新を迎える事となります。


これが平成元年から3年かけて復元された二の丸の建物群で城跡の東南角に位置する平櫓。案内板を見ても解かりますが、二の丸自体が本丸を防御する“出丸(馬出)”の形になっているのが特徴。

その二の丸エリアへ入る為の御門橋。それを渡った先には表御門があります。今、広島城内には門はコレしかありませんが、元は十二の門があったそうです。
御門橋の先には表御門
表御門を潜って右手に平櫓や多聞櫓、太鼓櫓などの復元建築物内部を見学出来る出入口があります。ココは無料。
平櫓内は畳敷き
多聞櫓内に展示されていた鯱レプリカ
太鼓櫓は一階部分は見学出来ましたが、二階には上がれず。階段の脇に太鼓だけが置かれていました。


太鼓櫓から二の丸跡を臨む。

二の丸跡には番所跡やら馬場跡やらがありました。
二の丸広場から見た太鼓櫓

二の丸広場から本丸エリアへ渡る。途中には立派なユーカリの樹がありました。このユーカリ、被爆しているらしい。すごい生命力。

本丸内には護国神社があって、ここの狛犬(?なのかそうでないのか?)がちょっと変わってて、頭にツノが生えてます。護国神社を通り過ぎ、イイ感じの公園を抜けると天守が見えてきます。(記事冒頭の写真)

太平洋戦争まで現存していた旧広島城天守は国宝に指定されていましたが、言うまでもなく広島に原爆投下された際、天守は石垣を残して跡形もなく吹っ飛んでいます。(あ~戦争はイヤだ、イヤだ!)現在の天守は旧天守の意匠を忠実に再現はしていますが鉄筋コンクリート製。五層望楼型の外観はどことなく大坂城に似ていて僕好み。漆喰部分より板張り部分の方が多く、大坂城に比べるとシブいが、ソレもイイ。

天守内部は甲冑や書画・刀槍など工芸品、さらに広島城の歴史を解説する資料などが展示されていました。基本的には全館撮影禁止でしたが、唯一撮影可だったのが上のゆるキャラ“しろうニャ”の展示スペース。なんでネコなのかは不明。天守に入るのは有料で大人370円。65才以上のシニアと高校生は180円で中学生以下は無料。

天守の最上階から南西方向を臨む。マンションの先に立ち並ぶタワークレーン群がありますが、ココは広島カープの昔の本拠地・広島市民球場跡で、今建築しているのは2024年春完成予定の新サッカー専用スタジアム。完成した暁には是非遠征したい!っていうか、その時までJ1に残留し続けねば!!


城見学を一通り終えて帰る途中にあったのは、所得倍増計画をブチ上げた地元広島出身の政治家・池田勇人の銅像。同じ広島出身の総理大臣としてキッシーもココに銅像建てて欲しいのかにゃ?減税してくれたら建ててもらえるかもしれにゃいにょww

復元された多聞櫓と太鼓櫓を堀の外から臨む

戦国武将のお宅訪問 54 - 佐竹義宣 / 久保田城 -

2021年04月01日 20時33分26秒 | お城探訪
昨年J2昇格を果たしたブラウブリッツ秋田と対戦するサンガの応援の為、800km超の距離を大遠征。そのついで、と言っては何ですが、秋田のホーム・ソユースタジアムからほど近くにある久保田城を見学しました。地図だけで見ると歩いてすぐという印象だったのですが、実際スタジアムの駐車場からお城のある千秋公園までは歩くと結構遠かった…(苦笑)

久保田城は佐竹氏が慶長9(1604)年に築いた城です。この秋田藩の初代藩主となった佐竹義宣は、関ケ原の合戦に際し敗れた西軍側に味方したせいで常陸水戸54万石を徳川家康に召し上げられ、戦後この出羽秋田20万石へ大減封された誠にツイてないお殿様(奇しくも佐竹の旧領だった常陸水戸が今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の舞台)。お金が足りないのか?それとも徳川への遠慮からか?この城には築城当初から天守はありません。代わりに本丸を囲むように8つの隅櫓が築かれていたようです。今はその内の1つ北西部の御隅櫓が復元されています。またこの城には石垣がないというのが大きな特徴です。

