(五)人生の真義
人の世の生活は愉快で楽しく素晴らしいと思う人もありましょうが、実際は非常に苦しく煩(わずら)わしいものであります。
貧乏には貧乏としての苦しみがあり、金持ちには金持ちとしての悩みがあります。
同じ苦しみでも人によって、或いは致命的であり、或いは軽微でありますが、ここに人生の寿命を平均七十五歳として、その中に楽しみと苦しみが何程(どれほど)ずつあるかを論じてみましょう。
三分の一の二十五年間は夜間の睡眠時間として、残りの五十年間に何程の苦しみがあるかを先ず述べてみたいと思います。
生存していく為に受ける種々の困難は確かに苦しみの障害です。
五十歳の初老担って愈々(いよいよ)老人の境に入りますと若い人に比べて視覚、聴覚は段々衰えていきます。
気力が日に日に衰弱し、記憶の減退や歯の脱落など次々と苦しみが身に沁(し)みて感じられます。
万病の併発、身体の故障等、相次いで起こり、或いは長年病床で呻吟(しんぎん)する様は決して楽ではありません。
死亡も亦、苦悶(くもん)の極みであります。
愛するということも身を焦がす段階になれば苦しみになります。
最愛の父母、妻子、兄弟との死別、生別も生身を割(さ)かれる思いであります。
憎悪(にくしみ)や怨恨(うらみ)も、お互いの限りない苦痛であります。
憤怒(いかり)や嫉妬(しっと)をするのもされるのも精神を痛めつけられます。
求めても得られない悩み、欲しくても思う通りに行かない焦燥(しょうそう)、才能が他人に劣る僻(ひが)み、衣、食、住の不安、災難に対する恐怖等、何一つ苦でないものはありません。
愚痴も煩悩(ぼんのう)も妄想も顛倒(てんとう)も雑念も闘争も喧嘩もみな苦しみの類(たぐい)に入ります。
私達の生涯には以上述べた苦しみをみな少なからず受けて来たか、受けなければならないものであります。
これらを除いて外に何程の楽しみと喜びが残っているでしょうか。
ほんとうに僅(わずか)なものです。
稲妻の閃光(せんこう)の如く瞬間的なものだけです。
人間の浅薄(せんぱく)な喜悦や快楽の後には必ず大きな悲哀と憂愁が待ち構えています。
他人の家庭や身分は幸福そうでこれを羨ましいと思っても、本人の立場から言わせれば、それなりに身を切られる様な苦しみがあるのです。
富貴の苦しみも貧賤の苦しみも同じように深刻な苦悩であります。
精神的、肉体的の差はあっても、本質的に苦痛は変わりありません。
こんな生活は義理やお世辞にも幸福とは言えません。
その為に宗教に入って精神の拠所を求めている人達もありますが、果たして悠久的に安心立命を得られるかは疑問です。
天道ではこれら一切の苦厄と恐怖と煩悩の因縁を洗い浄めて下さることを確信してお約束できます。
智慧の光を明らかに現わしている人には暗黒の陰影は破片(かけら)程も存在し得ないのです。
修道している人の心境と精神は已に苦しみを脱却している為、普通人の謂う苦しみは天道人には適用されません。
人生の航路は一筋の長い旅を続けているのと同じことです。
意のままに行かない種々の苦しみと悩みは限りなく私達の身辺に纏(まと)わり着いて離れません。
しかし若しここに全然苦しみと悩みを感覚しない人があるとすれば、なんと素晴らしく、全く羨ましくてあやかりたいと思いませんか。
そんな人がると信じますか。
それがあるのです。
天道を修めている人です。天道を修めている人は直接、神様の御神示に従って諸事を行っていますから苦悩は自然に解消されるのです。
人間の一生は夢であり、幻であり、泡沫(ほうまつ)であります。
仮定的、虚偽的の存在なのです。
霊の世界!これこそ私達が当然求めて到達せねばならない処であります。
ここだけが私達の真実に生きるべき境界(きょうがい)であります。
ここに帰ってこそ真の意義があり、実相の存在が得られるのです。
ここに至る道が神の道、天道であります。
続く