真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

性理題釋~七十四、四相と四賊

2024-01-26 19:25:37 | 性理題釋

七十四、四相と四賊

眼耳鼻舌(げんにびぜつ)を四相と申し、一身の主宰(しゅさい)者である性を輔佐(ほさ)するものであります。

もし、視(し)・聴(ちょう)・臭(しゅう)・説をするのに片寄れば、四賊(しぞく)となり、本性を傷害(しょうがい)するのであります。

故に孔子様は、四勿(よんなか)れを以て顔回を(がんかい)を戒めましたが、この理を説かれたのであります。

所謂(いわゆる)我相(がそう)をなくし、人相(にんそう)をなくす事も、亦この四相と相連(あいつら)なるもので、眼は施(ほどこ)す事を主とするので人相に相当する訳であります。

もし能く衆生(しゅじょう)を静観(せいかん)すれば皆赤子(せきし)の如く、怨親(えんしん)を択(えら)ばず、平等に済渡(さいど)するのであるから、これを人相をなくしたと名づけるのであります。

耳は静まる事を主とするので、我相(がそう)に当たります。

もし能く身は幻であることを知り、世間の無常(むじょう)なることを悟って、身命を(しんめい)を惜しまず、ただ大乗の(だいじょう)の仏の教法を悟る事が出来れば、これを名づけて我相をなくしたと申すのであります。

鼻は香を嗅(か)ぐ事を主とするので寿者相(じゅしゃそう)になります。

もし自分の無生(むせい)の実性(じつせい)をはっきりと悟るならば、心境は意識の流動に随(したが)わず、ただ方便として願力(願力)を行持(ぎょうじ)刷るので、これを名づけて寿者相(じゅしゃそう)をなくしたと申すのであります。

口は語る事を主とするので、衆生相(しゅじょうそう)になりますが、もし世間の心を了する事が出来て、永く了して更に続けば、これを名付けて衆生相をなくしたと申すのであります。

総論として、仏果を得たいと欲するならば、謹んで四相を防(ふせ)がねばなりません。もし四相が不浄(ふじょう)なれば則ち罪を犯す事限りなく、本来の面目を見る事は難しいのであります。

続く

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