まず千秋公園南西部にある池。綺麗に整備されてはいますが、ここから二の丸へ通じる道は工事中で通行不可。やむを得ず池を迂回する細い階段を上って鐘楼台まで移動します。この階段、結構傾斜があってキツい。ちょっと息上がる。
鐘楼
上った先にあるこの鐘楼。鐘自体は太平洋戦争で供出され、今架かっているのは戦後新たに鋳造されたもの。楼台もコンクリ製なので特に趣がある訳ではありません。ちょっと残念。

ここからも先ほど上って来たのと同じ細い階段で城山の頂上へ行けるのですが、折角なので城山の北側へ回り込んでみます。
案内板
途中に案内板があったけど、日に焼けて色が薄くなっちゃってて読み難い!新しくしてっ!とかなんとか言ってる内に掻き上げた土塁の上に復元された御隅櫓が見えてきます。






さて、櫓の所まで上ってみましょう。
御隅櫓北面
この復元された御隅櫓、もちろんこれもコンクリ製ではありますが、望楼まであって小さな天守と言っても良いくらい立派な造りです。この辺は名門・佐竹の意地…なのでしょうか?
御隅櫓東面
御隅櫓の内部は歴史資料が展示されていて観覧可能(観覧料100円)なのですが、この3月末まで休館していて入れませんでした。ものすご~く残念!!ですが千秋公園で最も高所にあるこの御隅櫓から見下ろした庭園は中々見事でした。池と同様、かなりしっかりと整備されています。

この庭園は本丸跡で、そこには幕末秋田藩最後の12代藩主・佐竹義堯(よしたか)公の銅像が建っています。
本丸跡

幕末戊辰戦争の時、佐竹藩は薩長側に味方したので、旧幕府に味方する周辺の奥羽諸藩連合軍に攻め立てられています。ですがこの維新戦に薩長方が勝利した事により、義堯は初代秋田県知事の地位を得ます。関ケ原でご先祖様が受けた徳川への恨みを晴らしたと言えるでしょう。しかしこの銅像も前述した鐘と同様、太平洋戦争で供出されたそうで、今の銅像は戦後再建したものです。戦争はイヤですね~。ここには八幡秋田神社が祀られているのですが、「どうかサンガに勝ち点3を!」とお願いしたにもかかわらず、その結果はムニャムニャムニャ…

この本丸跡から二の丸跡へつながる所にあるのが久保田城の表門。こちらも戦後に復元したものです。
久保田城表門
この門もかなり立派な門で佐竹家の家紋である“日の丸扇”があしらわれています。この門を下ると二の丸広場になりますが、その手前に久保田城内で唯一残っている藩政時代の建築物・御物頭御番所(おものがしらごばんしょ)があります。今で言うところの“守衛所”でしょうか。
御物頭御番所
残念ながらこの日は戸が閉め切られていて内部を見る事は出来ませんでした。ですが、ここまで見て回っての個人的な感想は、天守も石垣もないけれど土塁は高く、道は複雑。見た目よりも攻め難い城だなという印象を受けました。

そして最後に二の丸跡。この広場の周囲には数多くのソメイヨシノが植わっていました。僕らが訪れた3月末では秋田の桜はまったく咲いていませんでしたが、あと半月もして満開になったらさぞや美しい光景になるだろうな…そんな事を思いました。

戦国武将のお宅訪問 53 - 明智光秀 / 丹波亀山城 -

2020年01月26日 18時40分52秒 | お城探訪
先週、京都サンガF.C.の新スタジアムが亀岡駅北口に完成、その見学に行ったついでに丹波亀山城址も見学してきました。

