(五)理天界と三界天の説明
「天」は無極理天界と三界天(気天・象天・地獄)の二段階に区分されます。
われわれの霊(たましい)は六万余年前、無極理天から、この三界天に降下転生させられ、今に至るまで果てしない生死の波に浮き沈みしているのであります。
霊が如何なる系統を経過して循環させられているかを簡単に説明したいと思います。
元より無限の空間を地理的に線を劃(かく)すことは不可能ですが、衆生(ひとびと)に分かり易いように、特に図面で表しました。
厳密(げんみつ)に云って、真理や天界をどんなに上手に描いても、どんなに立派な言葉で比喩(ひゆ)しても、その実態を表明できないのであります。
形が無くては絵に画けないし、相が無くては言葉で表現できません。
粉飾(ふんしょく)や形容をしますと、人為的になって自然の本質から、むしろ遠離して行くものであります。
只「相を借りて理を悟る。」必要から敢(あえ)て解釈を加えることにしましたが、そこは賢明なる読者の理解に俟(ま)ちたいと思います。
キリスト教では只、天は唯一創造神の在(ま)します楽園(パラダイス)だけとし、洗礼(バプテスマ)を施された者はすべて天国に行けると云われます。
そうでない人は、人間生活を終え次第、災(も)え盛(さか)る火と硫黄(いおう)の地獄へ堕(お)ちて焼け亡ぶであろうと説かれます。
つまり人間界と神の御国と地獄を三界としました。
老子は無為、無形の境界と有為、有形の世界に分け、無為を道と云い、一(いち)とし、有為を陰陽界に分け、二とし、而して三を以て萬有(ばんゆう)を生じたと申されました。
無形を天地の始まりとし、有形を萬物の母としたのであります。
孔子は乾(けん)を天とし、坤(こん)を地とし、その上に上天があって、上天が存(ま)しまし、その載(とし)は無声無臭(むせいむしゅう)にして極まりないと申され、四時(しじ)を行い百物を生じても、何も言わないと強調されました。
つまり天地の天の上に更に上天我あると申されたのであります。
釈迦は生死流転、已(や)むことなき迷界を分類して、食、淫、睡眠の三欲が強盛(きょうせい)なる「欲界」と欲界の如き欲はないが、微妙なる形体を存する「色界」と純極楽浄土と空無辺処(くうむへんしょ)、無所有処(むしょうしょ)、非想非々想処(ひそうひひそうしょ)の「無色界」の三界と、無間(むげん)、大焦熱(だいしょうねつ)、焦熱(しょうねつ)、大叫喚(だいきょうかん)、叫喚(きょうかん)、衆合(しゅうごう)、黒縄(こくじょう)、等活(とうかつ)の八熱地獄に八寒地獄の「地獄界」が有ると説き、衆生が自ら造った悪業(あくごう)はすべて地獄に赴(おもむ)いて刑罰をうけなければならないと申されました。
無色界には無量寿(むりょうじゅ)、無量光(むりょうこう)の仏が無量寿劫(むりょうじゅごう)の昔から在(ま)しますと云われます。
これらは名称が違っても、天国、上天、無為、無色界とはすなわち老〇(ラウム)様が親しく主宰し給う、光明、自然、清浄(しょうじょう)、自在、最勝(さいしょう)の理天界であります。
各聖者も授記法伝(じゅきほうでん)によってこそ、始めて、その境界へ至ることができると力説せられていますが、今や時代が流れて正法が廃(すた)れ、聖道が失われて還源の路が途絶(とだ)えてしまいました。
教徒(きょうと)達は信ずれば自然に行けると云っていますが、複雑な三界の搦(から)み合いに、法を得ずして、生と死を超越して三界を飛び出すことは困難であります。
罪を造った人は一様に地獄、幽冥界(ゆうめいかい)へ墜落することは諸説によっても明らかであります。
人間、象天界(しょうてんかい)と地獄界の連(つなが)りは「罪造り」がある限り終局なく続くことでしょう。
善を施せば、その大小によって、富貴貧賤(ふうきひんせん)に生れ、悪を作(な)せば、亦その軽重に応じて羽(う)、毛(もう)、甲(こう)、麟(りん)の四生に分生させられ、悲劇的な宿命が大きく支配力となってわれわれを苦しめるのであります。
何れにしても人間、地獄の二界は有形無形の刑罰場であります。此処に一つの重要な境界が存在していることを力説したいと思います。
つまり「気天界(きてんかい)」であります。気天界を抜けては天界の解釈が成り立たないものであります。
孔子の云う「上天ー天ー地」の天であり、老子の示す「無為ー陽界―陰界」の陽界であり、釈迦の「無色界―色界―欲界」の色界であります。
釈迦は色界を欲界の如き婬(いん)、食、睡(すい)等の貪欲より離れているが、未だ無色界の如き、全く物質を離れ、名声を隔(へだ)てた純精神的になっていない中間的な気的世界であると申されました。
平常、われわれは教義の上では、信仰し、帰依(きえ)し、善徳を培(つちか)えば、極楽天国へ往(い)けると教えられていますが、この場合に云う、極楽天国とは気天界の誤りで天道では昔から、得道せざる限り、絶対に地上界から理天へは直接に帰れないと示し下さっております。
理由としては人間、百年の善徳は至って僅少(わずか)の数しかなく、寸善的(すんぜんてき)行為では歴世(れきせい)の罪業を洗滌(せんじょう)し尽くされず、永遠に極楽の気分を享受するに値しないと申されます。
自然的法則は極めて厳しく、為した行為の報酬しか与えぬものであります。
限定ある善徳に対する褒賞(ほうしょう)として、それ相応の期間だけに楽幸(らくこう)が授かるものであります。
この中間的階層が気天界であります。
余程、大功徳を修めた人ならば、時の明師から理天界へ直ちに救い上げられますが、大方は期限が尽きるのを待って降世し、再修練を命ぜられるものであります。
大善功者でも縁運薄く、明師に恵まれずに世を去られた人は、一応、気天を通じ、機の熟するのを待って理天に救われると申されます。
三界の輪廻は丁度「8」の字型の二つの連環作用を交互に繰り返している訳であります。
此の三界を三曹(さんそう)とも申しますが、すべて理天の管轄下(かんかつか)にあることは勿論であります。
三曹は同じ一つの繋がりを持っていますから、やがて滅尽の時期がやってまいります。
災難が起こる度毎に大きな変動を来しますし、人為的破壊力によっても影響をされます。
究極の安全地帯でない訳であります。天道降世は実に三界に大きな朗報をもたらし、起死回生の機会を与え、救い難い現状を救い、神、人、鬼共に苦悩、災厄のない理天界へ救い帰らせる役目を果たすものであります。
老〇(ラウム)様はそれを最も切望し、期待しておられるのであります。
続く