亀山城は天正5 年(1577)、明智光秀が丹波攻略の拠点とするために築いた城。保津川とその流域の湿地帯を北の天然の堀とした丘陵(荒塚山)に築かれたが、そのわずか5 年後に光秀が主君・織田信長を討つ「本能寺の変」が起こった。その後、光秀が天王山の戦いに敗れ討ち死に。その後は秀吉の甥である羽柴秀勝に譲られ、小早川秀秋や前田玄以らの手を経て、徳川政権下の岡部長盛が治め、形原松平氏の時に維新を迎えた。維新を迎えた時には藤堂高虎が築いた五層天守があったようだが、御多分に漏れず廃城令が発布された時に完全に破却された。あ~もったいない。

なぜ「亀岡」なのに「亀山城」なの?と思っていたが、徳川期に伊勢の亀山城と区別する為にこちらを「亀岡城」と呼ばせたらしい。叛臣・光秀の城だからお前の方が名前変えろって事だろうが、考えてみれば酷い話。現在は呼称を「亀山城」に戻されてるけど、地名自体は「亀岡」のままなんだね。

そのJR亀岡駅南口を出て、バスターミナルをそのまま南進すると東西に長い池がある南郷公園に行き着く。その入口には亀山城の鯱のレプリカと明智光秀の銅像がお出迎えしてくれる。
 南郷公園入口に立つ明智光秀像
大河ドラマ『麒麟がくる』で光秀を演じる長谷川博己とはかな~りイメージの違う大人しい印象の光秀像である。こっちの方が実像に近いんだろうな。

その南郷池。水鳥があちこちで羽を休めていたり、近所の人が釣り糸をたらしていたりと、長閑な雰囲気。この池がひょっとしたら亀山城の内堀なのかもしれません。
 南郷池
南郷池に沿って東方向へ迂回し、橋を渡ると城址の入口らしき門があります。門柱には「おほもと」と書かれた表札が掛けられている。実はこの亀山城址、宗教法人「大本」の本山施設になっている。
 城の大手門?“大本”入口
「大本」は明治末期に作られた神道系宗教で、その教主輔である出口王仁三郎氏が城址を買い取って破却され荒れ放題だった石垣をたった一人で組み直し、整備したという。なので光秀時代の遺構どころか、江戸期の遺構もほぼ残っていないと考えていいだろう。それにしてもこの広大な土地を独りで整備したなんて、それだけでも凄い。

社務所っぽいところで“お祓い”を受けると天守址の見学もさせてもらえるらしいけど、そこまでしたくなかったので見学しても良い所だけを見て回る事にした。


 「大本」の万祥殿
「大本」の万祥殿。周囲は綺麗に掃き清められていて足を踏み入れるのが躊躇われる。お参りの説明を読むと「三礼三拍二礼」で、一般的な神社の「二礼二拍一礼」より一回づつ多い。

 万祥殿の石垣
万祥殿に行く時に渡る橋の下をくぐると立派な石垣が組まれている。
この石垣も出口王仁三郎氏が一つ一つ積み上げていったのだと思うと、感動する。当時の軍部からかなりの弾圧を受けたという話なので、尚更すごい。
 城址の案内板

敷地内には立派な梅林もあって、ホーム開幕戦の3/1には綺麗な梅の花が咲いている事でしょう。
 木立ちの向こうに見えるのが天守址か?
搦手門にあたる裏門につながる道を往く途中で木立ちの彼方に石垣が見えます。どうやらアレが天守址っぽい。もちろん天守なんてなくて、「大本」の施設が築かれているようです。

という事で丹波亀山城の城址をスルっと通り抜けてきました。もしサンガスタジアムへ試合観戦に来られて、時間に余裕がある時は覗いてみてはどうでしょう?まぁ、遺構と言えるものはほとんどないので雰囲気だけですが…僕もいつかお祓い受けて天守址観に行くかもしれませんw

戦国武将のお宅訪問 52 - 尚巴志 / 首里城 -

2019年11月19日 21時45分43秒 | お城探訪
先月末10/31から翌11/1にかけて首里城で大規模な火災が発生。平成になって再建された正殿・北殿・南殿が焼失してしまった。サンガのアウェイ遠征で予定していた沖縄入りを一週間後に控えた時である。原因は漏電っぽいが、正式な調査はまだ継続中。火災現場である正殿エリアは未だ立ち入り禁止で見学不可だが、周辺施設だけでも観ようと足を運んだ。

先に見学した中城城跡からタクシーで20分ほど移動。沖縄都市モノレール(通称・ゆいレール)の浦添前田駅に到着。今年の春に延伸されたという真新しい駅からモノレールに乗って3つ先の首里駅へ。このモノレール、切符にQRコードが印字されていて、これで改札を通るのです。切符を入れる口がなくって自動検札機の前でちょっとオタオタしてしまいました(苦笑)
QRコードの切符
 ゆいレール
首里駅に着くと当然の如く首里城公園への案内があり、それに従って5分ほど歩くと鳥堀という場所に設けられた入口に着きます。

門が半ば閉められていましたが、進入禁止にはなっていなかったので「行けるかな?」と思い入ってみました。長い緩やかな上り坂を登り切った所で警備員さんが立っていて「この先へは行けません。県道沿いのコースに迂回して下さい」と言われた。

ここは素直に来た道を引き返し、県道29号線沿いの道を進む。

県道沿いの道を歩いていると龍潭(りゅうたん)と呼ばれるお濠というか大きな池があり、その向こう岸に首里城が見える。

その壮麗な石垣の上には火災で焼けて骨組みだけになった正殿が…。ああ無残。

龍潭を回り込むようにしてようやく首里城公園の入口に到着。

こちらが正式な入口で沖縄返還や海洋博のシンボルとして有名な守礼門があります。守礼門をくぐる前にその手前の総合案内所へ立ち寄り、設置されていた募金箱に千円を入れてきました。少額ではありますが、一日も早い復旧の足しにしてもらえれば。
 首里城公園案内板

 守礼門
守礼門は沖縄独特の瓦で葺かれ、柱は中国文化の流れを汲む琉球王朝らしい朱塗り。この門はアメリカ占領下の1958年に復元されたもの。門の上に書かれた「守禮之邦」は「琉球は礼節を重んじる国である」という意味だそう。なるほど。

守礼門をくぐってすぐ右手にある石の門。

これが世界遺産に指定されている園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門。古びてはいますが、琉球の歴史を感じさせてくれる首里城では数少ない現存建造物です。

その先へ進むと巨大な城壁と巨大な櫓を備えたアーチ門があります。

首里城の大手門にあたる歓會門(かんかいもん)です。
本来ならこの門から正殿エリアにいくのですが、当然閉じられています(涙)

歓會門の左手を行くと、沖縄のグスク特有のエッジの効いた石垣の彼方に正殿が見えます。
さらに進むと久慶門。
久慶門
ここも立ち入り禁止区域になっていて近づく事も出来ず。解ってはいたけれど、アッチも入っちゃダメ、コッチも入っちゃダメで悲しくなってしまいました。

仕方なく城の周辺文化財を見学。

まず琉球を統一した王・尚巴志が沖縄臨済宗の本山として建てた円覚寺跡。裏手に回ると寺のお庭の跡も観られました。
 円覚寺の庭

円覚寺の向かいにあるのが石の橋の架かった弁財天堂。

ここは有名な撮影スポットらしく観光客が大勢写真撮ってました。

京都へ帰ってからハンドブックを読み返して世界遺産でかつ国宝にも指定されていた玉陵を観忘れたのが悔やまれます。でも明治まで続いた琉球王朝文化の一端に触れる事は出来た気はしました。何度も言いますが、焼失した首里城が一日でも早く元の形に戻りますよう、心より願っております。